第4話


「どうした? 泣きそうな顔をしてるぞ。そんなに俺とのキスが嫌だったのか?」

「ち、違いますっ」

 誕生日という免罪符を片手に、半ば強引に唇を重ねた。勿論それ相応の覚悟があってのキスではあったが、マヤの様子を見るに何も伝わっていない事は間違い ない。
 ずっと避けてきた自分の話をしなければいけない時がきたのだと真澄は悟る。

「それならもう少しだけ付き合え」

 そう言って、多少強引とも言える強さで真澄はマヤの手を引きながら歩き出す。

 強引さと臆病さ──。

 マヤに対して相反する自分の態度は、表裏一体となっていつだって存在してきた。嫌われる事を前提に、時に強引に踏み込む一方で、肝心なところで逃げてば かりだった。マヤに何一つ伝わっていなかったとして無理もない。

 夜空に下弦の月が冷たく白く輝いている。
 その姿を視界で確認すると、真澄はゆっくりと言葉を選ぶ。

「誕生日だから少しだけ、自分の話をしてもいいか?」

 改まってそんな事を言ったので、マヤは驚いて真澄の顔を見上げる。

「えっと……、はい、勿論です。どうぞ……」

 夜はすっかり人通りの少なくなった並木道を、二人はゆっくりと歩き続ける。

「さっき君に言われたな。もっと自分の事を大切にしたほうがいいと。痛い所をつかれたと思っている。幸せについてもそうだ。自分の幸せについて考えた事も なかったと言ったが、正確に言うと、考えないようにしていた、と言ったほうが正しい」

 歩道に残る枯れ葉を踏む音がわずかに響く。マヤはただ黙って隣を歩いている。

「君は俺の事を生まれた時からこの世界のこの場所に居たと思っているようだが、そうではない。ごく平凡な家庭に生まれ、ただの元気でわんぱくな子供として 普通に育っていた。速水英介と出会った事で運命の歯車が狂い、自分は後継者として育てられる為だけにあの男の息子になったんだ」

 自分の過去や生い立ちについて誰かに話すのは初めての事だ。朽ちた箱の中に閉じ込めたまま一度も触れる事のなかったそれらが、一体今はどんな状態で自分 の心の奥底に眠っているのか、真澄は自分でもよく分からなかった。ただ淡々と、事実を告げていく。

「最初からこんな性格だった訳でもないし、仕事の利益だけを追求する冷徹な人間でもなかったはずだが、そうしなければ生きてはいけないとなると、人間とは 弱いもので、俺はあっさり自分の心を手放し、感情を凍らせ、二度と誰の事も信じないし、愛さないと頑なに誓って生きてきた。勿論そうならない強い人間もい るだろう。だが全てを失った時、俺はまだ小学生だった。それ以外の生きる術など選びようがなかった……」

 冷たい海に捨てられた絶望感がまざまざと蘇る。忘れた事など一度もない。普通であればそのまま死んでいたはずだ。けれども真澄の本能はそれを良しとしな かった。再び水面へと浮かび上がった自分は、残りの人生の全てを復讐に使うと誓ったのだ。

「あの男の紅天女への執拗な執念のせいで、結果的に俺は唯一の肉親であった母も失う事になる。その日以来、あの男から紅天女を奪う事だけが俺の生きがいに なった。どんな手を使ってでも絶対に手に入れるつもりだったし、そこに迷いなど存在するはずもなかった」

 隣のマヤは無言のまま俯いている。ある程度は聞いた事のある話かもしれない。速水真澄が養子である事は業界でも広く知られているし、水城に聞けば親子関 係の事も多少は分かるだろう。けれども心情的に決して聞いていて気持ちの良い話でもないはずだ。

「いつかはあの男から全てを奪う為に、大都の犬となり、やり手と言えば聞こえはいいが、人を人とも思わずに蹴落としたり、切り捨てたり、利己的で傲慢な生 き方をしていた。そんな時にマヤ、君と出会ったんだ」

 唐突に出された自分の名前に驚いたようにマヤがこちらを見る。

「君の舞台への情熱に触れるたびに、心が乱された。あんなふうに利益や見返りも顧みずに何かに夢中になった事など、自分の人生で一度たりとも経験した事の なかった俺は、正直君を羨ましいとすら思った。また逆に、暗く混沌とした醜悪な復讐の世界に生きる自分には、到底届かない光の世界だとも思った……」

 だからこそ自分はその光に差す影になろうと思ったのだ。決して自身には光が差す事のない、紫の影に……。

「君と出会って、再び俺の人生の歯車が狂い始めた。何かが間違っていると分かってはいたが、それでも俺は自分の生き方を変える事が出来なかった。いつの間 にか俺自身が大都という組織を背負い過ぎていたせいもあるし、速水英介に歯向かうに十分な力をまだ俺自身が持っていなかった事もある。流されるままに望ま ない婚約をする羽目にもなった。自分の処遇は自業自得だが、紫織さんを傷つけた事は本当に申し訳なく思っている」

