第二話 |
四谷のビル街の路地裏、一見ただの古民家のような一軒家に連れて行かれる。のれんもなければ看板もない。けれども慣れた様子で真澄
がその引き戸を開けると、着物の女性が深々とお辞儀をして出迎えた。 「お待ちしておりました。速水様」 こういうお店ではどうするのが正解なのか、見当もつかないマヤは、慌ててぺこりと頭を下げた。 「あの……、ここは何屋さんなんですか?」 小声でそっと真澄に確認する。 「鉄板焼きだ。何でも好きなものを焼いてくれる」 「鉄板焼き……」 何でも好きなものを焼いてくれる、などと気軽な調子で真澄は形容してくれたが、マヤの脳裏に浮かぶ、つきかげの仲間とホットプレートでするそれや、川辺 のバーベキューのそれとは、全く違うものである事だけは予想がつく。きっと特大ソーセージを焼く事もないだろうし、締めに大盛り焼きそばが出て来る事もな いだろう。 果たして案内された仄暗い間接照明の部屋は、個室だというのにテーブルではなく、L字型のカウンターが設えられていて、そのカウンターテーブルと一体化 した鉄板が艶やかに黒く光っていた。 「こんな日は、若い奴らはこぞってフレンチかイタリアンに行く。さすがにいい年したおじさんがそこに混ざるのは厳しいと君に言われそうだからな。ここは肉 も魚貝も美味いし、何より静かでいい」 戸惑うマヤに真澄は笑いながらそう言うと、そっと腰に触れ、椅子に掛けるよう促した。 大人しか来てはいけない店。 きっとここはそういう種類の店なのだと、さすがのマヤにも分かる。背の高いスツールに腰掛けると、足が床に届かない分、ふわりと背伸びしたようなそんな 気持ちになった……。 白く清潔な作務衣と帽子が黒い鉄板と対照的な板前が、静かに二人だけのためにコースを用意する。 「こちら伊勢志摩産アワビです。焦がしバター醤油で味付けてありますので、そのままお召し上がり下さい」 物静かな口調で淡々と焼かれる美しいアワビや帆立の姿、そして香りにマヤは何度も感嘆の声をあげ、舌鼓を打つ。 「いいなぁ、ずるいなぁ、速水さん、毎日こんな美味しいもの食べてるんですか? 接待っていいですよねぇ。憧れちゃう」 「仕事相手と食べたのでは、美味さも楽しさも半減だ。接待や会食なぞ、君が思う程いいものじゃない」 仕事相手──。 では、自分はどうなのだろうか。仕事相手とも違うかもしれないが、恋人などでは勿論なく、かと言って友人、と言い切るのも少し違う気がする。ならばやは り社長と女優という意味では仕事相手なのだろうか。アワビの歯ごたえを奥歯で確かめながら、マヤはそんな事を考える。 「なんか……、私ばっかりさっきから、美味しい、美味しい、連呼してて……。あの……、速水さんは? ちゃんと美味しく食べてます?」 「美味いよ。君がいるから、美味い。仕事以外で誰かと食事をしたのも久しぶりだ」 そう言って、真澄の長い指先が、マヤのスツールの背もたれにそっと置かれた。真澄にしてみれば、無意識な何気ない動作。けれども「君がいるから、美味 い」と言ったその言葉と相まって、ならば自分は真澄にとってどういう存在なのだろうかという想いが広がる。そして仕事以外で最後に食事をした相手とは、や はり紫織なのだろうかという想像に、同時に胸が詰まる。 「ご結婚、残念でしたね……」 何かを言わなければと思うあまり、そんな言葉がこぼれ落ちた。自分ごときが触れるべき事柄ではないようにも思えたが、ずっとその話をしないのも不自然な 気がした。 「そうでもない」 返って来た意外な言葉の響きに、マヤは驚いて真澄の顔を凝視する。 「これで良かったと思っている。勿論、方々に迷惑をかけたし、何より相手を傷つけた事は許される事でもないが、あのまま結婚したほうがより不幸な結果に なっていた」 「そんな……、どうして……ですか? 凄くお似合いだったのに……」 不用意にそのような事を聞く立場に居ないとは分かっていたけれど、そんな断片を聞かされたら問いかけずにはいられない。 