第1話




義理だったら渡せるかもしれない。

そう思うのは物凄く後ろ向きで消極的な思考だと思う一方で、それでもあの真澄を相手に、ヴァレンタインなどという自分には縁のなさそうな行事に無理にでも 参加するとなると、その思考回路はある意味仕方の無い事で……。

偶然にもヴァレンタインデーである二月十四日は、紅天女の契約更新の件で会社に呼び出されていた。土曜日だというのに、と訝しく思うよりも、その図ったよ うなチャンス到来に歓喜する方が先だった。

山の様に貰うであろうそのチョコ達を、実際真澄が口にするのかどうなのか、マヤには見当もつかなかったが、あの真澄の口に入る可能性が一パーセントでもあ るのであれば、とリサーチにリサーチをかけ、幻のチョコとして有名な、デパートなどには支店を出していない小さなショコラティエのチョコレートを選んだ。 駄菓子のチョコレートの値段しか知らなかったマヤからすれば、その小さな小箱に整然と並んだシンプルなチョコは目の玉が飛び出る程の値段だったが、真澄に あげるのだったらこれがいい、と心の底から思えたので躊躇なくそれにした。

それにしても世の中は、自分の知らない事ばかりだ。
こんな高いチョコレートがこの世に存在するなど、昨日までのマヤは知らなかったし、チョコを買うのに三時間も並ぶなんて考えた事も無かったし、そして試食 用にと自分にも小さな四粒しか入っていない小箱を購入したが、こんなに美味しいものがこの世にあるのかと、溜息が出る程驚いた。

口に入れると、何もしなくてもゆっくりと甘く融けて行くそれは、夢見がちに思い描く恋のような味だとマヤは思う。救いようの無い程の甘さの最後に、苦みが そっと顔を出すあたり、まさに恋の味だ、と。

苦み──。
そう、所属事務所の社長であり、そして業界一のモテ男と言われる
速水真澄に不毛な片思いをして、もう一年になる。





大都芸能社長室。

「はい、これで全部サインしました。今年もよろしくお願いします」

そう言って深々と頭を下げた。

「ああ、君のおかげで大都も安泰だ」

「私じゃなくて、紅天女のおかげでしょ?」

そんなふうに軽く言い返しながらも、バッグの中に忍ばせてきたチョコをどのタイミングで出せばいいのか、マヤは意識の裏側でずっと図っている。
サインはもうした。正直、ここに長居する理由は全くない。土曜日だというのに真澄がわざわざ出社しているという事は、きっと何か大事な案件があるのだろう とマヤは予想する。おそらく間もなくここを追い出されるだろう。

「あの……、これ──」

そう言ってバッグの中のそれに手をかけた瞬間、予想外の言葉に遮られる。

「今日はこの後、暇か?」

「は?」

驚きはそのまま、無骨な一言となって唇からこぼれ落ちる。

「もし予定がなければ、プレゼントを買うのを手伝って欲しいんだが……」

あまりに想定外のその言葉に、マヤは仰け反る程に息を吸い込んで固まる。突発性の難聴で聞き間違えたのかもしれないし、チョコを渡すタイミングばかり考え ていて、心ここに在らずのあまりに聞こえた幻聴だったかもしれない。マヤは絶句したまま真澄の次の言葉を、ただ呆然と待ってしまう。

「最近の若い子は何が欲しいのか、さっぱり分からない」

少しずつ話の輪郭が見えて来る。どうやら真澄は、若い──おそらく自分と同じ年ぐらいの──女性にプレゼントを用意したい、そういう事なのだろう。

「そ、そんなの……、私なんかに聞くのがそもそも間違っていますよ! ブランドなんて速水さんのほうが詳しいし、水城さんのほうがオシャレで素敵なもの きっとご存知ですから!」

謙遜ではなく、心の底からそう思うのでマヤは必死にそう伝える。人には出来る事と出来ない事がある。これは出来ない事のほうだ、と瞬時にマヤの脳は判断し た。

「似てるんだ……」

またしても予想外の言葉。

「君に……。欲もないし、派手な事も好まない。何をあげても困らせるばかりのような気さえする」

そう言って本当に困ったように、そしてどこかバツが悪そうに窓の外に視線を逸らした。
その姿を見て、ズキリと心が動いた。
嫉妬をした訳ではなかった。
というか、嫉妬などする立場にもない。ただ驚いたのだ。この冷血漢などと噂される男にもそんな感情がある事や、そんな関係性を持つ存在がある事に。
そして間違いなく自分は羨ましく思った。
何もしなくてもあの真澄を困らせられる、その存在に……。