 そこで真澄は大きく息を吐く。話せば話すほど、気が滅入るような話だと自分でも思う。隣のマヤは、いったいこの話がどこに行き着くのか不安そうに俯いて いる。

「そこでやっと初めて俺は思ったんだ。自分の人生を、自分で生きる力が欲しいと。自分が本当に欲しいものを手に入れる勇気と、それを守る強さが欲しいと。 そんなふうに思ったのは初めてで、生きている事を実感したのも初めての事だ。ここ数ヶ月は以前とは全く違う気持ちで仕事をしている」

 そう言って真澄は生まれて初めて、自分の人生で自ら望んだものを眩しいものでも見るように見つめる。その眼差しの意味を理解出来ないのか、マヤは戸惑っ たように曖昧に笑う。

「君にも同じ力を手にして欲しいと思っている」

「え? あたしもですか? っていうか、あたしがどうやって?」

 驚いたマヤが立ち止まる。ちょうど外灯の下でその表情がよく見えた。

「もうすぐ紅天女の幕が開く。君が自分の力で掴んだ舞台だ。そこで君は紅天女になるんだ。世界中でただ一人、君だけに与えられた役だ。誰にも文句は言わせ ない。全てを超えて君自身が君だけの力で立つ時がきたんだ。もうあの頃の君じゃない。何が起こっても、自分を信じて強く生きていくんだ」

 そこで真澄は一呼吸置くと、ずっと言いたかった言葉を放つ。

「いい女優になったな」

「えっと……、そんな事言って頂けるなんて思ってもいなかったので、あの……なんか胸がいっぱいです。ありがとうございます」

 少し涙ぐんで見えるのは気のせいではないだろう。

「本当は紅天女の初日に言うつもりだった。それまでに厄介な仕事を片付けて、君の前に立つつもりだったんだが、少し予定が狂ったな。だがおかげでこんな楽 しい誕生日の夜を過ごす事が出来た。水城君のおかげだ」

 そう言ってマヤに笑いかけると、思いがけず幾つもの感情がこみ上げてくる。出会った頃はまだほんの少女だった存在をいつしか本気で愛するようになってい た。その一瞬、一瞬が狂おしいほどに真澄の脳裏に蘇る。

「君は本当に変わらないな。昔のままだ」

「子供っぽいって事ですか?」

 幾分むくれたような声で歯向かってくる姿もかわいいと思っている事は、内緒にしておいたほうがいいだろう。きっと本気で怒りそうだ。

「違う。純真で綺麗なままだという意味だ。人を疑う事も、騙す事も知らないまま大人になった。芸能界においては奇跡のような話だ」

 そう言うと、マヤは少しだけ困惑した表情で曖昧に笑った。

「自分の事はよく……分かりません。褒められるのも慣れてないから、どうしたらいいか分からなくなる。特にお芝居以外の事だと、本当に分からなくて……」

「そのままの君で居て欲しい。そのままの君をずっと見ていたいと思っている」

 マヤの瞳の中が揺れ動く。真澄の放つ言葉がどこかに触れた証拠だ。けれども咄嗟にまた、僅かに揺れ動いたものを必死で打ち消した様子が見て取れる。

「速水さんは……、ずっとあたしのこと……、見ててくれたんですか?」

 声が震えている。ようやく少しだけこちらを向いたその瞳に真澄はまっすぐに答える。

「ああ、ずっと見ていた。いつも君を見ていた」

 マヤの口元が僅かに開き、何か言葉にしようとしたが何も音にはならなかったようだ。吐息だけがもときた道を戻るように吐き出される。

「どうやったら君が手に入るのか、ずっと考えていた。何を渡しても、何をしても、到底手に入れる事は出来ないと何度も絶望した。それどころか俺は君から大 切なものを奪い過ぎた。際限なく君を傷つけ、その上君自身を望むなど、到底叶わぬ願いだと何もかも諦めた事もある」

 マヤは微動だにしない。
 心を開いてるのか、あるいは頑なに閉じているのか、全く分からない。ここから先は未知の領域だ。自分の本心を告げた事など人生で一度もない。絶対に無理 だと思っていた。自分はそういう事が出来ない人間なのだと。けれどもずっと心のどこかではそれを望んでいた。そしてこのいびつで歪みきった、けれども途方 もない愛を明け渡す相手は、目の前のこの存在以外にありえない。

 ずっと思っていた事がある。
 あまりにも強く、あまりにも深く求め過ぎた事で、自分のマヤへの想いは時に変質し、混濁し、愛とは呼べないほどに醜い姿に成り果てた。嫉妬や猜疑心で、 何の落ち度もないマヤをいたずらに傷つけた事もある。それにも関わらず、目の前のその存在は出会った頃と少しも変わらぬ純真さで真澄の前に存在する。汚れ きった自分が触れたら穢れてしまうのではと恐れるほどに。

