第2話



 
 思いがけず、突然与えられた温も りにマヤは戸惑いを隠しきれない。あの真澄がこんな事をするなんて、想像もしていなかった。いつだってこの人は大人で、 冷静で、取り乱す事などないと勝手に思い込んでいた。もしかして自分が心配させるような態度を取ったから、こんな事をさせてしまったのでは、と不安が過 ぎった瞬間、真澄の口からありえない言葉がこぼれ落ちる。

「会いたかった──」

 耳元で掠れたその声を抱きしめ返すように、マヤの手がゆっくりと真澄の背中に触れる。

(私も会いたかったです──)

 心の中では確かにそう口にしたというのに、現実に口を突いて出た言葉は違うものだった。

「会えないって……、会っちゃいけないって……、ダメだって……、何度も何度も……」

 後は嗚咽が込み上げて言葉にならなかった。

「いいのかな……」

 触れる事をずっと我慢していた存在についに触れてしまった戸惑いから、そんな事を口にする。誰に対して、あるいは何に対して許しを求めているのかも分か らぬままに。

「いいだろ」

 迷いなく真澄はそう言い切った。
 その瞬間、自分はずっと実態のない視線に怯えるようにして、ここ数ヶ月を生きていたのだと気づく。愛する人の温もりと存在を諦めるまでに、自分で作った 殻の奥へと閉じこもっていたのだと……。






 強張った体を真澄がゆっくりと開いていく。
 この人に最後に抱かれ、柔らかな肌に包まれたのはあまりに遠い感覚だった。体の奥に確実に眠るその感覚に真澄が揺さぶりをかける。ずっと欲しくて、でも 諦めていたものだ。
 
 ふいに怖くなる。

(この人に全てを委ねると自分はどうなった? 確か自分は……)

 過去の自分のあられもない姿が脳裏をかすめ、不安が押し寄せる。

「待って──、速水さん、待って──」

 無駄な抵抗と分かっていて、真澄の腕に両手をつく。

「駄目だ。待たない」

 あっさりとそう否定されたが、だからと言ってそれを恐いとも思わなかった。速水真澄とはこういう男だったと思い出す。いつだって真っ直ぐに性急に、けれ ども乱暴とは違う強さで求めてくる。その強さに安心して自分は全てをこの人に委ねてきた。
 速水真澄という自分にとって完璧な大人の男の代名詞とも言える存在が、こんなつまらない子供のような存在の自分に対して、これほどまでに欲情していく様 を時々信じられない気 持ちで眺めながら……。
 そんな事を頭の片隅で考えていると大抵咎められる。

「何を考えている。俺の事だけ考えろ」

 真澄の額を伝う汗が好きだ。やがてうっすら濡れてくる肌の体温も、そこから匂い立つ肌の香りも、時折苦悩に満ちたように歪める表情も、何かをこらえるよ うに呼吸を落ち着かせる様も、全て好きだ。
 普段は精密機械のように完璧な人間に僅かにズレが生じていく瞬間を目の当たりにするようで、ゾクリと感じてしまう事がある。とてもそんな事は口に出来な いが、真澄が自分に対して欲情している瞬間こそが、マヤ自身をも狂わせていく。

 いつもなら幾らでも卑猥な言葉をわざと口にしては、マヤを困らせる真澄が今日は何も口にしなかった。そんな真澄に必死について行こうと、マヤは目の前の 硬い二の腕の筋肉にしがみつく。

「こらえるな……、声を聞かせてくれ」

 集中するあまり思わず唇を噛んで耐えてしまっていた事に気づく。真澄の舌がその要塞を取り崩すように、何度もキスで攻め立てる。

「あ……んっ……」

 ようやく声が漏れる。ずっと体内の奥深くにしまっていた声だ。真澄にしか聞かせた事のない声。真澄のいない日々、まるで鳴き方を忘れた小鳥のように、自 分はずっと鳥かごの中で虚ろに宙を見つめるばかりだった。

 舞台に立つ事 が出来なくなり数ヶ月。一日誰とも話す事もなく、会う事もない日々が当たり前に続き、自分でも少し病んでいるなとは思っていた。でもそれはシャワーで流せ る程度の憂鬱だとも思っていた。でもそれはそうではなかったと気付かされる。
 真澄に抱かれる事によって、ようやく体の全てに血が通い、全ての機能が動き始める感覚。
 演じる事からも、愛し合う事からも隔離されていた自分は、生きているのではなく、ただ死んでいないだけだったと今更気付かされた。









