第4話



「着きました」

 まだスマートに車を停められず、妙に小刻みな急ブレーキを三回繰り返して、不格好な形で車体は停まった。
 緊張が解かれ、マヤは全身から全ての集中力と緊張感をかき集めて一気に手放したような深い息を吐く。ハンドルから手を離しても、手は湾曲したハンドルの 形に固定されたままだった。

「大冒険だったな。よくやった」

 真澄が柔らかく笑いながら、まるで小さな子供の頭を撫でるように、あの温かな手のひらで頭に触れる。深い意味はなくとも、こうして自然に触れられる距離 ──。その近さに、一瞬胸の奥が苦しくなる。

「ここ……、穴場なんです。ガイドブックとかネットの観光案内とかにも載ってないし、有名な名所からは全部離れてて。ほんとにただの小さな公園なんですけ ど、凄く夜景が綺麗に見えて──」

 空気を入れ替えるように、マヤは少し早口にそう口にすると、シートベルトを外し車外へと出る。シンと静まり返った住宅街の小さな公園に、車のドアが閉ま る音だけが響いた。

「あはは……、全然変わってない」

 小高い丘の頂上にある公園の柵の手すりに手を掛けると、目の前に横浜の街の夜景が広がる。革靴が砂利を踏みしめる音が背後から聞こえ、すぐそばに真澄が 来た事を気配で感じる。

「そうか、君はこの街で生まれ育ったんだったな」

 すぐ隣に立った真澄が、眼下に広がる横浜の街が放つ眩い景色を同じように見つめる。

「あれがインターコンチでしたっけ?」

 港の側の特徴的な曲線を描く高層ビルをマヤは指差す。あのホテルだけはすぐに分かる。よく似た夜景の写真を見る時も、観覧車とインターコンチネンタルホ テルの外観のセットで、横浜かどうかの見分けをつけているぐらいだ。

「そうだな」

「あれ? そのすぐ側のあの大きなガラス張りのビルはなんだろう?初めて見たかも」

「あれは、ザ・カハラだな。つい最近、リゾートトラストが日本で初めてオープンさせた、ハワイの高級リゾートホテルだ」

 横浜にはすでに幾つもの高級ホテルが立ち並んでいるはずだが、まだまだ開発されていたと聞いてマヤは驚く。

「へぇ……。私は横浜に住んでた頃なんて、そもそもホテルなんて全く縁がなかったし、今だって東京から横浜に泊まりに行く事なんてまずないから、全然知 りませんでした。
さすが速水さん、何でも知ってるんですね

 マヤは素直に感嘆の声を上げる。

 改めて横浜の街を、マヤは眺める。そういう一つひとつの小さな違いではなく、全体を俯瞰するように。
 自分の生まれ育った街を、もうそこにはいない自分がこうして見ているというのは、懐かしさの他に小さな疎外感も感じる、妙な気持ちだった。

「十年ぶりです……。十年ぶりに来ました、ここに。この十 年で私はこんなに変わったのに、この場所もこの景色も全然変わってなくて……」

 上手く言葉にならならない。
 変わっていないように見えるこの街も、きっと沢山変わった所はある。新しいホテルが建ったように、きっと新しい家も沢山建ち、自分のようにこの街を去っ た者がいて、また多くの新しい家族が移り住んだに違いない。店の入れ替わりもきっと沢山あったはずだ
 そんな小さな違いは数あれど、こうして少し遠くから離れて見てしまえば、そんな些細な相違や変化は全て飲み込まれてしまったかのように、その景色は十年 前と変わらぬまばゆさで光を放つ。


 何も変わっていない。
 けれどもこの街に、母はもう居ない。そしてこの街以外のどこにもいないのだ……。
  確実に流れ去った時を前に、マヤは呆然とする。

「子供の頃、よく来てたんです、ここ。途中、坂道が中々きついんですけど、車ならすぐ来られちゃった」

 そう言ってマヤは夜景を背に振り返ると、ゆっくりと公園内に目をやる。
 ぞうの滑り台、縁石で囲われた砂場、握ると手が鉄臭くなった鉄棒……。錆びついたブランコはさすがに新しいものになっていた。
 
