第一話
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「仕事のし過ぎで頭おかし くなったんじゃないですか? こんなところにあたしなんかを連れて来て──」 手渡されたビロードのカバーの 掛かった、値 段の書かれていないメニュー。その縁から、顔の目より上だけを出して、マヤは真澄を恨めしげに見上げる。どうせメニューを見たところ で、併記された フランス語は勿論、母国語であるはずの日本語の意味すらマヤにはさっぱり分からない。分かるのは肉か魚の違いぐらいだ。 「レバーは嫌いか?」 先程の自分の質問なぞ、まるっと無視した真澄にそう問いかけられる。 「いえ、好きですけど……」 「そうか、良かった」 (良くない、良くない、ちっとも良くなんかない!) 悪態だけは心の中で盛大についておいた。 南青山の高級フレンチレストラン。 シックな内装に、瀟灑なシャンデリア。なぜかボーイは長身のイケメンぞろいで、一分の隙もなく細身のダークスーツを皆、着こなしている。店内は満席で、 勿論お客達もこなれた印象のお洒落でスマートな大人ばかりだ。そう、自分だけを除いて。 冴えない色のセーターに、よくわからないラインのスカート。いつどこで買ったのかも覚えていない。スウェットやジャージじゃなかっただけまだマシだった かと、普段の己の稽古場への服装を思い浮かべ、マヤは諦めにも似た溜息を一つ吐いた……。 事の発端は、いきなり真澄が紅天女の稽古場へと現れたことだ。 本公演を控え、勿論稽古も佳境に入っている。興行主である大都芸能社長の真澄がその場を訪れたところで、さしたる疑問はない。 いや、なかった。その瞬間までは……。 「この後、時間はあるか?」 稽古が終わり、各々が自然とはけていくざわめきの中、唐突にそう声を掛けられた。自分への言葉とも思えなくて、思わず瞬時に後ろを振り返ったが、誰 もいない。 「君だ、チビちゃん。間違いなく君に聞いている」 呆れたような声でそうダメ押しされ、驚きのあまり惚けた顔で床に座ったまま、真澄の顔を見上げる。 「あたし……、なんかしました?」 呼出の定番と言えば、何かしら怒られるか注意を受けるという事に、体育館の裏時代から決まりきっている。身に覚えのないアレやコレを想像して、稽古が 終ったというのにまた嫌な汗をかいた。 「何もしてない。なんで君は一々そう後ろ向きに反応するんだ。まぁ、一昔前までは俺の顔を見た瞬間、ゴキブリかゲジゲジでも見たような顔をしていたな。そ れに比べれば、少しはマシになったということか……」 呆れたようにそう言われたが、それなら一体何の用なのだとますます意味が分からない。 「食事に行く。付き合え」 冗談でなく、その場で床に座ったまま後ずさりした。そんなコントのような反応をしてしまうほど、それは真澄からの提案としてありえなかった。 「な、なんでですかっ?」 「夕飯を食べるのに理由がいるのか? いいから早くしろ」 夕飯を食べる理由など勿論聞いていない。なぜこの自分となのか? その部分に答えないのはきっとわざとだ。 「で、で、でも……、あたしこの後、黒沼先生と──」 「黒沼さんには先程挨拶しておいた。彼は今日は君に特に言いたい事もお説教もないそうだ。君を連れ出す許可も貰ってる」 慌てて振り向くと、ニヤニヤとこちらのほうを見ている黒沼と目が合った。 「北島、おまえ瘦せ過ぎだぞ。本番に向けて、若旦那に美味いもんでも食わして貰って来い」 確かに最近体重が減ったのは事実だが、それは稽古が厳しいからだ。かといって特段、身体の不調がある訳ではない。むしろ舞台上の動きも軽快になって調子 がいいと思っていたぐらいだ。 何かを言い返そうとしたが、ふと視線を感じて周りを見渡すと、稽古場にまだ残っていた者たちの視線に気付く。ここでギャーギャー騒ぐのは余りにもみっと もない。所属事務所の社長からご飯に誘われるぐらい、よくある事なのだろう。自分が今迄知らなかっただけで……。 紅天女の上演権獲得をきっかけに大都に所属して数ヶ月。