なぜ、どうして、ダメだったのか──。 「政略結婚が破談になる理由に、つまらない利害関係以外あると思うか?」 突然、苛立を纏ったような鋭利な言葉で切り返され、マヤは息を呑む。踏み込んではいけない場所に踏み込んだ瞬間に、まるで刃物が飛んできたかのように。 「え……と、あの……、ご、ごめんなさい。私、ほんとに何も知らなくて……。政略結婚とか言われても、それがどういう事なのかともよく分からなくて。た だ……、私が見たお二人はとてもお似合いで、好き合っているんだって、そう思っていたから、ほんとにただただ驚いて……」 言葉を紡げば紡ぐ程、間違った方向に絡み合う糸のように取り返しのつかない塊になる。 俯くばかりの頭に、真澄の大きな手のひらがそっと触れた。 「声を荒げてすまなかった。君が下世話な興味本位で聞いている訳でもない事も分かっている。ただ、誤解がないように言っておくが、俺は今、君が思う程落ち 込んでもいないし、残念に思っている訳でもない。むしろ、ようやく手に入れた自由を噛み締めている。例えばこうやって君とバレンタインデーにデートをして も許されるような自由を」 そう言って、真澄が言うところの”自由”が注がれたワイングラスを軽く持ち上げ、その縁を合わせてくる。 取り戻された、余裕のあるその笑みの向こうでは、すでにどこまでが本音で、どこからが冗談なのか、もう分からない。真実に近い、真澄の本音の輪郭が見え たような気がした瞬間はほんの一瞬で、それはもうここには無かった。 所詮、自分のような小娘が敵う相手でもないし、対等な立場で何かを駆け引きすることなど、出来る訳ないのだ。 自分ごときに出来る事と言えば、目の前の葉山牛のステーキに感嘆の声をあげ、二月にして今年一年分のご馳走運を使い果たした、などと大げさに騒ぐぐらい だ。勿論それは、演技ではなく本心からではあるけれど。 「もうすぐ誕生日だな」 彷徨う思考の向こうから、唐突にそんな事を言われ、マヤは驚いてワインを喉に詰まらせる。 「え、知ってたんですか?!」 「そのぐらい知っている」 呆れたように、ワイングラスを唇に当てながら、真澄が目を伏せて笑った。 「何が欲しい?」 「いえいえいえいえ、そんな──」 余りにもサラリと当たり前のように聞かれ、咄嗟に否定する事しか思いつかない。だって、その聞き方はまるで恋人のようだと、マヤは赤面する。 「ほんとに、あの……、いいです。覚えていて頂けただけで充分ですからっ!」 「遠慮するな」 そう言われても、本当に困ってしまう。物欲とも流行への興味とも無縁な自分は、遠慮などでなく本当にこんな時に何も思い浮かばないのだ。 ふとそのタイミングで、先程社長室で読んでいたあの記事が脳裏を過る。 「あ、じゃぁ……」 そこまで言って、その先を飲み込む。 「いえ、やっぱり何でもないです」 「なんだ?」 「図々しいから言えません」 「いいから言え」 果てしない押し問答の末、マヤはポツリと呟く。 「お財布……」 真澄の表情が訝しげに揺れた。 「えっと、あの……、さっき社長室で待たせて頂いている間に読んでた雑誌に書いてあったんです。自分よりお金持ちの人にお財布をプレゼントして貰うと金運 が上がるって。ちょうど私のお財布、周りのみんなにも、今時がま口とかないでしょ、とか散々言われてたので、いい機会なので大人なお財布とか欲しいなーと か……。それに速水さんだったら、間違いなく私よりお金持ちだし、それどころか私が知る限りの人の中で一番お金持ちだと思うし、ご利益あるかなーとか」 モテテクがどうのこうのの部分は勿論割愛した。そもそも動機はそこではないし、金運UPを本気で願っていたかと言われればそれも違う。 ──お財布であれば、毎日使える。 そう思ったのだ。 もしもこんな自分が、真澄から初めて誕生日プレゼントとして何かを貰えるのであれば、ずっとずっと毎日触っていられるものにしたい。 