第2話



 大都芸能社長室。

 十一月だというのにやたらと気温が高く、会う者が皆、口を揃えて

「十一月なのに夏みたいに暑いですね」

と奇妙な天気の心配をしている。柄にもない行動を取ると、”槍が降る”だの”雹が降る”などとよく言われるが、この十一月としては異例な気温もまた、おか しな行動が引き起こした異常気象なのかと真澄は思わず苦笑する。

 あの夜、帰り際に会計を済ませておいたら、おごる約束だったのにと憤慨された。

「約束が違います! これじゃ、誕生日のお祝いにならないじゃないですかっ!」

 店を出た途端、財布を握りしめたマヤに大騒ぎされたが、

「それなら今度、君お薦めのゲソの唐揚げの店へでも連れてってくれ」

と言ったら、ようやく大人しくなった。
 おさまったはずの苦笑がまたこみ上げる。


 ──もしも十一年後、お互い独身だったら結婚しませんか?


(一体、あれはなんだったんだ──)

 あの日から、その言葉の真意をずっと探している。
 十一も年下の無邪気な少女のいつもの気まぐれと分かっていてもだ。

(十一年後になら結婚してもいいと思う程度には、ゴキブリやゲジゲジから昇格したという事か? )

 これまでのずっと酷かったマヤからの扱いを思い出しては笑っていると、いよいよ水城に変な顔をされ、真澄は咳払い一つでそれをどうにか追いやった。


「知ってます? 月まで歩くと十一年かかるそうです。だから──」

「だから?」

「……なんでもないです」

 別れ際の会話、マヤが何かを言いかけて飲み込んだ間が出来た。

「……遠いのか近いのか、よく分かんないですね」

 見上げた澄んだ秋の夜空には、世の常であるように確かに月が輝いている。

「実際、めちゃくちゃ遠いんだろうけど、でもNASAの隊員になるとかロケットに乗るとかの方が絶対ムリそうだし、だったらずっと歩いていけばいつかは辿 り着けるなら、歩いてみたいなーとか……」

「月へ?」

「……そう、月へ……」

 まるでかぐや姫が焦がれた月を見上げるような横顔だった。捉え所のない会話が真澄の胸を苦しくさせる。いつだってそうだ。捕まえたと思った次の瞬間に は、するりとかわして、真澄の腕の中から逃げていく。この三年間のもどかしく開いた平行線のままの二人の距離が、限界となって真澄の焦燥感を煽る。




 そうして悶々としたまま一ヶ月の時が過ぎた。
 さすがに秋は通り過ぎ、白い息を引き連れて、冬がやってくる。
 それでも真澄は、あの夜、十一年後に結婚したいと言ったマヤの残像を脳裏から追い出す事が出来ないでいた。

(やるべき事は決まっている──)

 左手首の腕時計に目をやると、丁度いい時刻を指している。
 社長室を後にし、真澄は歩き出す。

 ここまで来て、かぐや姫に月に帰られては困るのだから……。
 









「は、速水さん?! 何してるんですかっ? こんな所で!!」

 稽古終わり、よく知るスタジオの通用口で待っていると、現れたマヤが目を丸くして叫ぶ。スケジュールの全てを把握している事務所社長のこのやり方は、後 で職権乱用だと怒られそうだ。

「定例会だ」

 呆気にとられた顔でこちらを見ている様子を無視して、やたらと大きな荷物を流れるような自然さで真澄はこちらに引き取る。荷物さえ受け取ってしまえば、 あとはこちらのものだと言わんばかりに真澄は歩き出す。

「定例会? 独身かどうか確認するとか言ってたアレ? ってまだ誕生日から一ヶ月しか経ってないですよ?」

「年一では変化に気づけないこともある。月一で会っておけば、君が他の男と結婚しそうな気配があれば分かるだろ。だから毎月三日に会う事にした」

「毎月三日? 月命日みたいに?」

「おい、死んでないぞ」

 思わず手のひらで額を覆って、真澄は苦笑する。
 
「突然過ぎて意味が分からない。女の子には支度ってものがあるんです。今日はラーメンでも食べて帰るつもりだったから、格好最悪です! って聞いてま す?!」

 道中ずっと文句を言われたが、それでもマヤは真澄の後ろを小走りについて来てくれた。やはり荷物を人質に取る威力は絶大だ。
 文句を言われたぐらいで怯むのなら、最初から会いになど来ない。











