第2話



「こうして君と向き 合うのも久しぶりだな……」

 まるで心の中を読み取られたかのように、同じ事を真澄が言った。改まってそんな事を言われ、心の襞が乾いた音を立てた。いつもとは違う空気が流れ込む。

「紅天女、おめでとう。ちゃんと言ってなかったな、素晴らしい舞台だった」

 乾いた音を立てた心の襞の隙間に何かが染み込んでいく。ずっと求めていた何かが……。
 試演の発表後すぐ、紫のバラの人からは花を貰っていた。祝福と賛辞の言葉とともに。けれども速水真澄としては、言葉を交わすどころか会う事すらなかっ たのだ。本当のところで真澄がどう思っているのか、どう受け止めてくれたのか、ずっと分からないでいた。

「本当に……、本当にそう思ってますか? 社交辞令とかじゃなくて?」

「芝居に関して、俺は本当の事しか言わない。大体この俺が君に社交辞令なんて使う訳ないだろうが」

 そう言って柔らかく苦笑されると、緊張して強ばっていた体の一部分が、ようやく真澄の言葉をそのまま受け入れる事を良しとした。

「君の事はずっと見てきた。初舞台は若草物語だったな。高熱を出してまで舞台に上がる無茶は、いかにも
君ならではのエピソードだ。あの時、君の瞳の中に見た情熱の塊を、今でも君の中に見る 事が出来る。不思議だな……、普段は平凡で取り立てて目立つ所もないと言われる君が、舞台では誰よりも目を引く。誰よりも輝く。だから……、まるで視線を 奪われるように君の事ばかりを見ていた」

「……いつからですか? いつからあたしのこと、そうやって見ててくれたんですか?」

「──ずっとだ。ずっと見てた」

 耳の奥が鳴る。
 限界まで研ぎすまされた神経が、何かを訴えるかのように。
 あと一言、あとたった一言──、「自分が紫のバラの人だった」と、『いつもあなたを見ています』の言葉通りに見てきたと、そう言ってくれれば、この人の 胸 に自分は飛び込んでいけるのに……。








 色鮮やかな野菜やソースを纏った華やかな皿が、次から次へと運び込まれ、
食事は続いていく。そうして核心に触れそうで触れる事なく、テーブルの上の絶妙な間を取り ながら、二人の会話は進んでいく。
 不自然ではない会話の糸口をマヤ は探す。

「さっきの、今日は一人でいたくなかったって、あれどういう意味なんですか?」

 先ほど言われた、真澄には不似合いな「
今日は一人で食事がしたくなくて、君を誘った」という言葉の意味を、マヤは知りたいと思う。

「別に孤独自体は決して嫌いじゃない。一人だと色々な事を考える。考えることで、それなりに答を見つけたり、折り合いがつけられる。俺はずっとそういう生 き 方をしてきた。だが……、時々何ももう考えたくない夜もある。特に考え過ぎた時はな。だから君に付き合って貰った。嫌だったか?」

「嫌……じゃないです。嫌とかそういうのはない……です」

 細切れにつっかえながらそう答えると、真澄は柔らかく笑う。

「成長したな。君も大人の対応が出来るようになったという訳か。昔は君を連れ出すには実力行使しかなかったからな。担ぎ上げたり、椅子に括り付けたり ──」

「あー、なんか色々思い出してきました。速水さんて、ほんっと昔から超強引でしたよねっ!」

「君は変わってないな……。子どもの頃から知っているが、君ほど変わってない人間も珍しい。
ただ……、大人になった。そうだな、確かに君も奇麗になっ た

 どんな表情をしたらいいのか分からず、マヤは焦点の定まらない目をした。確かに大人にはなったかもしれない。年齢の上では間違いなく、初めて出会った頃 からもう八年もの歳月が流れているのだから。ただ、奇麗になったという部分にまともに反応するには、やはり自分はまだまだ子ども過ぎたと、マヤは思い知ら される。