その間一度も真澄に個人的にこうして誘われた事などなかった。だから余計に驚いたのだ。 「わ、分かりました! 着替えてきますからっ……」 それだけ言うと、マヤはとっ散らかした空気はそのままに、急ぎロッカールームへと向った。その時は、ロッカーに入ったどうでもいい普段着たちが、その後 大層、自分の居心地を悪くさせるなどとまだ思ってもいなかった。真澄がこんなチンチクリンな女優の端くれを連れて、そんな立派な凄い店にいきなり行くとも 思っていなかったのだ。予約がなくても入れるような、もっと気軽な店を勝手に想像していたマヤは、ミシュランの星がついているというフレンチレストランの 門構えを見た瞬間に、一緒に行くと言ってしまったこ と を激しく後悔した。 「前菜のおすすめは鶏レバーのリエットだな。ここのリエットは美味い。レバーなら貧血にもいい」 「誰が貧血なんですか?」 「若い奴が急激に瘦せた場合、大抵貧血だ。おそらく君は無自覚だろうが、その兆しがあるはずだ。悪い事は言わない。舞台の前だ、食べておけ」 「……分かりました。じゃあ、それお願いします」 特段異論はなかった。元々、さっぱり分からないこのメニューから、何かを自分で選ぶつもりはさらさらなかった。ただ「貧血」という指摘に少し驚いただけ だ。確かに最近、急に立ち上がると目眩のようなものを感じる事が数回あった。持続性のあるものでもないので、気にしないでいたが、そう言われてみれ ば……、と思わない訳にはいかなかった。 「そんなに瘦せました? あたし……」 先ほどの黒沼の言葉も手伝って、気になった事をマヤは口にする。 「黒沼さんのあれはわざと大げさに言っている。気にする程の事じゃない。ただ、ずっと見ていた人間なら気付く」 何気なくそう言われたが、最後の一文に妙な引っかかりを覚えた。 ──ずっと見ていた人間なら気付く。 所属事務所の社長として──、社運を賭けた唯一無二の舞台「紅天女」の主演女優に対する興行主の責任として──。 『ずっと見ていた』の意味や理由は、いくらでも浮かんできたが、それでも自分はどこかその言葉に特別な意味を持たせて捉えようとしている。紫の影とし て、ずっと自分を見てきてくれたであろうその人に対して。きっとそんな事は馬鹿馬鹿しい程に意味のない事だというのに……。 「それで今日、心配になって誘って下さったんですか? 大事な紅天女の主演女優が倒れたら困るって」 ──それ以外にどんな理由をお望みだ? そんないつもの嫌味な声が耳の奥で響いたが、それは現実のものとはならず、代わりに意外な言葉が返ってきた。 「いや……、今日は一人で食事がしたくなくて、君を誘った」 「な、なんですか、それ……。速水さんぽくないし……。で? 一番最初に捕まった暇そうな人間が、こうしてお伴する事になったって訳ですね」 真澄らしくない言葉を聞いてしまった気がして、ドギマギする余りに自虐的で、且つ棘のある言葉を発してしまう。真澄が一人で食事をしたくないなどと思う など、ましてやそれを口に出すなど、余りにマヤには想定外だった。 「そう突っかかるな。実際、暇だったんだろ?」 自分ごときのそんな小さな棘など、まるで意にも介さないように真澄はそう言ってからかうように笑った。 「はいはいはいはい、見ての通り、めちゃめちゃ暇ですよ。稽古以外、やる事なんてあたしにないですからっ!」 からかわれることに対して、牙をむき出して応戦するのは昔から得意だった。この人との間の空気は、いつだってこんなふうだった。 ──そう思い出して、それが懐かしい気持ちであることに、マヤは驚く。そう言えば、こうして真澄と二人で会話をするのも久しぶりだ。こうして正面から真 澄の顔を眺めるのも、もう長い事なかった。 そう……、紅天女の試演後、唐突に真澄と紫織の破談が公になったあの日以来、自分は不自然なまでに真澄に距離を置かれていたのだ……。 2017 . 11 . 3 photo by
StormPenguin-Stock
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