「それで? 結婚相手は見つかったのか?」

 近いからという理由で恵比寿の小さなイタリアンに入った。味がいいのと個室が使いやすく、今日も事前に確認したら運良く空いていた。

「こんな短期間で見つかる訳ないじゃないですか。彼氏だって出来てませんよ」

 言いながらマヤはワインリストを上から下まで一瞬で目を通した後、

「白ワインでおすすめお願いします。私には謎の暗号みたいでさっぱり分かりません」

と、解読を諦めた暗号文書を突き返してきた。

「速水さんは? 誰かいい人見つかりました?」

「愚問だな。居たら、こんなとこに来ていない」

 それもそうだと納得したようにマヤは頷いた。

 結局メニューも暗号にしか見えないので全て決めて欲しいと言われ、最初のうちは、ムール貝は食べられるか、牡丹海老は好きか等、細かく確認していたが

「好き嫌いもアレルギーもないです。何でも食べられます。それに速水さんが選んだものなら間違いないから」

と丸投げされてからは、この店の看板メニューを適当にいくつかオーダーした。

 マヤはよく笑い、よく食べる。
 その姿を見ているだけで、どこかこちらが満たされるような気持ちになる。大皿料理のイタリアンを二人で取り分けているだけで、なぜこれほど幸福を感じて しまうのか意味が分からないとすら真澄は思う。
 
 いや、意味は分かっている。

 結局のところ、この十一も年下の少女の前でだけ、自分はいつだって本当の自分でいられるのだ。
 特別な何かをする訳でもなく、改めて気持ちを切り替える訳でもなく、ただ自然にそうなってしまう。
 それが北島マヤという存在だった。
 そして真澄は気づく。
 目の前のその存在は、もう少女などと呼べる年齢ではなくなっていることに。

「めっちゃ見られてる……」

 真澄の視線にマヤが困惑している。

「食べ方変ですか? 私……。それかなんかついてます?」

 慌てたように口の周りを気にしている。また自然と笑みがこぼれてしまう。

「君と結婚したら楽しいだろうな」

 ついそんな本音が真澄の口をついて出たが、
マヤは白ワインを喉に詰まらせ激しくむせた。

「な、な、何言ってるんですかっ?!」

「十一年後には結婚してくれると君に言われたから、色々想像してみただけだ。どう考えても楽しそうだ」

 自分の妄想と想像に満足げに真澄は笑うと、グラスのワインも甘く口内に広がった。

「どうしたんですか? なんかこの間から速水さん、ヘンですよ?」

「十一年後に結婚はできても、今すぐ付き合えばいいという俺の提案は秒で君に却下されてフラれたからな。プレゼンが足りなかったと反省している」

 信じられないものでも見る表情で、まじまじとマヤがこちらを見ている。

「……あれ、本気だったんですか?」

「俺はいつだって本気だ」

 真顔でそう返したつもりだが、

「一瞬、信じそうになった。あぶない、あぶない」

とまたしても自分の中の何かが信頼には値しないのか、マヤには本気で受け止めては貰えないようだった。

 他愛もない会話が続く。
 よく食べ、よく笑い、気づけばワインを二本空けていた。
 けれども真澄が一歩近づけば、目の前のその人は一歩下がり、永遠に同じ距離を通して会話しているような感覚だった。