 真澄の指がゆっくりと髪の間を 通っていく。
 激しく乱れた呼吸が、元の速さを取り戻すように静まっていく様子をマヤは直接真澄の胸に耳をあて、聞いている。

「やっぱり会わないとダメだな……」

 ふいに真澄の声がそう呟き、マヤはその言葉の真意を伺うように胸元から顔を上げる。

「思い出すだけじゃダメだ。この手に抱いて、触れて、何度も確かめて、やっと少し安心できた」

 あの速水真澄の言葉とは思えず、驚いて思わずまじまじとその顔を見てしまった。

「大丈夫か?」

「え?」

「歯止めがきかなくて、無理をさせた。すまない」

 そう言って、額に柔らかなキスを一つ落とされる。

「だ、大丈夫です。丈夫に出来てるんでっ」

 思わず慌ててそんなふうに返すと、真澄は僅かに鼻孔から息を吐いて笑った。

「痩せたな……」

 唐突にそう言われ、マヤは上手く反応出来ずに戸惑う。

「えっと、あの……」

「一人で抱え込むな。そのために俺はいる。何でも相談して欲しい」

 この数ヶ月の自問自答を見透かされたようにそう言われ、抱きしめられる。心の奥にしまった言葉たちが、一つ、また一つと、強く抱きしめてくれた真澄の腕 に押し出されるようにこぼれ落ちる。

「つくづく生きていく上で、絶対に必要なものではないんだなって……、お芝居とか舞台とか、私達がやってる事って……。なくても生きていけるし、何かあっ たら真っ先に切られるもので、そういう存在だったんだなって、気づいてしまって……」

 真澄は否定するでもなく、肯定するでもなく、一定の速度でゆっくりと優しくマヤの髪を撫でている。

「もっと大変な人たちもいる。実際コロナになってしまった人とか、お店が潰れちゃった人とか、生きていくのも精一杯って人も沢山いて、そういう人たちの大 変さとか。それからお医者さんとか看護師さんとか、今現場で頑張ってる人たちの大変さとか辛さに比べたら、私のこの程度の辛さなんてって、分かってるんで すけど……」

 こらえようとしたが溢れ出る涙を止める事はどうやっても出来なかった。

「君の辛さは君だけのものだ。人と比べるものでもない。役者として舞台に立てない事がどれだけ辛い事なのか、俺なりに分かっているつもりだ」

 否定されなかった。それだけでマヤの胸の奥で、石のように固くなってしまっていた部分がようやく呼吸を取り戻す。

「そうやって大変なものを抱えて生きていた人たちが、君の芝居に救われる事もあったはずだ。君の芝居のおかげで、明日という日を生きられた人もいたはず だ。そんな君達が明日を生きられない事があってはならない。そのために俺はいる。心配するな。必ずまた舞台に立てる日はくる」

「はい……っ」

 しゃくりあげるようにしてマヤはこみ上げる全てを必死に堪える。この人が導く光をもう一度信じたいと、心からそう思えた。

「役者に限らず、舞台に立つ芸術家と呼ばれる人間は『想像力が人に希望を与える』ということを証明出来る存在だと俺は思っている。そしてマヤ……、これほ どの状況に置かれてもなお、君という存在は俺にとって希望そのものなんだ」
 
 絶望と闇が深ければ深いほど、その光は一筋の希望となって二人の前を照らす。お互いが光となれば、きっとこの先も歩いていけるはずだと、マヤは確信す る。
 ようやく訪れた安堵感に包まれ、その温かな腕の中で安心しきったようにマヤは久方ぶりの深い眠りへと落ちていった……。
 

 
 




 ようやく自らの腕の中で、穏やか な寝息を静かに繰り返す存在に真澄は安堵する。

 マヤにとって生きる事は演じる事だ。
 それを取り上げられて、どうしてまともに生きていく事ができよう。とっくに限界など超えていて、立っている事が出来る場所をはるかに超えた場所まで追い 込まれているのに気づけなかった事に、真澄は激しい自責の念を覚える。幾度となく眠れぬ夜明けを一人でこの部屋で迎えていたのか想像するだけで、叫びだし たくなるほどの激しい胸の痛みすら感じた。
 全てが手遅れになる前に、再びこの腕の中に繋ぎ止める事が出来た存在を、真澄は今一度確かめるように強く抱き寄せた。

 そして出来る事ならば永遠に自分の腕の中にとどめておきたいと、守り続けてやりたいと、それだけをひたすらに願う。
 想いが通じ合う前にずっと感じていたかつての依存や束縛とも違う。女優としての活躍と飛躍を誰よりも望む一方で、その小さな体を休められる場所でいつ だってありたいと、祈りにも似た気持ちで真澄は何度も願った……。






2020 . 11 . 04








…to be continued















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