毎日身につけるものとは言っても、恋人でもないのに指輪などのアクセサリーなどをお願いするのは幾らなんでも憚られる。けれどもお財布であれば、例の金 運UPのネタを隠れ蓑に、カラリ乾いた湿度を伴わない空気感を演出しながら、お願い出来るかもしれない、そう思ったのだ。 果たして真澄は、柔らかく苦笑する。 「金運アップか。チビちゃんらしいな。分かった、プレゼントするよ」 マヤの心の葛藤など、まるで与り知らぬその人は、そう言って屈託なく笑った。 その笑顔にふいにマヤの気持ちが緩む。今なら聞けそうな気がしたし、聞いても許される気がした。 「速水さんは、もう恋とかしないんですか?」 本当は破談の話から一番聞きたかったのは、それだった。真澄の心の中に、そうやって揺れ動く余地は果たしてあるのかと。もう恋愛も結婚も、こりごりだと 封印してしまっているのではないかと。 何を聞いているんだと、呆れたようにこちらを見たまま返事をしない真澄に対して、焦燥感からマヤは必死で言葉を繋ぐ。 「もう一度結婚したいって気持ちとかありますか? それともしばらくはそうやって遊んでたい感じですか?」 「なんだその、そうやって遊んでたい、というのは」 苦笑を飲み込むように、真澄がグラスに唇を寄せる。薄いワイングラスがよく似合う、形の良い美しい唇に、マヤの視線は吸い寄せられる。この人の横顔は、 一分の隙もなくやたらと美しい。 「だって速水さん、凄くモテるって聞くし、今日だって沢山チョコレート貰ったでしょ? デートの相手だって何もこんなぺーぺーの女優なんて選ばなくても、 選り取りみどりでしょ? なのに私なんかを誘うのって、やっぱり遊んでるんだろうなぁって」 「何を勘違いしているのか知らないが、俺を何だと思っている。チョコレートは確かに沢山貰った。それこそ店が開けるぐらいにな。でも、どうせ全部義理だ。 立場上、沢山貰うのは仕方ない。でもそれだけだ」 それでもまだ納得いかずに、都合不服そうな顔をしてマヤは真澄を見る。 「じゃぁ、どうしてよりによって今日みたいな日に、私が相手なんですか?」 「あまり自分を卑下するな。ペーペー女優の端くれではない。君は紅天女だ。世界でただ一人、紅天女を演じる事が許される、もう立派な一人前の役者だ」 そんなふうに言われるとは思ってもいなかったので、そうして認められたことに、胸の奥が熱くなる。 「今晩、君をこうしてデートに誘ったのは、義理とは言え、君が俺にチョコを渡す程度には俺の存在を受け入れてくれたからだ。君も大人になったんだと感慨深 く思っている」 その言葉に、噛み付いてばかりの、いつも子犬のように小うるさく吠えていた、幼かった自分の姿が蘇り、マヤは居たたまれなくなる。そして一回ぐらい食事 に誘われただけで、こんなに舞い上がっている自分が恥ずかしくなる。 【デートは二回断って、三回目でOKすると価値が上がって大事にして貰える】 あの言葉の真実味が少しだけ分かる。 簡単に誘って、簡単についてくる。 その程度の価値しかきっと自分にはない。 話の流れで、財布が欲しいなどと言ってはみたけれど、本当に欲しいものはたった一つしかない。 でもそれは、きっと貰えない。 こんなに近くにいて、こうして肩が時折触れ合うほどの距離にいると、ついつい間違えそうになる。自分のくだらない話に、子どものように笑ってくれるその 人を、近くに感じ過ぎてしまう。 でもこの人は自分にとって特別な人ではあるけれど、自分のものにはならない人なのだ……。 楽しかった。 美味しかった。 嬉しかった。 それからもっと好きになった。 最後のその一言だけは心にもう一度飲み込んで、その夜お礼のメールを書いた。 チョコレートの箱の底に隠した、 自分のその気持ちは、真澄の元まではきっと届かない……。 2016 . 2 . 16 励みになります!
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