第3話



 水城が引き金を引いた弾が、思わぬ方向に飛んできた。
 その弾は今、己の手のひらの中に握り込んであると信じているが、果たして本当にそうだろうか? 手のひらを開いて確認することを思わず真澄は躊躇する。
 しかしそれはもう、今更考えても仕方のない事だった。確かな事はただ一つ、今自分の目の前にはマヤがいる。あまりにも長きに渡り、己が望み過ぎた存在 だった。

 水城がこのような無茶振りとも言える事態を仕掛けてきた理由のあらかたの予想はつく。鷹宮との破談後、不利益を被った会社の建て直しに奔走するばかり で、マヤに対しての行動をいつまでも起こさない自分に対して痺れを切らしたといった所だろう。

「せっかく信号が確実に青になったというのに、また赤になるまでそこに居るおつもりですか?」

 つい最近もそんな嫌味を言われた。
 決して逃げている訳でも、いたずらに先延ばしにしているつもりもなかった。ただ、自分には責任がある。大都芸能のトップに立つ、社長としての責任だ。全 てを投げ売って会社を危険に晒し、その理由が一人の若い女優を手に入れる為だったと分かれば、社員は勿論、世間にそれがどう映るか。自分だけならどうでも 良かった。すでに地獄を味わい尽くした人生だ。もう一度や二度、地面を這いつくばるような生活をさせられたとして気にするような事は一つもない。
 問題はマヤだ。
 自分の取った行動の余波がマヤにまで及ぶ事をどうしても避けたかった。マヤを守るには力が必要だ。何にも負けない、屈しない、圧倒的な力だ。そしてそれ はマヤ自身にしても同じだ。もう二度とあの才能が潰されるような事があってはならない。絶対に。何にも負けない絶対の自信と地位をマヤに与えたいと真澄は 思う。
 それこそが「紅天女」なのだ。
 まもなく本公演の幕が上がる。マヤは全てを手に入れるだろう。今度こそ自分の力で。その時こそ、真澄は自分の想いを明かそうと、そう思っていた。

 そんな自分の勝手な段取りや思い込みなど、水城の知る所では勿論ないだろう。そこまで思い当たると真澄の口元から思わず苦笑が溢れる。

「何笑ってるんですか?」

 目の前の存在が、怪しいものでも見るようにしてこちらを見ている。

「水城君の目には、社長としてではない速水真澄はどれほど間抜けな存在として映っているのかと思ったんだ」

「ええっ?! 水城さんが? そんな事ないですよ。水城さん、めちゃくちゃ速水さんの事リスペクトしてるじゃないですかっ! いつも信じられないぐらいの 仕事量をこなしてる、あんな事出来るのは速水さんだけだって言ってましたよ」

「ああ、仕事の面ではそうだろうな。だがそれ以外の部分ではどうも彼女に心配ばかりかけている。その結果が今夜のこの事態だ」

 真澄は両手を広げて上にあげるジェスチャーをする。

「自分の誕生日も忘れる。私生活がどれほど荒もうとも気にしない。ろくに休みも取らない。人間らしい生き方をしない。こんな人間、身近にいたら確かに最悪 だ」

 そう言って真澄は自虐的に笑った。同じようにマヤも笑うか、あるいは同調して

『そうですよ、めちゃくちゃ迷惑な上司じゃないですか』

とでも言われるだろうと待っていると、想定外にマヤが黙り込む。
 やがて、しばしの沈黙の後、マヤは言葉を一つ一つ丁寧に選ぶように話し始める。

「速水さんはもう少し自分の事、大事にしたほうがいいと思います」

 純真過ぎる黒い瞳がまっすぐにこちらを見ている。

「自分の誕生日をぞんざいに扱うって、自分を大事にしてないのと同じ事だと思います……。あたしも祝ってくれるような家族はもういませんけど……、でも、 つきかげのみんなが毎年お祝いしてくれます。みんなでご飯食べて、ケーキも用意してもらって、歌とか歌ってくれて、凄く温かい気持ちになります。自分は生 まれてきてよかったんだ、って素直に思えます。それって凄く幸せだし、大切な事だと思うんです」

