第1話
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お世辞にも綺麗とは言い難い、極狭の雑多な店内。怒っている訳ではないのだろうが、やたらとオーダーを大声で叫ぶ中国人の女将の声が、店内に響き渡る。 それに答える厨房の店主の中国語も、呼応するかのごとく怒っているように聞こえるがこれが普通なのだろう。 食器がせわしなくぶつかる音や中華鍋を激しく叩く音につられ、自然と店内の客の声も大きくなる。声が大きくなると気も大きくなるのか、マヤが紹興酒を煽 るスピードもなぜだか速くなっていた。 「速水さん、もう覚えてないかもしれないですけど、アカデミー芸術祭で紫のバラの人から頂いたカードに書いてあったんです。忘れられた荒野の感想で”ス チュワートの青いスカーフを握りしめながら人間にめざめていく姿は感動的でした”って。でも青いスカーフ使ったの初日だけだったんです。あの台風の日の初 日……。速水さん以外、誰も来られなかった初日──」 「意外に詰めが甘いんだな、俺は……」 苦笑しながら真澄が、頭を振ってグラスを傾ける。真澄が飲むのはノンアルコールビールだ。帰りに運転があるから致し方ない。初運転の緊張から限界に達し たマヤに、これ以上運転させるつもりは勿論なかった。 ”長くなりそうだから後で話す”と公園で話した内容の答え合わせの会話が、先程から続いている。 「でも、それだけで確信するには、少し足りないんじゃないか? ただの書き間違いだって有り得るし、勘違いだって──」 「まだあるんです! ある時、私が来る直前に、母さんのお墓参りに紫のバラの人が来て下さってて、それで……、万年筆が落ちてたんです」 真澄の眉が神経質にピクリと揺れる。まるで過去のいつかの違和感に、僅かに何かがぶつかったような衝撃を感じる。 「珍しい種類だったし、特別な物だと一目で分かったから、後日こっそり人を通じて、『今、あの背の高い人が落として行きました』って渡して貰ったら、速水 さんちゃんと確認して自分のだって、受け取ったんです」 「君はその様子をずっと見てたのか?」 思わずその時の光景を想像して、真澄はたじろぐ。 マヤは涼しい顔をして、こくりと頷いた。 「まったく……、そんな前から君に気づかれていたとはな。もっと早くに言ってくれれば良かったものを──」 「言えませんでした。言える訳なかったです。だって……」 マヤが飲み込んだ言葉の先にあるものに思い当たり、真澄の胸の奥がつれたように歪む。 言わせなかったのは自分のほうだ。長い間マヤに対して、敵対的立場を取っていたし、嫌われても仕方ない事ばかりしてきた。おまけにずっと婚約者までいた 身だった。 「好きになったのはいつからなんだ? 俺はずっと君に嫌われていると思い込んでいたからな」 その言葉に、俯いていたマヤがハッとしたように顔を上げる。”長くなるから後で話す”と言った議題はもう一つあったと、今更気づいたかのように。見る間 に顔が真っ赤になるが、もしかしたら紹興酒のせいかもしれないと、真澄は速すぎるペースを心配して、ボトルを少しマヤから離した。 「正直……、この時からとか、この出来事で、とかそういうハッキリしたタイミングはないんです。気がついたらっていうか、いつの間にか、みたいな……。で も梅の谷で一緒に雨宿りした事ありましたよね。あの時は……、完全に好きでした」 信じられない事を聞いた気がして、真澄は我が耳を疑う。どれだけお互い遠回りしたのか、気が遠くなりそうになる。あの時、あと少しだけでも想いを告げる 勇気が自分にあれば、こんな遠回りはしなくて済んだはずだ。不必要に傷つけた存在と、払った犠牲、そして泥沼のように重く沈んだ時間を思うと、悔恨の深い 溜息が真澄を襲う。 「そんな前から……」 思わずこぼれ落ちた本音に対して、マヤがこちらを上目遣いにじっと見つめてくる。酒のせいか、若干目が座っているのは気の所為ではないだろう。次に何を 聞かれるのか、もう分かった気がした。 「速水さんは? 速水さんはいつから、その……あたしのこと……、好きだったんですか?」 