「いいですよ……」

そんな真澄の姿を見ていたら、勝手に口がそう動いた。
仕事以外の事で困っている真澄の姿をもう少しだけ見てみたいと思ったのも事実だし、真澄を困らせるその存在について、ほんの少しでいいから知りたいと思っ てしまったのだ。






土曜日ということで、いつもの運転 手ではなく真澄自身が運転する車は表参道へと向かう。真澄の運転する車の助手席に乗るなど、勿論初めての経験だ。
まるでデートのようだ……、とは出来るだけ思わないようにして、舞い上がる気持ちにマヤは必死で重石をした。

「えっと、そもそも何のプレゼントなんですか?」

「誕生日だ」

何気ない質問に何気なく答えられたのに、何気なく流す事が出来なくて、マヤはドキリと縮んだ心臓に同調するように、すぐその上のシートベルトをきゅっと握 る。
誕生日──。
自分の誕生日ももうすぐだ。勿論そんな事、真澄の知る由も無い事だけれど。「私もなんですよー」などと何でも無いふうに叫ぶ軽やかな大胆さも、「私だって 来週誕生日なのに」などと可愛らしくいじけて見せるようなあざとさも持ち合わせないマヤは、ただ曖昧に笑って言うのが精一杯だった。

「速水さんに御祝いして貰えるなんて、大事な人なんですね」

「そうだな……」

少しだけ間をあけて、真澄は穏やかにそう答えた。
真澄を困らせて、そして大事にされるその存在を、また少し、マヤは羨ましく思った。

「君だったらどんな物が欲しい?」

「え? 私?」

思わぬ方向から言葉をかけられマヤは戸惑う。

「いえ、私はそんな……。欲しいものとか、ほんとに特にないですし……」

真澄が苦笑する息づかいが隣から聞こえ、真澄が望むような答も言えない自分が情けなくなる。

「あ、でも……、私だったら物より想い出が欲しいな」

「想い出?」

「はい。美味しいご飯とか食べに行って、楽しいおしゃべりとかいっぱいして、あー楽しかった! 美味しかった! みたいなの。物は失くしたり、壊れたりす るけれど、想い出は失くさないし、壊れないから……」

「上手い事を言うな。どこか行きたい店とかもあるのか?」

自分の提案に少しは興味を持ったのか、真澄にそんなふうに聞かれるが、勿論こんな妄想に具体性などある訳がない。

「な、ないですよ。そんなの……。素敵なお店とか知りませんから。あ、でも──」

ふと脳裏に浮かんだある光景が、突然マヤを捕らえて放さなくなる。
でも、の後に言葉を失った助手席の存在に、真澄が訝しげな視線を一瞬送る。

「速水さん、恵比寿駅って降りたことあります?ロータリーのほうじゃなくて、三越とかウェスティンホテルがあるほう。あそこの広場の目の前にお城がある じゃないですか。凄く素敵な。私、あれ、本当にお城だと思ってたんですよ。でもお城だったとしても、じゃぁ、中には何があるのかとか考えてみた事も無かっ たんですけど、あれ、レストランなんですってね」

「ロブションか。そうだな、あそこは素晴らしいレストランだ」

「ね、そうみたいですね。あのお城は何? って友達に聞いたら、超高級レストランだよ、知らないの? って笑われました」

そう言って、マヤは思い出したように舌を出して笑う。そう、自分は本当に何も知らずに生きているのだ。芝居の事以外は何も──。

「速水さんは行った事あるんですね」

「まぁ、仕事の接待ばかりだがな」

真澄らしい回答にマヤはまた少し笑う。

「きっと凄い高級で、豪華なんだろうなぁって、前を通るとマッチ売りの少女みたいな気分になっちゃうんですけど、自分には絶対縁が無い場所だって思うか ら、誰かに連れて行って貰えたら、一生の想い出になるかなーとかちょっと思います」