「よくここで近所の子に一人芝居して見せたりして遊んでました。一人芝居とも言えないレベルのものですけど、テレビで見たドラマとかを一人で全役やって見 せるの。滑り台も砂場も、全部、私にとっては舞台でした」

 懐かしさが胸にこみ上げた瞬間、立て続けに小さなクシャミを三回した。真澄が自らのジャケットを直ぐに脱ぐと、当たり前のようにマヤの肩に掛けた。

「え? す、すみません! 大丈夫です、速水さん、寒くなっちゃうじゃないですか」

 慌てて返そうとしたが、

「女優に風邪を引かせたら困るのは社長の方だ」

そう言われて、どうにもならず「すみません」ともう一度小さな声でマヤはそう言うと、今にも肩から落ちてしまいそうな大きなジャケットの端をそっと握っ た。

「なんでそんな薄着なんだ」

「まだ、衣替えしてなくって……、適当に着てきたら、めちゃ薄着でした」

 真澄が隣で笑っている。

「だって最近までずっと暑かったじゃないですか。そしたら突然寒くなって、いつの間にかとっくに秋っていうかむしろ冬?みたいな感じになって……」

「君も同じだ」

 真澄の唐突な言葉に、マヤは訝しげに振り返る。

「ついこの間まで子供だと思っていたのに、急に大人になった」

 幼い頃の自分の姿でも重ねているのだろうか。じっとこちらを見る真澄の視線が、マヤの中の何かを探しているように見えた。

「もうチビちゃんとは確かに呼べないな」

 唐突に悟る。
 その時が来たのだと。
 いよいよ終わりが来たのだと。
 もうこの人のチビちゃんでは居られなくなる瞬間が……。

 マヤは胸元で合わせるように掴んでいた真澄のジャケットを握る手にグッと力を入れる。

『これからはちゃんと言います。嬉しかったら、嬉しかったって。感謝したら、ありがとうございますって、これからはちゃんと自分の気持ち、伝えます』

 つい先程、確かに自分が口にした言葉が蘇る。これまでの全ての事に対する想いを伝えるとしたら今しかない。

「子供の頃この公園で遊んでて、夜になると、一つまた一つと灯りが点いていって……、こんな夜景が目の間に広がっていくのだけど。夜景って……、本当は夜 景っていう一つの単位じゃなくて、一つ一つの灯りの中に家族や人の暮らしがあるんだなって、そう思うと、急になんかこう寂しくなって、あ、あたしも帰らな きゃって、慌てて駆け出すんです」

 目の前に、自分が生まれ育った街の暮らしの営みが広がっている。その一つ一つは、本来とても小さな暖かな灯りだったはずだ。

「中華街の中で育つと、夜景の中で育つようなもんで、夜景がどう見えるかとか、どうキレイなのかとか気づけないじゃないですか。こうやって距離をおいて、 遠くから見て、やっと分かる事もあるんだな、って」

 自分が何を言おうとしているのか、上手く伝えられているのか、全く自信がなかったが、それでも真澄が黙って耳を傾けてくれている事だけを支えに、マヤは 言葉を紡いでいく。

「速水さんの事も同じです。ずっと近くにいた時は、なんでこんな意地悪なんだろうとか、なんでこんなにムカつく人なんだろうとか、そんな事ばかりで……」

「それは実際そうだったから仕方ないんじゃないのか?」

「そうだったんですか?」

 畳み掛けるようなマヤのその問いには答えず、真澄は黙ってタバコに火を付けた。それはこの問いには答えないという意味だった。

「あなたのわかりやすい意地悪な言動に振り回されて、その後ろにあった優しさや思いやりにずっと気づけずにいました。恥ずかしい話、こんな大人になるまで 全く……。疑いもせずあなたの事、恨んだり嫌ったりして大声あげたり暴れたり……、今思い出しても恥ずかしい」

