第一話 |
「分かったわ。じゃぁ、19時に社長室まで来て貰えるかしら?」 優秀な秘書であるはずの水城のその言葉を少しも疑うこともしなかったのは、とにかくこの日に絶対に遂行しなければいけない任務で頭が一杯だったとい うのもあるし、何とかこの日にアポを取り付けられたという安堵感でそれ以上は何も考えられなかったというのもある。 19時──。 主の居ない社長室の大きな掛け時計の短い針が、数字の7に合わさる。さすがに鳩は飛び出してはこないけれど、秒針がカチリと真上を指す音が確かに聞こえ た。 (お腹すいたな。帰りはラーメンでも食べて帰ろうかな) そんなことが頭を過る。気を抜いたら、例のごとく腹の虫でも鳴き出しかねない。こんな日にこの場所でそんな事になったら、一生真澄にネタにされるのは分 か り切っている。マヤはグッと腹筋に力を込め、なんとかその腹の虫を捕らえようとした。 社長室で真澄の戻りを待っている。 これが何でもない日の、仕事に関する何でもない用事であれば、どうということもない。けれども今日はバレンタインデーなのだ。マヤの膝の上には義理チョ コを装った手づくりのそれが、ひっそりと出番を待っている。 「お世話になっている方たちにチョコをお配りしてて、えっと……、速水さんにも良かったらお渡ししたいんですけど……。あの……、水城さんが渡して下さる のでも──」 精一杯なんでもないふうを装ったマヤのその言葉に対して、水城はあっさり承諾すると、19時という通常のアポとしては幾分遅過ぎる時間を指定してきたの だ。 アポを取り付けられた興奮からようやく冷静になり、諸々準備もしてここまで来る道すがら、やっとその事に考えが及んだ。 随分遅い時間の約束だな、と。 けれどもきっとそれは、重要な仕事の案件でもない、ただの所属の若い女優の一人である、言わば身内のような存在の自分は、一番最後に回されたのだと思い 当たると、その考えが一番しっくりきた。 現に約束の十九時を回ったが、真澄が戻る気配もしない。水城ももう帰ってしまった。どれだけ待たせても別に失礼にも当たらない、そう思われているであろ うことは容易に想像がつく。実際、恋人などいない自分にとって、バレンタインデーの夜に予定などあるはずもなく、待たされたところでこれと言った不都合は な い。そう、お腹の虫の鳴り具合以外において。 何とはなしに、目の前の応接テーブルの上に置かれた雑誌のページを手繰る。暇と緊張、相反するその感情を持て余してどうにかなりそうだ。 【小悪魔直伝!マル秘モテテク!これが愛され女子!】 永遠に自分とは縁のなさそうなそんな表題の記事を追う。ぶっちゃけキャラで売っている、グラビア出身のタレントがウインク連発で秘蔵のモテテクを披露す るというページだった。 【ブランド財布をおねだりする時は、『自分よりお金持ちの人にお財布をプレゼントして貰うと金運が上がるそうなので、あやかっていいですか?』と言う。言 われたほうも悪い気はしないよ♪】 男に物などねだったことなどないどころか、そんな事を思った事すらないマヤにとって、この世のどこかに本当にそんなことを言ってお財布を貰える世界があ るのかとただただ驚く。どちらかと言うと、実際それで本当に金運が上がるのか、そちらのほうが本気で気になったりもする。 【デートは二回断って、三回目でOKすると価値が上がって大事にして貰える】 二回断る事の意味など、永遠に自分なぞには分からないのだろうな、と深い溜息をついた。もしも真澄にデートになど誘われたら、どう考えても一回目から しっぽを振ってついて行ってしまうだろう。 びっくりするような、マヤには到底理解出来ない、数々のモテテクニックを披露して、炎上覚悟の笑みを浮かべるこのタレントに、そう言えばつい最近、ドラ マの番宣のために出演したバラエティー番組で会った事がある。テレビ画面での華やかさと毒々しさとは全く似つかわしくないほどに、楽屋ですれ違いざまに挨 拶をした実際のその人の声はとても小さく、申し訳なさそう体を屈める様子を見て、きっとこの人も色々大変なのだろうとその時思った。 誰だって、ありのままの自分で生きていきたいと思っている。思っていても、そうはいかないのがこの世の中なのだ。 そう溜息吐いて、マヤは膝の上で待機するチョコに視線を落とす。それは自分にしたって同じことだ。 噂で聞いた。 真澄は貰ったチョコレートは全てまとめて処分していると。処分と言ったら語弊があるかもしれないが、捨てている訳ではないけれど、まとめてどこかに寄付 しているそうだ。甘いものは得意ではないといつだったかも言っていたし、バレンタインのチョコなぞ、店が開けるほど貰うと豪語したとも聞いている。さもあ り なん。 