第3話



 
「どこに行くつもりなんだ?」

 当然と言えば当然の質問を助手席からされる。いやむしろもっと早くに聞かれてもおかしくなかったのだが、最初にカーナビを入れる時にざっくりとした地名 を入れたので、バレているのだと勝手に思っていた。

「横浜です」

「それならそろそろ高速に乗ったほうがいいんじゃないか?」

 横浜、という現在地から離れた唐突な地名を聞いても、真澄は特段驚くような素振りも見せず、冷静に言った。

「それなんですけど……、やっぱり高速めっちゃ怖いから、ずっと下道で行っちゃダメですか?」

「おいおい、君のその運転で下道で行ったら朝になるぞ」

 呆れたように真澄が笑う。

「えぇぇぇぇ、でもやっぱり怖いですよぉ。教習所でもシミュレーターやっただけで、実地はやってないんです。だから生まれて初めてなんです。死ぬかもしれ ません」

 どこかに行こうと誘っておきながら、勝手に横浜に行くと決め、そのルートの算段まで考えてなかった自分が我ながら情けなくなる。ここまでは何とかなった が、さすがに高速は無理だ。怖すぎる。真澄に代わって貰おうと、その提案が口をつきかけた瞬間、真澄が遮る。

「一度乗ってしまえば、信号で止まる事も何度も曲がる事もない。流れに乗ってずっと真っ直ぐだ。むしろ下道より安全なぐらいだ。スピードは出さなくてい い。乗ってみろ」

 それでもまだウジウジと悩んでいると、穏やかな低い声が促す。

「俺がついている。大丈夫だ」

 その言葉が何かのトリガーになったかのように、マヤは冷静になると、静かにウィンカーを出して、標識が指し示す高速の入り口へと進む。

(もう戻れない──)

 そう思ったけれど、不思議と心は穏やかで、緊張感はあるけれど嫌な感じではなかった。
 ふと何かに似ていると、体が感覚でデジャヴュを訴える──。
 舞台の袖で真澄に

「行ってこい」

と声を掛けられ出て行く、あの感じに似ていた。
 一度舞台に出てしまえば、もう何があっても戻る事は出来ない。けれども恐怖よりも前進する気持ちがいつだって優先される。眩い照明の光を前に足が竦む事 があっても、真澄の大きな手のひらが背中を押してくれた、あの感触が確かに蘇る。
 舞台の後はいつも興奮してしまって、御礼を言うのも忘れ、そう言えば一度もちゃんと言った事もない。

「ありがとうございます」

「何がだ?」

 窓枠に肘をついた真澄が、訝しげに少し顎を上げる。

「乗れました、高速。速水さんが大丈夫だって言ってくれたから、乗れました」

「それは良かった」

 そんな事か、とでも言うように真澄が笑う。

「今日だけじゃないです。いつもそうでした」

 再び真澄が、心当たりがないとでも言うように、少しだけ眉間にシワを寄せ、訝しげな表情を見せる。

「大きな舞台に出る時とか、緊張で足が竦んで怖くなってると、速水さんよく背中を押してくれました。今みたいに、『大丈夫だ、俺が見てる』って」

 急に走馬灯のように、古い記憶が蘇る。酷くいびつに割れたガラスの破片のような鋭利さと、鈍い痛みすら伴って。

「速水さんもう覚えてないかもしれないけれど……、私がお芝居を辞めるって言って、最後の舞台と決めて出た夜叉姫物語の時も、そうしてくれました」

 視線をやらなくても、気配で助手席の真澄が息を呑んだのが分かる。あの頃は自分の置かれた状況や気持ちだけにいっぱいいっぱいで、どれだけ真澄や大都に 迷惑を掛けたのかも、よく考えた事も思い及んだ事もなかった事に今更気づく。

「あの時は、あなたの事が嫌で嫌で仕方なくて、そんなふうにされても何とも思わないどころか、むしろ嫌だったぐらい、私は幼くて強情で未熟で……。でも、 あの時ああやって、速水さんが送り出してくれなかったら、もう一度演じる事だって出来なかっただろうし、今こうやって紅天女になる事も出来なかったなっ て……。紅天女の初舞台の時も、そうやって背中を押してくれました。背中を押すって、比喩としてよく言うけれど、そうじゃなくて速水さんの場合、本当に手 でこう、ぐって押してくれて……、あたしそれ、凄く好きなんです。落ち着くし、勇気や力を貰える感じがして、一人だけど一人じゃないっていうか、舞台の向 こうとこっちで繋がってるっていうか……」