「なるほどな。参考になったよ。若い子の意見は今後のリサーチにも役立つ。でも今回に限っては、やはり物が欲しい。一緒に食事に行く関係ではないんだ」

「え?」

意外な言葉を聞いた気がして、マヤは思わず助手席の背もたれから起き上がって真澄の方を見る。

「速水さんと食事に行きたがらない人なんているの?」

言ってしまった後で、隠すべき自分の本音やら、妙な湿度を伴ったふうにそれが響いてしまった気がして、慌ててマヤは付け加える。

「いえ、あの、速水さんだったら何でもおごってくれそうだし。よ、喜ぶんじゃないですか? 女の子だったら普通……」

「君が言うと、なんだか自分が物凄く嫌らしい金持ちのおやじになったような気持ちになるな」

そう言って、苦虫を噛み殺したように笑う。
そんな事ない、そんな意味じゃない、そう叫ぼうとすると、またしても想定外の真澄の言葉がそれを遮る。

「年が凄く離れている」

「え? 年? いくつ?」

少しの間が出来る。正確に年の差を思い出しているのかもしれない。

「十歳以上離れている」

「なんだ、そんなふうに言うから三十歳ぐらい離れているのかと思った」

「三十歳って……、生まれたばかりの赤ん坊じゃないかっ!」

真澄が怒ったように叫んだので、マヤは堪えきれずクスクスと笑い出す。

「全く君って子は……。三十歳差なんて、まるで臨終間際に遺産目当ての若い女に無理矢理籍を入れさせられる億万長者の老人のようじゃないか。一体俺を何だ と 思っている。そこまで年寄りじゃないし、そういう趣味もない」

「だって、速水さんがそこまで気にするなんて……。今時、そんなの気にするの速水さんぐらいですよ。そんな、十一歳ぐらい──」

「十一歳?」

しまったと思ったが遅かった。見事に真澄に言葉尻を拾われる。

「あ、い、いえ……、十歳とか十一歳とかって意味で……」

真澄の隣の助手席に座っているのは楽しくて、つい口が滑ってしまって困る。シートベルトの胸のあたりを意味もなく弄ぶように触りながら、マヤは真澄には分 からないように小さな溜息を吐いた。
真澄にはそんな事、などと言い切ったけれど、自分が真澄との年の差十一歳を気にしなかった事はない。いつだってそればかり気にしていたし、いつだってだか ら無理だ、と否定してきた。
自分の事でなければ、いくらでもそんな事が言えてしまう自分の都合の良さに、マヤはまた心の中で溜息を吐いた。

「そう言えば今日、ヴァレンタインですよね」

話題をそらそうと、マヤはまるで天気の話でもするように言う。今日はいいお天気ですね、そんなふうに。

「そうだな……」

少し気のないふうに真澄の声がそう響いたのは、右折の信号を気にしていたからなのか、それとも本当にヴァレンタインなどどうでもいいという気持ちの 表れなのか、マヤは計りかねる。

「沢山貰いました?やっぱり」

「チョコレートの話か?」

信号が変わる前に右折できた真澄の車は再び、快調に直進する。真澄の答えも再び真っ直ぐに返って来る。信号のせいだったのだ、と少しだけ安堵する。真澄と 二人きりで過ごす時間。真澄が退屈したり、自分という存在を持て余すのを、自分は何より恐れていた。

「そうだな。今年は土曜日だから減るかと思ったがむしろ増えた」

「え?」

恐らく昨日の金曜のうちに、社内の人から沢山貰ったという事なのだろうが、平日でない分減りこそすれど、増える理由は確かにマヤにも分からない。

「破談になって独り身に舞い戻った、かわいそうな社長を気遣っているんじゃないのか?」

「そんな……」

自虐的にそんな事を言う真澄に対して、何か否定の言葉を探してみたけれど、上手い言葉は見つからないばかりか、そんなふうに言われたら、バッグの中に隠し ているこの チョコの行き場がますますなくなったと、マヤは下唇を噛んでそっと俯いた。




真澄が紫織との婚約を解消したのは、ほんの二ヶ月前の出来事だった。





2015.2.14





…to be continued






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