 過去の数々の出来事を思い出す時、不意に叫びだしたくなる事がある。その痛みは年を追うごとに酷くなっている気すらする。

「俺は君に対して、理由はどうあれ、確かにひどい事ばかりした。君がそんなふうに今になって気持ちを改める必要は全くない。ただ……」

 そこまで言うと、真澄は携帯灰皿にタバコを押し付け、深く紫煙を吐いた。まるで体の中身を入れ替えるかのように。

「ただ……、俺自身は君の事を嫌ったり、邪魔だと思った事は一度もない。本当だ。むしろ、ずっと君を見ていたし、君の芝居をいつだって楽しんでいた。君が 役を通して成長していくのを見るのは何よりも幸せだった。だから俺は──」

 そこで真澄は急に言葉を失う。まるで吊橋の途中で、続きがない事に気づいて立ち止まるかのように。

 マヤは深々と頭を下げた。

「今まで本当にありがとうございました。ここまで来られて、紅天女になれて、女優になれたのも、速水さんのおかげです。ずっと私の事見ててくれた、あなた のおかげです。ありがとうございました」

「どうしたんだ急に──」

「今日、お誕生日ですよね?」

 明後日の方向から飛んできた石に驚くように、真澄の表情が固まる。

「さっき、社長室で免許証見せて貰った時に、今日が誕生日だって知って、それで……」

 真澄が苦笑を漏らしながら、クシャリと自らの前髪を掴む。どうやら完全にサプライズにはなったようだ。

「私はこの歳になっても同じ歳ぐらいの女の子が知ってるような事、何も知らないから、速水さんみたいな大人の男の人が喜ぶようなプレゼントを用意したり、 速水さんの誕生日をお祝いするにふさわしいような素敵なレストランにも連れていけないから……。だから私が今まで生きてきた中で知っている、一番綺麗な景 色を見せてあげたくて、それから今の私がどれだけあなたに感謝しているか、それを伝えたくて……。それぐらいしか、私出来ないから……」

 そこまで言って、胸がいっぱいになってしまい、続きが出てこなくなる。

「なんか……、あの、変なプレゼントでごめんなさい。あは、プレゼントにもなってないかな」

 無理にそう言って作り笑いの顔を上げると、まっすぐ真剣な瞳がこちらをじっと見ていた。

「毎年、誕生日の事は考えないようにしていた。祝う歳でもないし、自分自身思い入れもない。祝われた記憶もなければ、楽しみにした覚えも特に無い。だ が……、心のどこかで何か思ってたのかもしれないな。
大した用もないのに君をわざわざ会社に呼び出した。君がこんな事を言い出さなければ、食事にでも誘っていたかもしれない」

 思ってもみなかった真澄の言葉に驚いて、今度はこちらが固まっていると、困ったような表情の真澄と目が合った。

「何が言いたいんだ?という顔をしているな。分かってる。自分でも何を言おうとしているのか……」

 真澄の中で何かを逡巡する間があったのが分かる。葛藤の波のようなものが湧き上がり、やがてそれが静かに凪ぐまでの時間。
 永遠のようにも感じられる時間。
 けれども確かに、今目の前にいる真澄と自分が繋がっていると思える時間。
 手を伸ばせば、触れられる距離。
 その全てをマヤは愛おしく思う。たとえ、もう間もなく、その全てが自分の指の間から砂のように跡形もなく零れ落ちたとしても、それでも一生分の想いで愛 おしく思えた。

「ずっと君を見ていた。ずっとだ」

 何度も紫のバラのカードに添えられたあの言葉が、今目の前で蘇る。

「紫のバラとして、影として、ずっと君を見ていた」

 その言葉に弾かれたようにマヤは走り出す。ずっと望んでいたように、何度も夢見たように、ためらう事なく、その胸の中に飛び込む。

「待ってました、ずっと。いつかそう言ってくれるって、あたしずっと待ってました」

「知ってたのか?」

 驚いたような真澄の声が、上からマヤを包む。それ以上は言葉にならなくて、マヤはコクコクと真澄の腕の中で頷く。

「いつからだ?」

「話長くなるから、後で話します」

 今はこのぬくもりをひとときも離したくなくて、マヤは真澄の背中に回した腕に力を込める。
 真澄が天を見上げ、大きく息を吐いたのが伝わる。けれどもそれは、深い陰鬱なため息とは違う伝わり方だった。