「男として見られないのか?」

 店を出て、酔い覚ましに歩く道すがら、思わずそんな事を真澄は口にする。

「え?」

「恋愛的要素が足りないのかと思ってな。前回あっけなくフラれたのを踏まえての改善策を考えている」

 ほろ酔いでご機嫌だったマヤの顔から笑いが消え、立ち止まってじっとこちらを見ている。

「俺の事を男として見られないんだろ?
昔からよく知ってるおじさんぐらいに思ってそうだ」

「そんなこと──」

 そう言って否定しかけたが、結局マヤは最後までその言葉を口にはしなかった。

「じゃぁキスしてみるか?」

「へっ?」

 驚き過ぎたのかしゃっくりのような音を立てて、マヤが息を呑んだ。

「嫌だったら本気で止めろ」

 たっぷり時間をかけてやっているのに、マヤは棒立ちになったまま微動だにしない。

「どうした、止めないのか?」

「こ、こ、これってセクハラじゃないですか? セクハラにならないんですかっ?」

 急カーブで想定外の車が割り込んできたような感覚に、真澄は苦笑する。

「そうだな、君が嫌だったらそうなる」

 それでも明確に拒否しないマヤに対して、ついに唇が触れるまであと僅かな距離まで近づいていた。真澄の前髪がマヤの額に触れる。

「どうした? 早く止めないと間に合わないぞ」

 真澄の手のひらがマヤの頬を捉える。

「嫌っ……」

 真澄の体がビクリと震える。

「……じゃないですっ!」

 マヤらしいそのタイミングに思わず笑ってしまう。

「変な場所で止めるな」

 触れるだけのキスをした。
 怖がらせないように、それでいて冗談では済まされない、己の情熱が伝わるよう、想いの欠片を込められるだけ込めて。

「好きだ」

 想いはそのまま言葉となって、真澄の唇からこぼれ落ちる。マヤの黒い瞳が揺れ、何かを言いかけたがそのまま俯かれる。

「……そんなに結婚したいんですか?」

 俯いた顔の下から聞こえてきた言葉は想定外だった。

「なんかやっぱり、この間の誕生日から速水さん変ですよ。いきなり結婚とか、それって相手は私じゃなくてもいいんですよね?」

「なんでそうなる?! こじらせ過ぎだろ!」

 あまりと言えばあまりの言い草に、思わず大きな声を出してしまう。

「だって……、きっとみんなに変って言われる。全然釣り合ってない」

「言わせたい奴には言わせておけばいい」

 それでもまだ俯いた顔が戻る事はなく、表情を伺い知る事はできない。

「それに紅天女と大都芸能の社長だぞ。この上なくお似合いじゃないか」 

 ヤケクソのような真澄の必死なその言葉に、やっとマヤがこちらを向いた。

「でも年が……」

 ようやくこちらに向きかけた風が、突然止んだようにシンとなる。

「それだけは俺にもどうにも出来ないな。君が悪い訳ではないが、俺のせいでもない。十一年経っても、十一歳差のままだ。それは変えられない」

 マヤは黙って小さく頷く。問題は年の差ではないはずだが、まだ何かマヤの中に引っかかるものがある事だけは分かる。

「月まで歩くと十一年かかるそうです。だから──」

「だから?」

「やっぱり何でもないです」

 何かが引っかかっている。小石のような何かがマヤの喉元を堰き止め、苦しくさせている。

「大丈夫だから」

「え?」

「大丈夫だから、ちゃんと最後まで言え。この間も途中で言うのやめた。大事な事なんだろう? 君にとって」

 マヤの瞳の表面が再び大きく揺れ、世界が静かな瞬きをする。

「私にとって速水さんは月みたいな存在なんです。十一年歩き続けてやっと辿り着けるかもしれない、そういう存在なんです」

 そう言って、いつかの月を見上げるかぐや姫のような刹那の眼差しでこちらを見上げてくる。

「それを一ヶ月とかそんな短時間でいきなり詰めて来られても、信じられない……」


 月はどちらだったのだろうか──。

 マヤは真澄を月だと言い、十一年かけて辿り着きたいとかぐや姫のように見上げる。
 だが、自分にとってはマヤこそが月ではなかったか。
 遠く静かに光り、自分の闇を照らしてくれるその存在にどれだけ自分は焦がれたことか。