 不意をつかれて、思わず真澄は言葉に詰まる。
 温かなもの──、確かに自分には縁のないものだ。あの冷たい海の底で全てを失った日、そういったものも全てあの海に捨ててきたはずだった。そんなものが あってはこの先、生きてはいけなかったからだ。
 その後も、気持ちが揺れ動くような事があったとして、その場所を掘り起こしたり、振り返ったりなど絶対にするものかと、強引に背を向けて生きていくうち に、いつしかそれが当たり前になった。
 冷血漢などと呼ばれる事は心外どころかむしろ都合が良かった。速水真澄には温かな感情など全くないと、誰ともなく確認の判を押され、認定されたような気 持ちになる。
 まだ大丈夫、まだ行ける、まだ誰にも気づかれていない、そんなふうにしてあの日捨ててきた本当の自分を何度も葬り去った。そうやって誕生日が来るたび に、自分は生まれてきたはずの本当の自分を、自らの手で葬っていたのだ。あの暗い冷たい海の底に……。

「そうだな……、君の言う通りだ」

 思った以上に素直な声が出た。

「では、これからは君が祝ってくれないか?」

「え?」

 まとまりかけた話の着地点としてありえない、とでもいうふうにマヤが大きく目を見開く。

「こんな俺の事だ。どれだけ注意していても、自分の誕生日など、きっとまた毎年忘れてしまうだろう。だから俺の代わりに君が覚えていてくれないか? そし て一緒に祝って欲しい」

 そう言ってテーブルの上のマヤの手に、そっと自分のそれを重ねる。どうしても触れたくなるのは、溢れ出す気持ちのせいだ。

「凄い……」

 プロポーズと言っても過言ではないほどの事を言ったつもりだというのに、マヤの目はまるで凄い芝居でも観た時のように輝いている。
 嫌な予感がした。

「ほんとに口説いてる」

 そう言って、片手で口を覆って感嘆している。

「速水さん、意外に演技派でびっくりです。信じちゃいそう」

 そんな事を無邪気に言っては、はしゃいでいる。

「心臓止まるかと思いました。速水さん、かっこよすぎてずるい」

 パタパタと指の先で自分の顔を扇ぎながら、無邪気に笑う姿に、全く通じなかったのだと真澄の肩から力が抜ける。つくづく北島マヤという存在は、想像のは るか斜め上をいく。

「君は幸せそうだな」

 思わず本音が漏れる。

「速水さんはそうじゃないの?」

 驚いたような表情で、マヤの顔から笑みが消える。

「幸せか……。正直なところ、自分の幸せについて考えた事はないな。仕事の成果にしか頓着しない人生をずっと送ってきたせいで、そういった部分が麻痺して るんだ」

 信じられないとでもいう表情でマヤがこちらを見ている。人類皆、幸せを感じる心を持っていると信じて疑わない様子が見て取れる。

「だが、そうだな……、君の芝居を観ている時は幸せだ。仕事の事も、自分の事も全て忘れて夢中になれる。煩わしい事の全てを消して、君だけを目で追 う……。幸せな時間だ」

 そう言って、マヤの頬の輪郭に指先でそっと触れる。息を止めたのが分かる。驚くほど男に免疫がないのか、体を硬くしたのが指先にも伝わる。
 そしてこの告白もまた、目の前を一瞬華やかに彩っては流れるように消えていくフレンチの一皿のように、マヤの体内に深くとどまる事なく耳元を掠めながら 通過していくのだろう。
 自らが望んで始めたはずのこのやりとりに、すっかり真澄のほうが翻弄されている事に思わず苦笑する。

 極上のヴィンテージワインにフレンチの美しいコース料理。
 それらは本当にお互いの血となり肉となるのか、疑わしいほどの軽やかさで舌の上を滑り、喉元を通過していく。

 ただ、極上の余韻だけを残して……。




 






 次々に運ばれる至福の料理。
 食べるのがもったいない、という感覚をマヤは生まれて初めて味わう。どうやったら少しでも綺麗な絵を残したまま食べられるか、皿の
端から少しずつ、何度も首を傾けながら食べていると

「本当に君は可愛いな」

と笑われ、何でもないふうに前髪に触れられた。
 そうやって触れられる度に、触れられた場所を慌てて押さえてのけぞるので、真澄が耐えかねたように笑い出す。

「速水さん、楽しんでますよね」

 真っ赤になって、そう噛み付くと、

「当然だ」

すました顔でそう言って、絵になるあの仕草で再びワイングラスを傾ける。

 夢のような時間が終わりに近づいていく。
 自分の他愛もない話に真澄が笑い、何度も「可愛い」などと言って甘やかされ、本物の恋人にそうするように、その指先が何度もマヤ体の輪郭の一部に触れ る。
 手の甲、前髪の先、髪の下に隠れた耳の輪郭……。人差し指の第二関節には軽く唇で触れられた。触れられた瞬間、そこは確かに自分の体の一部のはずだとい うのに、属性が変わったような、まるで真澄に奪われたような感覚に襲われる。