「速水さんは? どんな子どもだったの? 自分では変わったと思います?」

 慌てて会話の矛先を真澄の方へと向ける。

「すっかり変わったよ」

「どんなふうに?」

「何もかもだ」

 真澄が一瞬遠くを見る。まるで失われた時の間の歪みに、何かの残像を探すかのように。

「……野球少年だったな。毎日泥だらけになっていた。どちらかと言うとガキ大将だったかもな。いたずらもよくした。誰とでもすぐに仲良くなれるタイプで、 人を疑う事も知らなかったし、俺を疑う人間もいなかった。なんというか……、そうだな……、凄く単純で幸せな世界に生きていたと、今なら思う」
 
 真澄は懐かしさに目を眇めたかと思うと、今度はゆっくりと目を瞑って大きく息を吐いた。身体の奥に刻まれた、過去の鈍い痛みを思い出すかのように。

「俺は過去に一度、生き方を大きく変えた。全く別の人間になったといっても差し支えないぐらいに……」

「何をきっかけにそんな──」

「誘拐されたんだ……。親父がもみ消したし、表沙汰にはなっていないので知る人間は少ない。もう時効だろう。ただ……、速水真澄になっていなければ誘拐な どさ れるはずがなかったし、こんな曲がった人間になる事もなかっただろうな」

 そこで真澄はこれまで見た事もないような、苦笑と呼ぶにはあまりに歪んだ表情を浮かべた。

「時々考える、あの頃の自分は今どこにいるのだろう、と。もしかしたら同じ顔をしてどこかで全く違う人生を歩んでいるじゃないかと、妙に会いたくなったり もするな」

……そう……かな、結構変わってないと思いますよ

「え?」

 驚いたように真澄がこちらを見る。

「ガキ大将でわんぱくで、物凄い大声で笑ったり、人の事からかっていたずらめいたことしたり……、あたしの知ってる速水さんはそういう人ですよ、今 も……」

 真澄が冷血漢だの、手段を選ばない仕事の鬼だの、色々と揶揄されている事は勿論知っている。真澄が周囲の人間からそういった印象を持たれている事も、間 違 いはないのだろう。
 けれども自分はそうではない真澄の顔も知っている。それは隠し切れるものではないし、例え過去に真澄がどれだけその部分を消し去ろうとしたところで、ど うしても捨て去る事の出来なかった、真澄という人間の本質にすら思えた。
 やがて真澄は、「まいったな……」と聞こえない程に小さな声で口の中だけで呟くと、こちらを見て穏やかに言った。

「ありがとう……」

 幾度となく惑わされた、あの穏やかで優しい笑顔で真澄はそう言った。









 デコラティブな飴細工の冠を被っ た、秋の味覚の代表であるマロンのスイーツで食事が締めくくられる。
 舌に乗せては瞬く間に消えていく、幾重にも重ねられた複雑な味わいの広がりを見せる目の前のフランス料理のように、真澄との二時間に渡る二人きりの時間 は、結局その正体を明確にする事はなく、心地よい余韻とまた幾許かの謎だけを残して終わった。

 なぜ、突然誘われたのか。
 なぜ、ここ数ヶ月避けるようにされていたのか。
 そしてなぜ、こうして紅天女になった今現在も、紫のバラの人としての正体を明かしてくれないのか。

 燻る疑問はいくつもマヤの中に残されたまま、濃厚なワインの味わいと共に、再びマヤの胸の奥へと沈んでいく。
 無邪気にそれを問いただせるほど、もう自分は若くなかったし、正直な事を言えば、そのどれもこれも特段大した意味など、そもそも真澄にはなかったとされ るオチが容易に想像出来て、とても口に出来なかった。

 ──結局のところ、自分は酷く臆病なのだ。
 それでいて、どんなタイミングでもどんなきっかけでも、こうして真澄に気まぐれにでも誘われれば、きっと何度でも応じてしまう。

 愚か者の恋とは、きっとこういう恋のことを言うのだろう……。





2017 . 11 . 4





…to be continued


 











photo by StormPenguin-Stock




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