 急に沢山喋りすぎた事に気づいて、マヤはハッと我に返る。恐る恐る真澄の方を横目で見ると、驚いたようにこちらを凝視していた。

「君がそんなふうに思ってくれていたとは思わなかった」

「言ったことなかったですから」

 急に猛烈な照れが襲ってきて、マヤは少しおどける。

「これからはちゃんと言います。嬉しかったら、嬉しかったって。感謝したら、ありがとうございますって、これからはちゃんと自分の気持ち、伝えます」

 真澄は想定外に口に入れられた飴の味でも確かめるように、しばらく呆然とした後、ゆっくりと苦笑いのような表情を浮かべた。

「それはありがたいな。いつのまにかゲジゲジやら、冷血漢枠からは卒業できたという事か」

 その言い方と笑い方から、真澄がにわかに照れているのが伝わってきた。あの真澄でもそんな表情をするのかと、ほんの少し意外にマヤは隣で思った……。









「そもそもどうして急に、免許なんて取る気になったんだ?」

 東名高速を軽快に走り抜ける黒い艷やかな車は、多摩川を渡る。

「車ってね、思ったよりもずっと遠くまで行けるのよ」

 少し大人びた声でマヤはそう言ってみせる。唐突なそれに真澄が首をかしげる。

「最近出たドラマにあったセリフです。最近の若い子は、車も持たないし、免許も取らないし、欲しいとも思わない。なくても生活できるとか言うけれど、車っ てそういうだけのものじゃないでしょ、みたいな大人の女のセリフです」
 
 マヤは笑いながら答える。

 思ったよりもずっと遠くまで──。

 それが物理的な距離の意味合いだけでない事は明らかだ。現に自分は今こうして、あの真澄と二人っきりで、これだけの近さで時間と距離を共有している。
 会社の廊下で会っても挨拶するだけで通り過ぎるあの日常からは、間違いなくずっと遠くまで来ている。

「それから最近、電車で移動すると気づかれちゃうことも多くて……。ありがたいんですけど、あたし、全然オシャレでもないし、普通過ぎて、ガッカリさせ ちゃって申し訳ないなって」

「そこじゃないだろ。普通は囲まれて鬱陶しいとか、気づかれて落ち着かないとか……」

 真澄が鼻腔から思わず息を漏らして笑う。

「大都の運転手はどうした? 送迎を付けているはずだが」

「あ、お仕事の時は勿論お願いしてますよ。でもプライベートの時は自分で移動するしかないじゃないですか。毎回タクシー呼ぶのもお金もったいないし、コロ ナの時も『車あったらなー、免許あったらなー』って何度も思ったんです」

「なるほど……」

 納得したように、真澄が頷く。

「チビちゃんもいつの間にか、大人になったという事だな」
 
 感慨深げにそう呟かれる。

「そうですよ、車の免許だって取れるし、こうやって遠くに行く事だって出来るんですから。だからチビちゃんなんて呼ばないで下さいって、もう何度も 言ってますよね!」

 わざとプリプリと怒りの粉を振りかけた声で叫ぶ。
 でも本当はもう怒ってなんかいない。本当に子供だった頃は、チビちゃんと呼ばれる事にいつも苛立ってい た。

「あたし、チビちゃんじゃありませんっ!」

 キャンキャンと叫ぶ、子犬の鳴き声のような自分の声が脳裏に蘇り、マヤは苦笑する。
 
 チビちゃん──。
 そう呼ばれる事は、名残みたいなものだった。幼いまま、無邪気に何も知らずに真澄といる事が許された時代への名残。

 本当にチビで平凡で、何の取り柄もなく、何者でもなかった十三歳の頃にこの人と出会ってしまった自分が、ここまで辿り着いて、今こうして車の中で隣に 座っている。しかも運転しているのは、真澄ではなく自分なのだ。

 チビちゃん──。

 大人になっても、この先もずっと、この人の隣に自分の居場所があるとは思えない。
 だったら、あとほんの少しだけでも、この人にとって特別な存在である”チビちゃん”でいたいとマヤは祈るように思う。

「何度も言いますけど、あたしもう、チビちゃんじゃありませんから」

 心とは裏腹に、そんな強がりが口をついて出た。

 







2021 . 11 . 09








…to be continued















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