だからそんなことが出来たのだ。 箱の底に、そっとカードを忍ばせた。 【好きです】 書いているそばから心臓がバクバクと震えたが、冷静になると少し笑えた。全てを食べなければ気付かない。ということは、きっと自分のこの本当の気持ちは 気 付かれない。 馬鹿げた子供じみた悪戯だと自分でも思う。 あくまで義理チョコを装わなければ、こんなもの一つ、真澄に渡す事が出来ない自分の臆病さと不器用さに、世界で一番苦いビターチョコレートのような溜息 がまた一つ、こぼれ落ちた……。 ──ガチャリ。 突然、社長室の扉が開いた。その瞬間をずっと待っていたというのに、飛び上がるほどに驚くこの矛盾。義理チョコを渡しに来た自然な余裕を演出出来ている とは、到底思えない。 「悪い、待たせたな、チビちゃん」 そんなマヤの葛藤を知って知らずか、いやきっと知る由もないだろう、いつもと何ら変わらないテンションで、真澄はそう言った。 「いえ、全然。どうせ暇ですから」 気を使わせまいと言った一言の余りの寂しい響きに、言ってしまった後から気付き、マヤは狼狽えそうになる。今日はバレンタインだというのに、暇などと宣 言してしまった自分自身に対して。そしてそんなことを思ったりすること自体、そもそも自意識過剰だという事にも。 「あの、これ……! いつもお世話になっています。ぎ、義理チョコですっ!」 そう言って唐突にチョコの箱を目の前に差し出す。 「何もそこまで義理だと宣言して渡すこともないだろうが」 呆れたように真澄が笑う。恥ずかしさから俯いたままでいると、差し出した指先からそっとチョコの重さが消えた。 「ありがとう。義理とは言え、あれほど嫌われていた君からチョコを貰えるなんて嬉しいよ」 その穏やかな笑みの温かさと眩しさに、義理を装ったとは言え、自分の心の一部を持っていかれたような錯覚をマヤは覚えた。 チョコは渡した。 もう用は済んだ。という事は、ここにいる理由はもうない。 出て行かなければ──、そう思い当たると、マヤは慌てて荷物をまとめて部屋を後にしようとする。 ふと、視界に入る違和感。 おそらくこれから再び仕事、あるいは某かの予定が入っているのだろうとばかり思っていたその人は、クローゼットからコートを取り出し、身支度を整えてい る。 「あ……の、速水さん、もう帰るの?」 訝しげな顔で真澄がこちらを見る。慌ててマヤは言い直す。 「いえ、あの……、今日の予定は?」 「ない」 「お仕事は?」 「もう終わった」 「えっと、じゃぁ、会食とか接待とか──」 「ない」 宙に浮いたような沈黙が横たわる。中途半端にぶら下がったその沈黙の間に、真澄がそっと微笑む。 「何もない。君だけだ」 ──君だけ。 この人の言葉は、こうやって時々全く違った意味を持って響く。鼓膜の奥で、あるいは胸の奥で。特別な残響をもつその部屋でいつまでも木霊する。その残響 の中で自分だけに作用する特別な意味合いを探す自分は、とんでもなく愚かしい。 けれどもやめられない。 もうきっと、ずっとそうなのだ。 「行くぞ」 当たり前のように促すその声に、マヤは飛び退いて驚く。 「ええ?! 行くって……、行くって、どこへですか?」 「そんなに驚く事か? 君だってどうせ何もないんだろ。いいじゃないか、だったらあぶれた者同士、こんな夜は仲良くやればいい」 呆然と立ち尽くすマヤをさっさと追い抜き、前を行く真澄をマヤは必死に追いかける。 「ちょ、ちょっと、そんな……、速水さんともあろう人がバレンタインデーに予定ないとか」 「ないだろ。恋人もいない」 涼しい顔のその人は、歩幅を緩めることもなく歩き続け、一つ目の社長室の扉を抜けて行く。 「こ、恋人はいなくたってデートする人ぐらい、速水さんにだったらいくらでも──」 「破談したばかりの三十路の男になんて、怖くて誰も近づかない」 「そ、そんなもんでしょうか?」 「そんなもんだ」 そう言って真澄は振り向くと、この話はもう終わりだと言わんばかりにマヤの顔をじっと見つめる。真澄が手をかけた秘書室の扉を開ければ、もう外は廊下 だ。 「今夜は俺と君とでデートをするんだ」 そう言って、ドアが開け放たれる。真っ直ぐに続くその道を、例え今晩だけでも、いや、今晩だからこそ、マヤは歩いてみたいと思う。 照れを隠そうとする余り、つい怒ったような顔で、真澄の横をすり抜ける。ふっと漂う真澄の男の香りに目を伏せる。 【デートは二回断って、三回目でOKすると価値が上がって大事にして貰える】 やっぱり自分は断るなんて出来そうもない。 予想通りの自分の行動に、マヤは小さく笑った。 2016 . 2 . 14 励みになります!
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