最後のほうは自信なさげに吸い込まれるように小さな声になって、相も変わらずせわしなく中華鍋を叩く音の向こうに消え入りそうになる。 「俺も同じだ。いつからと明確なタイミングがあった訳じゃない。ただ……、思い返してみれば、最初から君に惹かれていたような気もする。認めるのに時間が かかっただけで……」 「え……、最初って?」 まさかとでも言う声音で、何なら若干引いているのすら分かる表情を、マヤは容赦なくぶつけてくる。 「大都劇場の椿姫公演で、君が俺にぶつかってきた時からだ」 「あれのどこに好きになる要素があったんですかっ?」 信じられないと、引きつった表情でマヤは絶句している。 「好きになった訳では確かにない。ただ何か引っかかったんだ。あの時の事を後から忘れられない程度に。心惹かれたと自覚したのは、若草物語のベスを観た時 からだ。もっと上手い芝居も、手の込んだ舞台もいくらでも観た事はあるはずだが、なぜだか無性に惹かれた。目が離せなくなった。自分のそれまでの人生でこ れほどまでに、何かに打ち込んだ事も情熱をかけた事もなかった自分には、舞台の上で君が放つ光と情熱は、それ程強烈だったんだ。だから俺は──」 そこで真澄はしっかりとマヤの瞳を捉える。大切な事を打ち明ける為に。 「紫のバラを君に贈った」 間違ったタイミングで息を止めたかのように、マヤはそこで静止し、大きく瞳を見開いた次の瞬間、大きなしゃっくりを一つした。 「飲みすぎだ」 呆れたように、真澄はマヤの前からボトルとグラスを完全に避けさせると、代わりに水の入ったグラスを置く。 「でもそれは……女優としてですよね。その……恋愛的な意味で好きになったのは……いつ、っていうかあれ?好きですか? ちゃんと。女優としてじゃなく て、恋愛としてって意味で、好き……なんですよね? あれ? 違う?」 急に取り乱したようにおかしな事を言い出すから、つい笑ってしまった。 「ちゃんと好きだから安心しろ。君と同じ意味で好きだ」 その瞬間、女将が二人の間に割って入るように、追加の餃子の皿を大きな音を立てて置いた。 いささか、こんな場所でする話ではなかったかと、苦笑しながらマヤを見ると、また時が止まったかのように呆然とこちらを見ていた。 「じゃぁ、それはいつから? その気持ちはいつから?」 少しだけ逡巡する間が出来る。別に忘れていた訳ではない。見当がつかない訳でもない。ただ、大切な思い出を引き出すのに必要な時間を味わっていただけ だ。 「昔、君が大都にいた頃、もう芝居をやめるといって飛び出した君を公園に迎えに行って、ずぶ濡れの君を抱えて家に連れ帰った。意識もない君を前にして、あ の時はっきり自分の気持ちを自覚した。これは愛だ──と。その時からずっと君が好きだ」 もう誤魔化す必要はないと正直に告げたつもりだが、必要以上に驚かせてしまったのかもしれない。今度こそ息を止めて、大きな両の目を見開き、まるで静止 画のようにこちらを見つめている。けれども静止画でない証拠に、また大きなしゃっくりのようなゲップのような、よく分からない酷い効果音が一つ飛び出し た。 「……それ、すっごい大昔じゃないですか」 「そうだな」 「あたし、15歳とかですよね?」 「……そうだな」 「信じられない……」 「引いたか?」 つい、自虐的にそんな言葉が真澄の口をついて出る。年齢の事は、長い間己の足枷となっていたのは事実だ。それゆえ、これ程気持ちを伝えるまでに時間が掛 かったとも言える。年齢の事で本気でマヤに引かれたらさすがに堪える、と真澄の気持ちが一瞬揺れる。 「そうじゃなくて……、速水さんほどの人があの頃の、あんな何も持ってないチンチクリンの子供を好きになるなんて信じられなくて……、その……、嬉しい なって。もっと早く言ってくれたら良かったのに」 無邪気にそんな事を言ってくるから困るのだ。 「言ったところで、どうにもならなかっただろう。あの頃の君に、俺は大層嫌われていた。そんな事を言おうものなら、冗談を言うなと張り倒されるのがオチ だったな」 そう告げると、「それもそうですねー」などとマヤは再びケタケタと無邪気に笑った。 「これで全部か?」 