「それからもう一つ」

 まだ何かあるのかと驚いて、マヤは下から真澄の顔を見上げる。

「ずっと君が好きだった」

 今度はマヤが深く息を吸い込んだまま固まってしまう。吐かなければ死んでしまうというのに、上手く呼吸が出来ない。

「これは知らなかっただろう?」

 いたずらっぽく笑う真澄に対して、やっぱり何も言葉にはならず、マヤはコクコクと必死に頷く。

「私も、速水さんがずっと知らなかった事あります」

「なんだ?」

「私もずっとあなたが好きでした」

 今度は真澄の息が一瞬止まったのが、大きく見開かれたこちらを見下ろす瞳から伝わる。

「いつからだ?」

「それも長くなるから、後で話します」

 そう答えると、真澄がふわりと笑う。

「そうだな、時間はいくらでもある。この先、いくらでも……」

 真澄の冷たい指先が、マヤの顎先に触れる。

「今はこちらが先だ」

 互いの凍えるように冷えた唇が重なる。
 キスをする時は目を閉じなければいけないはずだ──、慌てて目を瞑ろうとした瞬間、視界の端に映った横浜の街の夜景から、光が洪水のように溢れて滲む。 マヤの眼尻から涙が一筋伝い落ちる。

「もう二度と離さない」

 唇を離すと、こぼれる吐息の隙間から、真澄がそう囁く。
 マヤの頬を手の平で包む真澄の親指が、涙をそっと拭う。

「お誕生日、おめでとうございます」

 溢れ出る涙と、とめどないシャックリの隙間から、出来うる限りの笑顔でマヤはそう伝える。自分でもメチャクチャだとは思う。けれどもこれだけは伝えない といけない。

「ずっとあなたには幸せになって欲しいと思ってました。いつもいつも自分の事にはビックリするくらぞんざいで、全然大事にしてなくて、今日だって一年に一 度しかない自分の誕生日だって言うのに、祝日の誰もいない会社で仕事とか一人でしてて、おまけにあたしなんかを呼び出して、それでこれが予定の全てだなんて言っ て、あたし、速水さん頭おかしいんじゃないかと思いました」
 
 捲し立てるようにそう言うと、また大きなシャックリが一つ出た。

「幸せになれるとは思っていなかった。なる資格があるとも思えなかったし、感じた事もなかったから、それがどういうものかもよく分かっていなかったんだ。 でも……」

 マヤの瞳に映る己の姿に言い聞かせるように真澄は言う。

「もしも人生で一度だけ、何かを望む事が許されるなら、今夜、俺は君を望む。欲しいのは君だけだ。君こそが俺の幸せの全てなんだ」

 その言葉にあらん限りの力でマヤは真澄に抱きつく。
 真澄が”幸せの全てだ”と言った存在を、できるだけ強く感じられるように。
 もう二度と手放す事のない存在だと信じて貰えるように。

 再び、二人の唇が求め合うように重なる。一度目よりも長く、深く。

「幸せだ……」

 決して手に入れる事はないとずっと諦めながらも、本当に諦める事などどうしたって出来なかった存在を、真澄はいつまでも強く抱きしめた。





「速水さん、中華食べて帰りませんか?すっごい美味しいお店あるんです。めっちゃ汚いですけど」

「いいな、絶対美味そうだ」

 クスクスと笑い合いながら、二人は手を取り合って歩き出す。
 幼い頃、暖かいと感じた、あの夜景の中の一つになるのだと、マヤはふと思う。真澄とともに、あの光の中に溶け込むように、この街に回帰する。


 また一つ、横浜の街に小さな暖かな灯りが点った……。

 

 







2021 . 11 . 11








FIN










励みになります!

拍手



  back /novels top/ home