第1話



 人は月まで歩くと十一年かかるそうだ。



「もしも十一年後、お互い独身だったら結婚しませんか?」

「なぜ十一年後なんだ?」

「私が今の速水さんの歳になるから……。あ、私達十一歳差なんですよ、知ってました?」

「なるほど……」
 
 知っていたのか、驚いたふうでもなく真澄は納得したような表情を見せた。

「まぁ、私はともかく、速水さんは絶対してますよ、結婚」

「君こそどうだか」

 そう言って真澄は、口元だけで笑いながらグラスに唇を寄せ、目を伏せる。まるで『いつか人は月に住めるか』
を賭けるような気軽さでマヤも笑い返した。







 ──大都芸能社長室。


「これが最後の一枚だ」

 差し出された書類の束に次々とマヤは署名をする。

「ちゃんと読んだのか? 君を縛り付ける悪徳契約書かもしれないんだぞ。全く……、君が騙されずに今日まで生きてこれた事のほうが不思議だな」

 書きづらそうにローテーブルにかがみ込む体勢のマヤを、
真澄は呆れたような表情で見下ろしている。

「大丈夫です。ちゃんと家で読んできましたし、麗にも読んでもらいました。それに、どうせ去年と同じ内容じゃないですか。ついでに言えば一昨年のとも同じ でしたよ。去年も一昨年も何も問題がなかったって事は、大丈夫って事じゃないですか。はい、終わりっ!」

 マヤは万年筆の蓋を勢いよく筆尻から外すと、カチリと元通りに筆先を収めた。


 紅天女の後継者となり、大都芸能に所属し、早いものでもう3年の月日が経った。亜弓ではなくマヤが上演権を手にした事も、そして所属先に大都芸能を選ん だ事も世間からしてみれば予想外の出来事で、当時は大いに騒がれたが、今ではすっかり大都の看板女優になった。

「今年も宜しくお願いします」

 立ち上がったマヤは、束ねた書類をひとまとめにし両手で差し出すと、社長である真澄に対して深く頭を下げる。

「こちらこそ、宜しく頼む」

 真澄の手に契約書が渡った瞬間、社長室の扉が開き、水城が花やギフトボックスを大量に抱え、部屋に入って来た。

「あらマヤちゃんいらっしゃい」

「え? 誰か賞でも取ったんですか? それとも今日なんかあるんですか?」

 知らないのかとでも言う表情で、訝しげに水城がマヤを見る。言うか、言うまいか、有能な秘書が一瞬真澄の表情を伺う為に視線を素早く動かした。

「何もない」

 すぐさま真澄がそう否定すると、こらえかねた様に水城が笑い出す。

「今日、真澄様の誕生日なのよ。知らなかった?」

「えーーっ! 知らないです、知らなかったです!! 初耳ですっ!!」

 所属事務所の社長の誕生日を知らず、当日、手ぶらでノコノコ社長室にいる状況というのはどれぐらいまずいのだろうか、と一瞬にして嫌な汗が噴き出る。
 お世話になっているのだから、最低限何か用意するべきだったろうし、そもそもどうして真澄の誕生日を気にしたことがなかったのか、今更ながらマヤは全く 機能していない自分の女子力的センサーに呆れてしまう。
 大都芸能に所属して三年という事は、真澄への片思い歴も優に軽く三年を超えている事になる。三年間も好きな人の誕生日について思い至らない自分が心底情 けなくなるが、それはこの三年間、仕事だけしかしてこなかったという意味でもあった。
 自分が果たして本当に女優としてやっていけるのか、職業・女優と名乗れるだけの仕事を積み重ねられるのか、そして紅天女の唯一の後継者として相応しい存 在でいられるのか、ひたすらにがむしゃらに走り続けるしかなかった。
 全力で走り続けて三年、ふと息をついてみると、目の前にいるのはやっぱり真澄で、この人はこんなにかっこいい人だったのだと、今更惚けたように見とれて しまう。

「あの……、すみません。私、プレゼントとか何も用意してなくて……」

「気にするな。祝って貰うような歳でもない」

「でも、こんなに沢山プレゼントとかお花とか──」

 運び込まれたアレンジメントの花達から、華やかな香りが立ち上り、部屋に漂う。

「全部仕事関係だ」

 そう言って真澄は贈り物に背を向ける。開封するのはきっと水城の仕事なのだろう。
 沢山の豪華な花、高級スイーツやブランドの紙袋の山が並ぶ様子と、それに全く興味を示さないどころか背を向ける真澄の様子は、どこかシュールでそして寂 しげだった。真澄が自分の誕生日など全く気にしていないのは明らかだ。

