第4話
「さ、誘うならちゃんと誘って下さい! 気付かなかったかもしれないじゃないですか。いきなり今日のチケットだなんて、それもお財布の中とか──」

 終演後、足早に歩き出す真澄の背中にかわいい声が抗議する。

「でも気付いた。そして、君は来た」

 その一言だけで、途端に残りの手持ちのカードを全て失ったかのように、真澄の後ろで立ち止まったその人は、真っ赤になって絶句している。

「悪かった。俺のちょっとした悪戯心だ。お互い、来るか来ないかドキドキしたはずだ。こういうのも悪くないだろ?」

 そう言って立ち尽くすマヤの肩に、促すようにそっと手をやると、その言葉に懐柔されたのか、あるいは呆れられたのか、頑なだった足が
自然と従うように動き出す。

「もう、ほんっと速水さんて勝手! 強引! 昔っからそう!!」

「そこまで分かっているなら話は早い。今日はこのまま、勝手で強引な男に付き合って貰うぞ」

 その言葉に、すぐ後ろの存在は、また何かを真澄の背中に向ってわめいていたが、そんな事は気にしない。今日どうするかは、もう決めてある。

「好きな女の誕生日ぐらい祝わせろ……」

 わめいてばかりのマヤの耳には届かない声で、真澄はそう一人呟いた。







「食事の予約まで、まだ時間があるな。ちょっと付き合え」

 こちらに選択の余地を残さない言い方で言われると、あっという間に銀座の高級ブティックへと連れて来られた。
 いやだ、そんなの悪い、やめてくれ、と何度もタクシーの中で懇願していたら

「うるさいから少し静かにしてくれないか。いい加減諦めろ。俺はこうと決めたら曲げない。知っているだろ?」

とまで言われてしまい、マヤの抗議と反論の勢いもだんだんと弱くなり、ちんまりとブティックのソファーに腰掛け、お茶を出されているという今に至る。

「今日が誕生日だ。少し大人っぽくなりたいそうだ。任せる」

 それだけ店員に言い残すと、

「あとで俺を驚かせてくれ」

そう言って、真澄は出て行ってしまった。

「お客様、お好きなお色を教えて頂けますか?」

 ドアの向こうに消えてしまった真澄に対して呆然とするマヤに、店員が笑顔で語りかける。こちらが正しい道ですよ、とまるで親切に道案内をするかのように。
 真澄の指示通り、ドレスから始まり、バッグや靴やアクセサリー等、全身のアイテムを選ばない限り、どうやらこの店からは出して貰えないらしい。

 腹を括る。
 こんな誕生日は、もう一生回ってこないかもしれない。
 自由を謳歌すると言った真澄にとって、こんな事は芸能事務所の社長らしい道楽なのかもしれない。
 何かを買って貰うことなど、思ったことも望んだこともないけれど、今、自分が確かに願うのは、その先にある、真澄と二人きりで過ごす誕生日というかけがえのない時間だ。そのひとときを得る為に特別な魔法が必要だと言うのであれば、自分はその魔法に掛かるしかない。

 勇気を出して、目を開く。
 いつか映画で見たシンデレラの魔法のように、光の粉が降り注ぎ、きっと自分を少しだけ大人にしてくれる。

 そう……、真澄の隣に立っても許される程度の大人に。

「色は……、紫が好きなんです」

 ようやく口をついて出たその言葉に、店員はニッコリと笑った。



 



  スモーキーパープルという名のくすんだ大人っぽい紫色のドレスに、シルバーグレイのフェイクファーのショール。ドレスのラインがとても女性的なので、敢え て直線的な長方形のショールで覆うと、大人可愛い感じになると言われ、その原理も理屈も意味もよく分からなかったが、確かに鏡に映った自分はどこかの女優 のように奇麗だったのでそれにした。いや、女優だけれど。
 ヌードベージュのバックスキンのパンプスは踵にデコラティブな異素材のリボンが幾重にも重ねられていて、色味のシックさとデザインの華やかさが絶妙のバランスで足元を彩る。
 真澄から貰った長財布が入る大きさ、だけは譲らないで選んで貰ったクラッチバッグにコスチュームジュエリーを数点つければ、もうそこにはさっきまでのチビちゃんではない自分がいた。

「準備はいいかな」

 いつの間にか戻っていた真澄が、ドア枠に片腕をついてこちらを見ている。
 気恥ずかしさから、マヤは咄嗟にクラッチバッグで顔の半分を覆って赤面する。

「ど、どうでしょう?」

「悪くないな……、いや、かなりいい」

「もう! それ、褒めてます?」

 クラッチバッグでマヤは真澄の腕を軽く叩く。
 でも、それで良かった。面と向かって褒められたら、きっと沸騰するほど赤くなる。軽口を叩ける程度の余裕を残してくれたほうがずっといい。
 そして気付く。
 きっと真澄はわざとそうしたのだと。

 真澄が慣れた手つきで、伝票にサインをする。
 ドレスや靴には値札がついていなかったので、総額がいくらかなどマヤには知る由もない。勿論、マヤの価値観からしたら、物凄い額であることだけは、漠然と予想はつくけれど。

「あ、あの……、ほんとにいいんでしょうか。きっと凄く高くて──」

「気にするな。それなりに稼いでる」

 おどけたようにシレっとそんなふうに言う真澄に、マヤは吹き出す。

「もうっ──」

 そう言って、もう一度、腕のあたりを軽く叩こうとしたら、その指先を取られ、そのまま歩き出される。
 大人な真澄に大人な自分。
 それは真澄によって掛けられた一時的な魔法によるものだけれど、8cmヒールやスモーキーパープルのドレスが、確かに自分を大人にしてくれた。

 だから、手は振りほどかなかった。
 この夢のように甘く切ない時間に、今宵、身を委ねる覚悟はもう出来ていた……。






「乾杯──、二十二歳の君に」

 フレンチレストランの個室にて、煌めく無数の泡を抱いたシャンパングラスを真澄が合わせてくる。

「二十二か……、若いな」

 そう言って、なぜか苦笑された。

「もうそんなには若くないですよ。大人ですっ! お酒だってとっくに飲めるんですからっ!」

 ついムキになって、そんなことを捲し立ててしまう。そう言った言動こそが、まさに幼さそのものだと言うのに。

「そうだな、この間も飲んでいた。酒は飲めるほうなのか?」

「ビールも焼酎も飲みますよ。でも……、実はあんまり強くはないみたいで、気付くと寝てたりします」

「そうか、では君を酔わせて持ち帰るのは簡単だな」

 冗談とも本気ともつかない、そんな事を言って真澄は笑う。ここで動揺したり、噛み付いたりしたらこちらの負けだ。

「そうですね。じゃぁ、今日は安心していっぱい飲んじゃいます。途中で気が変って、道端に捨てたりしないで下さいね」

 そう言って、マヤは首の角度を目一杯に伸ばして、クリスタルのシャンパングラスを一気に傾ける。

 生まれて初めて飲んだ、ドン・ペリニヨンは甘く優しい香りで誘いながらも、口をつければ痛い程の刺激で唇を奪う。
 このシャンパンの泡のように、二十二歳になったばかりの今夜の自分は、真澄の言葉や態度にきっとどこまでも翻弄されるに違いない。

 グラスの底から、煌めく泡が、また幾つも立ち昇っていった……。





2016 . 2 . 19





…to be continued








励みになります!
拍手
next / novels top/home