 ふわふわと気持ちも体も浮いている。いや、浮ついていると言ったほうが正しいかもしれない。
 
 肌の上を滑っていく、ベルベットのように濃密な時間。まるでこの部屋の四方をベルベットのカーテンで覆い、世界から切り離されたような、そんな時間だっ た。

 ふと、急に部屋の電気が消える。次の瞬間、ローソクが灯されたデザートプレートが運び込まれる。おそらく水城の手配なのであろう。

「凄い! さすが水城さんですね!」

 自然と口が動いて、歌を歌い始める。

 Happy Birthday to you♪
 Happy Birthday to you♪

 さすがに普通の店内であったら多少の恥ずかしさはあったかもしれないが、個室の為何も気にならなかった。ただ、目の前の真澄が少し困ったような、どうしたらいいか分からないとでもいうような、そんな顔をするのでそれがおかしくてマヤはますます笑顔で歌う。
 歌い終わるタイミングでプレートが真澄の前に置かれると、真澄は笑いながら細い一本の背の高いローソクを吹き消した。瞬時に消えた炎のあとには、僅かにローソクの燃えた匂いと、歌の名残のように白い煙がゆっくりと立ち上る。

「おめでとうございます」

 手を叩いて笑いかけると、照れくさそうに真澄は小さく

「ありがとう」

と言って笑った。

「記念にお写真をお撮り致します」

 思いがけず店員にそう促され、デザートプレートを挟んで二人は写真に収まる。レストランではよくあるサービスなのだろうが、これが真澄と初めて一緒に二 人きりで映る写真だと思うと、胸が高鳴った。額に入れたりはさすがにしないけれど、いつでも見られるよう、手帳にでも挟んでこっそり一日何回でも見てやろ う、などとマヤは思う。

 ほんの数分後には綺麗に印刷された写真が台紙に挟まれ、手元に届けられる。

「これ、私が貰ってもいいですか? 速水さんのお誕生日だから、本当は速水さんに渡すべきなんですけど、速水さんと一緒に映ってる写真、実は一枚も持ってないから欲しいです」

 そう言うと真澄は少し意外そうな表情をした後、柔らかく笑った。

「勿論だ。君がゲジゲジとの写真を欲しがるなんて、俺もだいぶ進歩したな」

「もーー、そのゲジゲジ発言は時効ですっ!」

 他愛ない笑い声が個室内に響き渡る。

「緊張して、ご飯なんて全然食べられないとか思ってたんですけど、美味しすぎて普通に全部食べちゃいました」

 ゆっくり、ゆっくり、大切に味わったフルコースディナー。最後の一皿のデザートプレートの上に、マヤは静かにデザートフォークを置いた。

「それは何よりだ。俺もとても楽しかった。美味しそうに食べる君を見ていると幸せな気持ちになった」

「ほんとに? 速水さんの幸せって、こんな簡単に感じて貰えるんですか?」
 
 自分ごときが、一年に一度しかない真澄のバースデーディナーの相手だった事に戸惑いと不安しかなかった。ましてや幸せについて考えた事もなかったと言う ような人間が、こんな事で本当に幸せを感じられたのだろうか。ただの社交辞令だと打ち消そうとしても、目の前で穏やかに笑う真澄は本当に楽しそうで、そし て幸せそうだった。
 その事が逆にマヤを切なくさせる。

 本物だったら良かったのに……。
 本当の恋人だったら、終わりが来る今日だけのこの時間を超えて、ずっと幸せな顔を見ていられるかもしれないのに。

 考えても仕方のないことばかりが浮かんでくる。

「そろそろ出ようか」

 シンデレラの帰りを促すように鳴る0時の鐘の音のように、その言葉が響く。

「はい……」

 そう答える以外に為すすべもなく、マヤは静かに席を立った。













 いつの間にか、マヤの全く気づかない所で終えられていた会計。魔法のようなそのスマートさにマヤがたじろいでいると、クロークで受け取ったコートをそっ と肩に掛けられる。襟の内側に入った髪を、流れるような動作で真澄が抜く。首筋に触れた真澄の指先に体がビクリと震えた。
 コートを肩に掛ける動作一つとっても、真澄のそれは、あまりに洗練された大人の男のもので、やはりこの人は本来、自分の相手になるような人ではなかった のだと、変なところで実感する。

