第2話



 
「えっと……、やっぱりやめませんか?」

「今更何を言ってるんだ。早く乗れ」

 そう言って、真澄がドアを開けて乗り込むように促したのは助手席ではなく、運転席側のドアだ。

「さ、さっきは勢いであんな事言いましたけど、よく考えみたら、あたし数時間前に免許取ったばっかりですし、それに教習所の車しか運転した事なくて、あの 車なら運転できるとは思うんですけど、さすがに速水さんの車っていうのは……」
 
 ぶつけてしまったら、一体いくら修理に掛かるのか想像もつかない。車の値段も、修理の値段もさっぱり分からないが、この異様に艶のある美しい黒い車がと ても高価な物である事ぐらいはさすがのマヤにも分かる。そもそも真澄の大切な車に傷をつけるなど絶対にしたくない。

「そうやってすぐに乗らないと、結局怖くなるばかりでいつまでも乗れなくなって、最終的に人はペーパードライバーになるんだ。現に今、君は車を持っていな いのだろう? 乗る当てはあるのか?」

 すぐにもっともらしい事を言って詰めてくるのが、昔からこの人の癖だ。

「そ、そうですけど、でも──」

「誰にだって初めてはある。心配するな、俺が隣にいる。一人で乗るよりいい」

 不覚にもその言葉にストンと納得させられてしまい、マヤはついに運転席へと乗り込んだ。

 本当にこれも同じ車なのかと叫びだしたくなるほど、教習所の車と何もかも違うように見えたが、真澄から一通り操作を教わり、試しに何度か操作を繰り返す うちに心も落ち着いてきた。

(大丈夫そう──)

 ピンチの時に限って顔を出す、あの例の根拠のない自信がまた湧き上がる。
 二人を乗せた車は夜の東京の街中へ、ゆっくりと走り出す。
 






「車は買うつもりなのか?」

「あ、はい。紅天女のギャラで何か記念に大きいもの買いたいなってずっと思ってて、車もいいかなぁって」

 最初は気が散るから喋りかけるなと叫んでいたマヤだが、真澄はお構いなしに話しかけてきた。答えているうちに、緊張で強張った手の汗が次第に引いてい く。きっと敢えて話しかけているのだと、後で気づいた。

「どんな車が欲しいんだ?」

「出来れば教習所と同じ車がいいなって。じゃないと縦列駐車とか出来なさそうで」

 真澄がクスクスと笑っている。

「今、違う車を運転しているじゃないか。大丈夫だろ?」

「いや、だから縦列駐車が──」

「縦列駐車もこの車で出来るようになるまで付き合ってやるから心配するな」

 ──付き合ってやる。

 サラリと言われただけの言葉だと分かっていても、とんでもない事を言われた気がして、マヤの心臓は飛び上がりそうになる。この人の言葉はこうやって時 々、不用意に人の心を想定外の方向から突いてくるからたまらない。

「あ、あと、中古がいいです。ぶつけても気にならないし、絶対あたしぶつけると思うんですよね」

 笑われるかと思ったら今度はピシャリと封じられた。

「逆だ。ぶつけてもいいと思うからぶつける。大事にしなくてもいいと思えば、それなりの扱いになる。人も車も一緒だ」

 含みのあるその言い方に驚いて、一瞬、チラリと横目で真澄を見ると、窓枠についた肘で頭を支えながら、窓の向こうの遠くを見ていた。

「なんですか、それ……。人も車も、とか話、大きくなってないですか?」

「婚約破棄された男だぞ。大体分かるだろ」

 
窓の向こうから目線を戻した真 澄が、小さく笑う。

「大切なふり、愛してるふりは出来たが、本当に大切にする事も愛する事も出来なかった。だからふられたんだ」

 自虐的にそう言って、マヤの笑いを誘おうとしたのかもしれないが、少しも笑えなかった。逆に突然そんな事を言われて、なんと答えるのが正解なのか、あま りにも経験値の少ない自分には分かりようもなかった。

「まだ……、引きずってますか?」
 
 口に出した後で、それは間違っていたと気づいたが遅かった。そんな事を聞いてどうするのだ。

「いや、全く」

 意外にも真澄はためらう様子もなくさっぱりと、そう答えた。

「だが、婚約破棄そのものに関しては、会社にも周囲の人間にも、迷惑をかけた事は間違いない。その事後処理だけは、まだ引きずっているがな」

「なんか、仕事みたいに言うんですね」

「実際仕事だ」

 躊躇なく真澄にそう言い切られ、マヤは戸惑う。いつもだったら、これ以上深く踏み込んではいけない、と脳裏で警笛が鳴り、諦めて退散するか、あるいは真 澄にはぐらされるか、そのどちらかだ。もしくは

「社長、お時間です」

そう呼びかける秘書の無情なタイムアウトか。

 でもここは違う。この車の中では、違う時間が流れている。目的の場所に着くまで、この車の中には二人しかいない。一歩踏み込んだところで、真澄が一歩後 ろずさる事もきっとない。
 信号が青に変わると、マヤはアクセルを踏み込んだ。

「それは、速水さんにとって『結婚』は仕事だ、っていう意味ですか?」

 間ができる。
 車窓に246の街路樹が何本も流れていく。
 もしも「そうだ」と答えられたら、やはり自分は真澄を諦めなければいけない運命なのだとマヤは思う。
 答を待つ間のほんの数十秒の時間が、永遠を刻む、鉛の針の重さにすら感じる。

「違うな……。あの政略結婚は仕事だった、という意味だ」

 瞬時に言葉の意味が飲み込めず、マヤは沈黙したまま、まっすぐ運転席前の窓ガラスを凝視する。

「だが……、そういう『仕事』はもうしない」

「もう、仕事では結婚しない、って意味ですか?」

「そうだな」

「じゃぁ、『仕事』じゃない結婚はするって事ですか?」

 妙に食いついてくるマヤに対して、訝しく思ったのかもしれない。何でそんなに食いついてくるんだとでも言うように真澄が笑う。

「するかもしれないな」

「それは……、する予定がある、って事ですか?」

「チビちゃんがそんなに俺の結婚の予定を知りたがるなんて珍しいな。どういう風の吹き回しだ」

 踏み込みすぎたかもしれない──。
 ハンドルを握る手に汗を感じる。

(はぐらかされる──)

 そう思った瞬間、意外な声がマヤを捉える。

「諦めてはいない。いつか出来たらいいと思ってる」

(どんな人とですか?)

 さすがにそれは飲み込んだ。特別な時間が流れるこの車の中であったとしても、真澄はもうこれ以上は答えてはくれないだろう。それだけはさすがのマヤにも 分かった。

「出来るといいですね、『仕事』じゃない結婚。速水さん、仕事中毒だから、生活に癒やしみたいなの、絶対あったほうがいいですよ。うん、可愛い奥さんと か、絶対いたほうがいい」

 まるで自分自身に言い聞かせるようなその言葉に、我ながら涙しそうになるが、そんな空気はおくびにも出さない。

「可愛い奥さんか……」

 再び窓の外に視線をやった真澄が、喉に引っかかる何かを飲み込むように、そう呟いた……。



 







2021 . 11 . 08








…to be continued















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