「あの……、あたし、速水さんに相応しいものとか全然分からなくて、何か欲しいものとかあったら……、そんなに高いものとか無理なんですけど、いや……、 大都から結構いいお給料頂いてるんで、うん、高くても大丈夫です!なんでも!なんでも欲しいものとかあったら──」

 思わずそんな事を口走るが、真澄に笑いながら制される。

「大丈夫だ。気持ちだけ貰っておく」

 土俵にも上がれないようだ。

「じゃぁ、奢ります!」

 驚いたように真澄がこちらを見る。

「ご飯……、おごります。あ、予定がおありでしたら、ビール一杯だけとかでも」

 言っている事が横滑りしている感覚が止まらない。

「枝豆もつけます!」

 真澄が何も言わないので、さらに横滑っていく。

「冷奴も!ゲソの唐揚げも!!」

「一体どんな店に行くんだ」

 たまりかねた様に真澄が大声で笑いだし、更にその後ろで水城もメガネの中心を押さえて、肩を震わせ笑っている。

 三年間、1センチも好きな人との距離を詰められなかった自分は、どうやらかなり間違った詰め方をしたようだ。それでも真澄が楽しそうに笑うので、それだ けで 嬉しくなってしまい、つられたようにマヤも笑った。









 信じられない事に、誕生日当日だというのに、本当に真澄は予定がなかったらしく、流れるように食事をする事になった。ビールと冷奴とゲソの唐揚げは「ま た今度」と丁重に却下され、そのまま六本木のおしゃれなビストロに連れて来られた。
 奢るなどと宣言した手前、真澄が普段行きつけているであろう超高級フレンチなどに連れていかれた場合、手持ちの現金が果たして足りるのか心配したが、カ ジュアルな店内の様子にマヤは少しだけ安心する。

 乾杯とともに合わせた細いグラスから、シャンパンの細かな泡が立ち上る。華奢なグラスの中で踊る、キラキラと煌く液体はとても美しい。奢るなどと豪語し たが、結局真澄が選んでくれた店で、真澄が選んでくれた料理とお酒を楽しんでいる。
 どこまで行っても自分は無能で、真澄は有能であると証明するかのように、前菜のオードブルもシャンパンも完璧だった。

「仕事は順調か?」

「順調です」

「そうか──」

 何とはない会話だが、マヤは思わず吹き出す。

「知ってるくせに。だって速水さんが社長さんじゃないですか」

 どんな仕事をしていて、どんな現場で、どんな評価を得ているのか、むしろ本人よりも真澄のほうがきっと詳しい。

「社長の俺が思う順調と君が思う順調は違うかもしれないじゃないか」

「それもそうですね」

 グラスのシャンパンをまた一口飲む。

「じゃぁ、やっぱり順調です」

「そうか……。不満は?」

「ないです。不満も不安もないです」

 それは本当の事なので、マヤは迷いなくそう言い切る。今の自分に必要な最善の仕事が、最善のタイミングで整えられているこの状況に、文句などあろうはず もない。仕事に集中させて貰っているし、逆に言うとそれが心地良すぎて、この三年間仕事ばかりしてしまったとも言える。

「それ以外は?」

「プライベートってことですか?」

 真澄がこちらを向いたまま、黙って頷いた。

「うーーん、そうですね。何もないです」

 今更引っ張っても勿体つけても、ないものはない訳で、マヤは早々に降参するように開き直る。

ないことないだろう

「ほんとにないです、速水さんが心配するような事は」

 そう言って、グラスに残っていたシャンパンを一気に煽る。おかわりが欲しいが、社長の前で酔い潰れる訳には行かないので、今日は慎重にいこうとマヤは密 かに決意する。

恋人とかって事ですよね? 全然いないですし、そういう写真撮られたりの心配とかもな いですし……。まぁ、あるとすれば、時々つきかげのみんなと居酒屋とかで夜通し凄い飲むので、その醜態撮られるとちょっとヤバそうかな〜って」

 大体いつも最後は地獄絵図となる飲み会の様子を思い出して、マヤは苦笑する。

「ああ、さっきのゲソの店か?」

「それです、それです。あ、でもめっちゃ美味しいんですよ?」

 真澄の口にはきっと合わないだろうし、真澄が行く事は一生ないであろう、あの小汚い駅前の居酒屋の事をマヤは思い浮かべる。

「恋人はつくらないのか?」

「え?」

 ゲソの唐揚げを思い出していたマヤからすれば、急角度の急旋回で質問のターンが回ってきたようなものだ。

「所属事務所の社長さんていう、監督責任の立場から聞いてるんですよね? だったらさっきから言ってるように心配ありま──」

「いや、個人的に聞いてる」

「興味あるんですか?」

 正気とは思えず、マヤはまじまじと真澄の顔を覗き込む。

「恋人をつくる気はないのか?」

 先程の質問には答えず、もう一度同じ質問をされる。これは答えるまで絶対に許してくれないヤツだとマヤは悟る。

「そりゃー欲しいです。一人がいいとか、一人でいいとか、そんな事全くないです。ただ……この三年間、本当に必死に仕事しかしてこなかったから、今更こん なあたしでも恋人とかほんとに出来るのかなーって心配には勿論なりますけど……」