「君はいくつになった?」

 唐突なその問いにマヤが戸惑いながら答える。

「今度の誕生日で二十四ですけど……」

「初めて君に出会った時、君は十三だった」

 何かに気づいたようにマヤの唇が震え始める。

「もう……、十一年経っている。月には辿り着いている」

 マヤの呼吸が荒くなり、信じられないとでも言うように何度も頭を左右に振っては、口元を押さえる。

「俺は待った。十一年待ったんだ。もういいだろ?」

 そう言って、愚かな人間が憧れ、恋い焦がれ、永遠に手に入らないと思っていた存在にそっと手を伸ばす。
 弾かれたようにその体が真澄の腕の中へと飛び込んでくる。

「もう絶対に離さない」

 耳元でそう囁いたのを夜空の月だけがそっと聞いていた……。











「十一年間、君とはすれ違ってばかりいた気がする」

 一瞬、過去のいくつもの苦い思い出が鈍く光る。まるで月の周りで砕け散っていった星たちのように。

「そうですね。何なら、ついさっきもちょっとすれ違ってて、あぶなかったかも」

 ほんの数分前の怪しい雲行きを思い出しては真澄も苦笑する。

「だいたい十一年後ってなんだ。君はまだ三十代だが俺は四十六になってるぞ。五十間近だ。そこから始めるのはしんど過ぎるだろ」

 極限まで試された緊張感から解放され、真澄の口からついそんな本音が漏れる。

「ずっと君には嫌われていると思ってた。実際そうだったしな。だが、先月の俺の誕生日の夜、十一年後になら結婚してもいいと思うぐらいには君に嫌われてな いと知った。それならば今すぐ君を俺のものにしたいと思った。普通の事だろ。ほんとに十一年も待つ馬鹿がどこにいる。他の男に取られるオチが待ってるだけ だ」

 言いたいことを全部言いきると、一瞬あっけに取られたような表情で固まっていたマヤが、弾かれたように笑い出す。

「これからはそうやって本当に思ってること、ちゃんと教えて下さいね。絶対そのほうがいい。私もちゃんと言えるように努力します」


 雲一つなく広がる十二月の夜空に月と星たちが輝いている。

 十一年前も十一年後もきっと変わる事なく、月も星もそこにあるだろう。同じように、変わらず自分もマヤのそばにいたいと思う。
十一年後も、そしてその先もずっと……。

 どこかで星が最後の瞬きを放ち、流れていった。
 ようやく叶った真澄の願いを見届けるかのように、星は燃え尽き、そして静かに消えていった。
 

 


2023 . 11 . 10








FIN
















あとがきのような


誕マス2023、これにて完結です。
前編を終えた後、”十一年”という言葉に皆様反応され

”長すぎる”
”残酷過ぎる”
”長期戦過ぎ”

と心配されたんですが、私が11年分も二人の様子を書くと思いましたか?両片想いのまま?そんなヘナチョコシャチョーのモダモダだけを11回分も?

ないわーーーー

という訳で、もちろん脈アリかと気づいてしまったシャチョーは一ヶ月も我慢できませんでした。(私がな)
最初にネタを思いついた時は、ドラマであった十年愛みたいに1年ずつ追ってくのも悪くないなぁと確かには思いはしたんですが、そんなしんどいの無理とすぐ 気づいてよかった。


さて、冒頭唐突に”紅天女初演+大都芸能所属から3年”と謎の空白3年間が設定されている訳ですが、全てはこの

”俺はすでにもう11年待ってる!!”

という、マヤちゃんを24歳にして、シャチョーのブーメランオチが華麗に決まる為の設定でした。普段のワタシの書くシャチョーだったら3年もモダモダして ないで一気に攻め込んでる気がするし、マヤちゃんだってもうちょっと煮詰まってそうなんですが、

”あれだけ派手に破談したんだ。常識的に考えて、しばらくは静かにしておくべきだろ”

というシャチョーらしい一言と、

”女優道、ひたすらがむしゃら走り続けて桃栗3年”

というマヤちゃんらしいお芝居夢中宣言でクリアさせました。


そしてこのお話の最大のオチは……


49巻発売から今年で11年!!


という事なんですよ!!
そう、11年待ったのは私達で、そんでもってこの期間ずっと歩いてたら今頃月面で飲み会やってるレベル。
という待ち続ける健気な私達への鎮魂歌だったのでした。涙
どう? 泣けるでしょ?


そんな訳で、今年も直前まで全く筆が進まず、危うかったんですが(Xも長い事沈黙)、何とかお祝い会場に駆けつける事ができて、今年も命拾いしましたわ。


また来年もお達者倶楽部の皆様と年一定例会で無事お会いできますように……。















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