「え?」 訝しげにマヤは小首を傾げる。 「君と恋人になる手続きはこれで全部かと聞いているんだ」 言葉の意味を理解したのか、急にまたマヤは赤くなるとコクコクと頷いた。 そのタイミングで真澄の胸元のスマホが振動を伝える。液晶に記された秘書の名に、真澄は「電話をしてくる」と短く告げると、席を立つ。 立て付けの悪い引き戸をガラガラと音を立てて開けると、顔にかかる暖簾をくぐって外に出る。店内の油臭さが急に背後に回り、店内の喧騒もガラス扉の向こ うに消えた。 「ああ、すまない。取れたか?」 電話口の向こうの秘書が手際よく、取れたホテルの名前と部屋番号を告げる。カハラかインターコンチのスイートを押さえるよう頼んでおいたが、どうやらカハ ラを押さえられたようだ。 左手の甲を持ち上げ、時計に視線をやる。丁度いい時間である事も確認する。秘書に礼を言って、再び暖簾をくぐって引き戸を開けると、あろうことかテーブ ルに完全に突っ伏して終了しているマヤの姿が目に入る。よく見れば、引き離したはずの紹興酒のボトルとグラスがまた近くに引き寄せられていた。追加の餃子 と一緒に飲んだのだろう。 「おいおいチビちゃん、それはないだろ……」 苦笑じみた、それでいてマヤらしさ全開の言動に、なんとも言えない愛情のため息が体からこぼれ落ちる。そんな種類の感情が自分の中にあったのかと、いさ さかの驚きすら持って。 .
何とか抱き抱えて、車に乗せ、シートベルトを掛けてやる。ハンドルに両肘を乗せたまましばらく逡巡したが、諦めたように秘書に再び電話する。 「すまない。先程のスイートだが必要なくなった。申し訳ないが、キャンセルしてくれ」 一体、このほんの数分の間に何があったのかと動揺する秘書の気配は感じたが、それごと回線の向こうに押し込んで真澄は電話を切った。 指先でそっと頬に眠る。ビクともしない。これは深い眠りなのだ、とその穢れのない頬が訴えているかのようだ。 元々、帰りは自分が運転するつもりだった。限界を超えるほどに緊張させてしまったのだろう。それもあって気が抜けて、思った以上に酒が回った事も想像に 難くない。 先程、高台の公園から横浜の夜景を眺めながら無邪気に高級ホテルの様子に驚いていたマヤに、今晩はそこに泊まるなどと言えば驚いて喜んでくれるので はという発想がそもそも幼稚だったのかもしれないと、妙な反省すらしてしまう。 このまま無理やり泊まる事も出来なくはないが、意思確認も出来ないまま、意識の無い女優を部屋まで連れ込む絵面は、昨今の風潮からしてからも有り得ない し、どうにもこうにも某週刊誌の醜聞コース一直線だ。 もう一度、その頬に触れ、長い睫毛にも触れてみる。 「おい、ここで寝るのはいくら君でもあんまりだぞ」 言った瞬間、なぜだか笑いがこみ上げてきた。それは今までにない温かな何か。 欲望や情熱といった、かつて自分を苦しめた激しい感情とも違う。それが守ってやりたい、大切にしたいという、そういう種類の感情である事に真澄は気づ く。 途端にこれまでのマヤとの過去が、蘇る。 再び都心に向かって高速に乗った漆黒のメルセデスの車窓に、いくつものマヤとの思い出が流れていく。 傷つけるばかりで駆け寄って肩を抱いてやる事ができなかった事や、好きだと告げる事ができなかった夜、大嫌いだと叫ばれた瞬間、そんなものが取り留めも なく次から次へと浮かんでは消えていった。 もう一度、助手席を見る。 静かな寝息が確かに聞こえる。手を伸ばせば、触れることが出来る。 これから先、いつだってこうして、隣で安心して眠るマヤに触れる事ができる存在に自分はなる事ができたのだと、長い年月を掛けて、ようやくここに辿り着 けたのだと思うと、それだけで柄にもなく胸がいっぱいになっている事を真澄は認める。 「参ったな……。もう手放してやれそうにないな」 温かな気持ちと、そしてすでに芽生えた独占欲、その両方を乗せたまま、車は高速を駆け抜けていった……。 2022 . 11 . 03 …to be continued
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