「だったら俺と付き合えばいい」

 とんでもない方角からとんでもないタイミングで、槍が降ってきたような衝撃を受ける。

「結構です」

 思わず瞬時にそう答える。

「遠慮するな。幸せにするぞ」

「結構です」

 一度目は焦って声が裏返ったが、今度は落ち着いたいい感じの声で返せた。

(あなたの面白くもない冗談になんて、少しも動揺してませんから、という空気が演出できていますように──)

 真っ赤になった頬は勿論シャンパンのせいにした。

 本当の事を言えば、馬鹿みたいにドキドキした。冗談を言われているのに。冗談だとわかっているのに。これが真澄なりのジョークだと、ちゃんと分かって いるはずなのに、鼓動が壊れたみたいに速くなり、一気に変な汗までかいた。

 ほんとに馬鹿みたい──。

「速水さんこそ、なんで結婚しないんですか?」
 
 出来るだけ何でもないふうを装って聞く。どうか声が震えたりしていませんように。

「あれだけ派手に破談したんだ。常識的に考えて、しばらくは静かにしておくべきだろ」

 何かの残像が光る。美しかった過去の写真がガラスのように割れた破片だろうか。かつては真澄の隣にいたその人の顔を、今はもう正確に思い出す事が出来な い。
 紅天女の初演後に執り行われるとされていた、鷹宮紫織との結婚は試演後、突然破談になったと聞いている。

「……したいとは思ってるが、結婚は一人では出来ない。相手がいるからな。そう簡単にはいかないだろ」

「速水さんからプロポーズされて断る人なんていないんじゃないですか?」

「ついさっき断られたが?」

 またそんな事を真澄が言ってからかうから、つい自分も冗談が口をついて出た。

「じゃぁ……、もし も十一年後、お互い独身だったら結婚しませんか?」

「なぜ十一年後なんだ?」

「私が今の速水さんの歳になるから……。あ、私達十一歳差なんですよ、知ってました?」

「なるほど……」
 
 軽い冗談で言ったつもりが、真澄は面白そうに何度も頷いている。

「悪くない。その提案乗るぞ」

「えぇー……、まぁ、私はともかく、速水さんは絶対してますよ、結婚」

「君こそどうだか」

 秘密を共有しあったかのように、お互いクスクスと笑う。勿論実現する事など絶対にないだろう。

「毎年確認するか?」

「え?」

 冗談の続きをいつまでも真澄が延長させるので、マヤは驚いて声を上げる。

「俺の誕生日に、こうやって毎年食事をして確かめ合うのも悪くない」

「お互い、まだ独身かって?」

 真澄が今度はワイングラスを傾け、満足げに笑う。つられてマヤも笑ってしまう。どうせ実現しない約束は、羽根ほどの重さも持たずに二人の間を浮遊する。

「いいですね、私の誕生日じゃなくて、速水さんの誕生日ってところに配慮を感じます」

「君は人気者だからな」

「速水さんだって」

「それはない」

 もう一度、真澄がワイングラスに唇をつけながら、目を伏せて笑った。長い睫毛が、目元に陰影を作り、薄暗い店内の間接照明が、目の前のその人を大人の男 として浮かび上がらせる。

 釣り合う訳がないから、と頑なに恋心に蓋をしてきた。
 その反動で仕事ばかりをしてしまった三年間、充実した女優としての生活と引き換えに、自分は何を失ったのだろうか。

 目の前のその人が不意に笑う。
 その瞬間、マヤは悟る。

 忘れた訳でも、諦めた訳でもない。
 今でも自分はこのひとの事が好きなのだと。





 好きな人の誕生日の夜に、他愛もない約束をした。
 まるで叶わぬいつかの月面旅行の予約をするかのような気軽さと曖昧さで。

 人は歩き続ければ、十一年で月に辿り着くそうだ。あと十一年も思い続ければもしかしたら辿り着けるのかもしれない。この人のところまで。

 だから、辛くなんかない。
 悲しくもならなくていい。

 そんな事ある訳ないと分かってはいるけれど、ほんの一筋の僅かな光を冗談のように信じて月に向かって歩いていけばいいと、この時マヤは思ったのだ。

 



 


2023 . 11 . 03








…to be continued















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