 愛を告げる事をこれほどためらうのは、もうこれ以上傷つけたくないからだ。それほど真澄は己の愛が恐ろしいのだ。

「ずっと君を見ていた。何度も目を逸らそうとしがた無理だった。俺が初めて自分の人生を歩いてみたいと思ったのは、そんな君と歩きたかったからに他ならな い。誰に止められても、誰に蔑まれても、どうしてもこれだけは譲る事が出来ない」

 昂ぶる気持ちを自分の中でもう一度確かめるように、真澄は大きく息を吸う。

「君が好きだ」

 11月の澄んだ夜の空気の中にその言葉はまっすぐに響く。たった一言、このたった一言が言えなくて、何年も苦しんだ。

「君は少しも信じていなかったようだが、今夜、恋人として過ごして貰った君に言った事は全て本当だ。君を俺のものにしたいとずっと思っていた。それが叶う ならどれほど幸せな事かと思う。ああ……、君が心配してくれた俺の幸せは、君でしかないんだ。どうか、返事を聞かせて欲しい」

 堪えかねたように目の前の存在は、言葉にならない唸り声を上げて泣き出す。何かを言おうと、必死に手の甲で涙を拭いながら、息を吸うが出てくるのは嗚咽 ばかりで何も言葉にならなかった。

「待って……、ちょっとだけ、待って……、ちゃんと返事するので……待って……」

 それだけ言うと、マヤは一頻り気の済むまで泣いた後、ようやくこちらを見て笑った。そう、幸せが溢れるような笑顔で。

「私も……、ずっとあなたが好きでした。大好きでした」

 そう言って、今度こそ真澄の腕の中にその存在が飛び込んでくる。生まれて初めて、本当に欲しかったものを手に入れた感触を真澄は力いっぱい抱きしめる。 もう決して、二度と離さないように、失う事がないように。

「く、苦しい……です」

「いいから今は我慢しろ」

 そう言ってより強く抱きしめると、腕の中の存在が笑いながら可愛く暴れる。

 ともに笑い、ともに泣き……、これを幸せと呼ぶのだろう。

 二度とこの幸せを離しはしない。
 その想いを熱い口づけにして真澄は託す。

「ずっと君を見ていた。でも今なら分かる。見ていただけじゃない、愛してたんだ」

 ようやく想いを口にする事が許されたその感動を真澄は噛みしめる。

「これからも見ててくれますか?」

 最後の不安のひとかけらがこちらを見上げるマヤの瞳に一欠片揺れる。

「ああ、勿論だ。『いつもあなたを見ています』」

 その言葉にマヤは今度こそ崩れ落ちるほどに号泣する。

「待たせて悪かった。紅天女の初日には、俺の手から紫の薔薇を渡そう」

 
 11月、秋の外苑銀杏並木──。
 寄り添う恋人たちの向こうで、秋は深まり、冬がもうそこまで来ていた……。








2019 . 11 . 7





< FIN >









あとがき的な


9月10月と私生活が激務でして、書かなー書かなーと毎日思いながらも、一文字も書けないまま、日々がたち、またまた恒例の見切り発車連載となりました。 無事に着地できて良かったです。(怖い)

最初のプロットはたったの1行で

『水城さんに謀られ、BDディナーにおしこまれる』

ってノートに残ってました。(はかられ、は勿論ひらがなw)
これだけ雑なネタでよくもここまで伸ばしたな、と自分でも思いますよ。

正直、BD当日にあれよあれよとディナーコースってお話は1億回(体感)書いてるので、もはや写経…と自虐的に言ってましたが、すみませんね。でも好きな んですよ、これ。
速水さんがイイ男のエロ男で、体型も言動も全てがスマートで、ちょっと意地悪な事言ってからかったりするのに、一夜のなだれこみディナーは最適なんすよ。 (力説)

当初の予定ではもっと軽いお話で、さんざん口説きまくって口説きまくって、でもマヤちゃんが全然信用してなくて、最後に速水さんが

「ふりじゃない。本当だとしたらどうなんだ? まじめに答えろ!」

とキレ気味に凄む予定だったんですが、生い立ち関連告白して頂いたら、そんな軽く凄んで、やっだー!うっそー!ほんですかー!なんて出来なくなりました。 汗

書いてるとどうしても予定表通りにならない事って、ほんとに多々あります。セコイ私はカットした部分も全部メモ帳に残しておいて、いつかリサイクルしてや る!と虎視眈々と再デビューを狙ってたりしますw

やっぱりマス誕は、速水さんの心情に肩入れしちゃいますね。もう乳母的心理ですよ、そこは。
不器用な大人の男、ってなんであんなに放っておけないんでしょうね。そんな訳で4話は丸々、速水さんの人生スライドショーみたいになりましたが、テスト前 の総復習みたいな感じで流して頂ければ幸いです。
(テストはいつだ?)

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

次は冬コミですね。
原稿?もちろん真っ白です。
明日からやります。(怖い)

元気が出るので、感想とか頂けるととっても嬉しいです♪



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