第1話
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急に寒くなった。 まだ衣替えをしていなくて、慌ててそこらにあった薄い服を何枚か重ねたけれど、全然足りなかった。コートも必要だったし、こんな薄いストッキングのよう な生地の短いレースのソックスではなく、いっそタイツでも良かったぐらいだ。勿論それは、今も押入れのどこかに眠っているから、今ここでそう思ったところ で仕方の無い事なのだけれど。 マヤは着てきた服の爪先からてっぺんまで全部間違っていたと後悔しながら、出された熱い紅茶のカップを両手で包む。完全に暖を取っている状態だ。 大都芸能社長室──。 突然の呼び出しはいつものことだ。 紅天女の後継者に選ばれて以降、自然な流れで大都芸能に所属した。あっさりそう決めたマヤに対して、周囲は勿論、真澄自身も驚いてはいたが、自分は少し も驚いていなかった。もう随分前から決めていた事だったから……。 所属の女優になれば、少しは会えたりするのかと思っていた。 仕事のついででも何でも、きっと日常的にもっと会えるようになるのだと、勝手に思い込んでいた。 実際は真澄なしでも仕事のすべては至って円滑に進み、勿論、その裏の部分では真澄ならではの采配や根回し的なものがきっと存在するのだろうけれど、マヤ 自身がそれを直接目にする事もなければ、肌で感じるような機会もなかった。 ただ、自分から真澄を指名して会いに行くような事もなかったが、真澄のほうがマヤをこうして呼び出す事はよくあった。 ”大都芸能のカレンダーが出来たから取りに来い” ”出演舞台の大入り満員のご褒美に、金一封を配るので取りに来い” ”メロンが届いたから取りに来い” ”ドーナツショップの無料チケットが明日までなので取りに来い” 仕事とは言えないような、ましてや真澄でなくてもいいことで度々呼び出されては、文句を言いながらマヤはここに来る。 「そんな突然呼び出されても困ります。あたしにだって予定が──」 ドタキャンならぬドタ呼び出しばかりされるので、ついそんなふうに噛み付いてみたりもするが、実際、来なかった事など一度もない。いつだって全速力 で、誰よりも速く駆けつけてしまう。 「今日、予定がないのは知っている。俺を誰だと思っているんだ」 そう言って、最後に勝ち誇ったように所属事務所の社長が笑うのもいつものことだった。 今日は、公演が再開されたミュージカルの招待券があるので取りに来い、というこれまた絶対にマヤが断る訳がない理由での呼び出しだ。 すでに出先での呼び出しだったのでそのまま来た。だからこんな適当な格好なのだ。真澄に会うと分かっていたら、最初からちゃんと衣替えした秋冬服を着て きたし、コートだって羽織っていたし、タイツだってきっと履いた。すっかり冷えた足をすり合わせながら、ブツブツと心の中でマヤは文句を言う。 通された応接室に真澄が来る気配はまだない。後ろの扉の向こうの社長室からは時折、真澄の声が聞こえてくるので、おそらく商談の電話でもしているのだろ う。特段、この後予定がある訳でもないマヤは、また一口、紅茶をすする。 真澄の電話がまだ終わりそうにもないのを察すると、ふと気になってバッグに手を伸ばす。 財布を取り出し、カード入れを部分を見ると、昨日までは存在しなかったものが確かにそこにあった。 (夢じゃなかった──) ホッとしながら、改めて確認するようにマヤはそれを取り出してみる。 運転免許証──。 青い文字でそう書かれたそこには、水色の無機質な背景を背に、笑ったらいいのか、笑ってはいけないのか、迷っている間にシャッターを押された、中途半端 に間抜けな顔の自分がいる。 (ヘンな顔) そう声に出そうになった瞬間、背後の声が代弁する。 「これはまた酷い間の抜けた顔だな」 背中越しに取り上げられた免許証を取り戻そうと慌てて振り返ると、真澄は手の中のそれをまじまじと見つめた後、笑った。 「鮫洲の試験場のカメラマンは絶 妙なタイミングでシャッターを押すと聞いたが、噂は本当で見事なもんだな。寝ないで試験にでも行ったのか?」 眠たそうな目の事を言われてるのだとすぐに分かったが、当然そんな嫌味には全力で反論する。ここで負けては絶対にならない。 「は? 何言ってるんですか? 免許証の写真なんて、みんな似たようなもんじゃないですか。綺麗に写る人なんて亜弓さんぐらいで、誰だってブッサイクに写るのなんて当たり前です。そこまで言うなら速水さんの見せて下さい」 奪い返した免許証を財布にしまうと、マヤは当然とでも言うように真澄に向けて手のひらを差し出す。 真澄は特段ためらう様子も見せず、ポケットの内側から財布を取り出すと、どうぞとでも言うようにマヤに渡す。 「……うっそ、何これ、超イケメンじゃないですか。何でこんなふうに写るんですか? 何やったらこういうふうに、試験場のブサイクカメラに写れるんです か?」 何を言ってるんだか、とでも言うように呆れる真澄をよそに、文句を言いながらしばらく免許証を凝視していたマヤの視線が、ある一点に釘付けになる。 【昭和○○年 11月3日生】 氏名の横に書かれたそれは、当然、生年月日である訳だが、それが今日である事は想定外過ぎた。 「えっと……、速水さん、こんな事してていいんですか?」 「何がだ?」 返された免許証を財布にしまいながら、真澄が訝しげに聞き返す。 「だから、ここでこんな事してないで、今日この後、予定とかあるんじゃないですか?」 「今日の予定は特に無い。もっとも、君がここに来てくれたのでこれが予定だ」 (頭おかしいんじゃないですか?) かろうじてその言葉は飲み込んだが、マヤは奇異なものでも見るように真澄を凝視する。 一年に一度の誕生日だというのに、ほとんど人のいない祝日のオフィスで一人仕事をして、あげくの果てには些細な用事で所属のチンチクリンの女優を呼び出 し、これが予定のすべてだという。 (誕生日の日の予定がこれ!!) 絶句するしかない。 不意にマヤの中に、得体の知れないものが立ち上がる。不穏なものではないが、制御できそうにもない欲求だ。次の瞬間、もうそれを口にしていた。 「どっか行きませんか?」 いつだって自分は突拍子もない。 それは昔からの癖だ。 多分それは、大人の思慮深さとは真逆のもので、あまり良くない事だと分かっている。 けれども、ずっと好きだった人が生まれた日が今日だと知り、そしてその夜をあまりにもぞんざいにやり過ごそうとしている後姿にすがらずにはいられない。 「どっか行きましょう。出来れば私の運転で」 まるで自分のすぐ 脇を通り抜けていくその人のコートの端を掴むかのように、マヤの口からそれはこぼれ落ちた。 2021 . 11 . 03 …to be continued
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