第3話 |
『分かった、プレゼントするよ』 話の流れと勢いで、うっかり真澄に誕生日プレゼントとして財布をリクエストしてしまってから、あっという間に数日が過ぎ、気づけば誕生日当日になってい た。 その後、特に真澄のほうから「財布を取りに来い」との連絡もなければ、勿論そんな事はあるはずもないのだが、誕生日当日に何かを約束するような連絡もな い。 そわそわとその数日を過ごし、今日こそは連絡が来るか、来るか、と何度も携帯の着信やメールボックスを確認してしまっていたが、いよいよ誕生日当日に なってしまったら、さすがに理解した。 忘れられたか、今度、何かの仕事で会ったついでにでも渡されるか、そのどちらかだろうと。 大丈夫、そんなには期待してなかった──。 そう自分に言い聞かせる。 思いがけず訪れた、あのヴァレンタインデーの夜のひと時が、あまりにも楽しかったから、つい勘違いしてしまいそうになったけれど、これが真澄と自分の、 そう、社長と女優の現実的な距離なのだと。 ヴァレンタインデーから数えて、ちょうど六日という間をおいてやって来る自分の誕生日の絶妙のタイミングにマヤは苦笑する。 少しだけ期待して、少しだけ舞い上がって、それでいて少しずつ冷静さを取り戻して、やっぱりなと失望して、諦めるまでにちょうどいい経過を辿る六日間 だった。 「今日の予定は?」 そんなマヤの心の中を見透かしたように、同居人が穏やかに問いかける。もしかしたら予定が入るかも、そんな気配を察して、今年は敢えてなんの準備もしな いでいてくれた。 「うん……、今日は稽古も休みだし、夜も特に予定もないし……」 「そっか……、じゃぁ、みんなで鍋でも食べようか。そう言えば、さやかが最近ケーキ作りにはまってて、今日作りに来るとか言ってたよ。そろそろ来るかもし れない」 その言葉通りに次の瞬間、ドアのチャイムが鳴った。 ──ピンポーン。 「ほら来た」 麗のウィンクにつられて、マヤも笑う。 しかし、勢い良く開けたドアの向こう、 「北島マヤさんにお届けものです」 と言う、配送業者のユニフォームを纏った若い男の声に、マヤと麗は顔を見合わせる。果たして手渡されたその小さめの包みの依頼主の欄には、確かに速水真澄 の名前が記載されていた。 「ほら、開けてごらんよ。速水さんからのプレゼントなんだろ?」 苦笑しながら麗がそう促す。 開けたら爆発するなんてことは、さすがにないだろう。きっと忙しいので郵送にしてくれたのだと、マヤはそう納得すると、包みを留めてあるテープに触れ る。 「わぁ……」 茶色い引き出し式の立派な化粧箱から出て来た長財布に、マヤは感嘆の声をあげる。さすがのマヤでも知っている、バッグブランドとしてはあまりに有名な ロゴが配列された財布だったが、見た事もない可愛らしいカラフルな絵柄がプリントされている。 「すごーい、それ限定で世界で1000個しか作られなかったヤツで、店頭にも全然並ばなかったんだよ。実物初めて見た〜! かわいい!」 突然、背後から湧いたその声に、マヤは驚いて飛び退く。 「さ、さやかっ?! いつからそこに居たの?!」 「やだ、五分位前から居るわよ。マヤはプレゼントに夢中で、ほんとに気付いてなかったのね。私、気配なんか消してないのに〜」 そうやって、麗とさやかが二人で笑い合う。 「これ、凄く高いんだよね……」 全くそういう事には詳しくないマヤは、そうやって幾分自分よりかは詳しいさやかに助けを求めるように見上げる。 「まぁね、かなりするよ。でもそれより何より、これほんと手に入れるの難しいはずだから、こういうの簡単に手配してサクっと贈っちゃうあたり、さすが速水 さんではあるよね」 「簡単じゃなかったかもよ」 さやかのテンションとは明らかにに違う、麗のその声にマヤは不意をつかれる。 