 真澄は全てにおいて慣れていて、そして自分は全てにおいて絶望的に慣れていなかった。

 ごく自然なタイミングで手を引かれ、石造りの外階段を降りる。まるで一夜の夢の舞踏会を後にするように、一段一段、ゆっくりと噛みしめるようにマヤは下 りていく。一段下りるたびに、背中で今あった出来事が全て消えていくような錯覚に囚われる。

 階段を下りきると、そこは手入れの成された庭園だった。薔薇の季節はもう終わりかけていたが、僅かにのこった幾つかの薔薇が最後の香りを夜陰に放ってい る。

「今日、楽しかったです。本当に楽しかったです」

 その想いはごく自然にマヤの口からこぼれ落ちる。真澄は穏やかで幸せそうなあの笑顔で満足気に頷いた。

「ありがとうございました。お誕生日なのにすっかりご馳走になっちゃって、今度お礼にほんとに何かちゃんとしたプレゼントを贈りますから──」

 そう言い掛けた瞬間、真澄の手がマヤの腕を掴み、強く体を引き寄せられる。

「プレゼントはこれだけでいい」

 真澄の指先がマヤの顎を捉え、逸らす事の出来ない視線に絡め取られる。

「キ……キス? するんですかっ?!」

 流されるべき所で流される事も出来ないマヤは、狼狽えるあまりに上ずった叫び声をあげる。

「恋人ならする」

 そんなマヤの様子など意にも介さないように、真澄はマヤを捉えたまま離さない。

「で、でも……」

「本当に嫌だったら、嫌だと言え」

 そう言ってゆっくりと顔を近づけてくる。

「いっ、嫌……っ」

 思わずそう叫ぶと真澄が動きを止める。

「……じゃないです」

 間抜けにも必死でそう付け加えると、真澄が耐えかねたように吹き出した。

「何だそれは」

「だから、嫌じゃないですっ」

 顔を真っ赤にしながら、逆ギレにも近い声でマヤはそう言い放つ。

「後で訴えたりするなよ」

 笑いながら真澄はそう言うと、あとはもう有無を言わさぬように、まるで余計な事をこれ以上言うなと蓋でもするように、マヤのおしゃべりな口を塞ぐ。

 触れてはいけないものに触れてしまったのだとすぐに分かった。

 憧れているだけだ。
 たまに会えるだけで十分。
 仕事で認めて貰えたらそれだけで幸せ。
 幾つもの言い訳を用意しては、自分で真澄に近づく事からずっと逃げてきた。

 本当に欲しいものが手に入らない事を認めるのが怖かったからだ。自分なぞが望むべくもない存在の人に、もしも一度でも触れてしまったら、失う事に自分は きっと耐えられない。
 
 臆病者で愚か者。
 それが恋愛における北島マヤだった。

 それでも認めない訳にいかない。

 触れた唇がそう言っている。

『今夜、あなたに恋してます──』

 真澄を好きだと、胸の中で誰かが言っている。間違いなく自分の声だ。

 いたずらに触れた唇から、こじ開けられた貝のように、真珠のごとくずっと秘めていた想いが溢れ出そうになる。

 薄く目を開けると、真澄の背後にはベルベットの夜が広がっていた。どこまでも濃く、滑らかな漆黒の夜だ。あのレストランの個室の四方を囲んだベルベット のカーテンの手触りがマヤの中に蘇る。

 そうだ……、これは誕生日の夜だけの魔法だったのだ。
 あまりの心地の良さに、本物の恋人のようだと錯覚しそうになった己の愚かさに、マヤは急速に我に返る。

 自分は今晩だけの真澄の仮初の恋人であり、このベルベットで四方を囲まれた部屋を出てはいけないのだ。

 ゆっくりと真澄が唇を離す。
 あれほど溢れそうになっていた自分の想いは、潮が引くようまたマヤの中へと戻っていった。蓋を外されたら最後、間違いなく口走ると思ったそれらは跡形も なく、再びマヤの中へと消えていった……。




2019 . 11 . 6





…to be continued








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