「マヤに特別なものをあげたくて、あの人だってもしかしたら苦労したのかもしれない。簡単なんかじゃなかったかもしれないよ」 胸に広がる静かな沈黙。 何かを確かめたいという想いと、そんなことある訳ないと即座に否定する葛藤。推し量るばかりでは、きっと相手の気持ちなど永遠に捉えることなど出来るは ずがない。 会いたい──。 会って、お礼が言いたい。 そう心から思った瞬間、財布の中を何とはなしに開けて見ていたマヤの指先に、何かが触れる。 「え……、これって……」 同時にさやかと麗の二人が、マヤの手元を覗き込む。 マヤの震える指先が、財布の中から取り出したのは一枚のチケット。 「帝国劇場 アンナ・カレーニナ 午後三時開演」 さやかが読み上げる。 「って、これいつ……? きょ、今日じゃんっ! これ今日のチケットだよ!」 「マヤ、あんた何も聞いてないのかい?」 二人は騒然としてマヤを問いつめる。 「き、聞いてないよ。そんなの……、ってこれ行けってことだよね? 誕生日に何も予定もなくて寂しいだろうから、大好きなお芝居でも見ておいでって──」 「ばかっ! 一人で行って来いなんて、そんな訳ないだろ。これは絶対デートのお誘いだよ。断言する、行ったら隣に速水さんが座ってるって!!」 「えええええっ?!」 驚愕の余り、マヤは叫び声をあげると息を呑む。手元のチケットをもう一度凝視する。 あれは何年前の出来事だっただろうか。 こうやって、真澄に一方的に舞台のチケットを送り付けられた事がある。演目は同じ、アンナ・カレーニナ。違いはあの時は匿名で、そして今回は速水真澄か らだと始めからはっきりと分かっている点だ。 「どうしよう……」 心の不安の欠片がそのままこぼれ落ちる。 「どうしようじゃなくて、どうしたいかだよ。行きたいんだろ?」 ──どうしようではなく、どうしたいか。 その問いが、より深い層でマヤの心の奥を揺さぶる。 先回りして否定したり、諦めたり、いつだってそうやって逃げてきた。自分の本当の気持ちからも、そして真澄からも。 真澄の真意は分からないけれど、からかわれているだけかもしれないけれど、それでも会いたいと思った。それでも笑って、おめでとう、と言って欲しいと 思った。この自分の生まれた日に。 「……うん、行きたい」 素直な気持ちが、小さく口をついて出る。 「決まりだ。ほら、支度しなくちゃ」 「マヤ、あたし髪の毛、巻いてあげるよー」 本当に行っていいのか、行ったところで、本当に真澄に会えるのか。 葛藤する気持ちと、それでもやっぱり真澄に会いたいと期待する気持ち、その両方が一秒おきにマヤを翻弄する。 まるで、苦くて甘い、複雑な層を為すチョコレートのように……。 帝国劇場、午後三時。 開演時間ギリギリになっても不在のままの隣の空席に対して、マヤは祈る想いを募らせる。 どうか、お願い、会いに来て──。 場内の灯りが消える。 暗闇と静寂が支配する、幕が開くまでのほんの僅かなタイミングを図って、果たしてその人はやってくる。大きな人影が、静かに隣に座った。 数年前のあの日と同じだ。 違いは、あの時の自分は子どもで、今はもう子どもではないという事。そして、この人のことが今はとても好きだという事。 隣を見ても驚かない。 席を立ったりもしない。 だけれども、どうかどうか──、あの日と同じように、この震える指先をつかまえて欲しいとマヤは思う。 心臓が壊れそうに内側から自分を叩くから、大丈夫だと手を握って欲しい。 その時、肘掛けに置かれた指先を、長くしなやかな男の指が包む。 「来てくれてありがとう」 低く穏やかな声が、マヤの鼓膜にそっと触れた……。 2016 . 2 . 18 励みになります!
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