第1話
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部屋の中に異物が ある。 視界に入らないよう、食器棚の一番上の奥に仕舞い込み、気にしないようにとすればする程、逆にそれは存在感を露にしてくる。僅かに視界の端に 認められる深紅の小箱。黒いグログランのリボンのラインまで、はっきりと見える。無機質な冷たいステンレスのキッチンという空間で、その箱は異 様な存在感をアピールしていた。 その気配は日に日に薄くなるどころか、一日ごとに酷くなっている。現に昨日よりも今日のほうが、より異物としての空気をその箱は醸し出している。 バレンタインに渡せなかったチョコレートというのは、そうやって日一日、日一日と、苦味と重みを増していくのだろうと、マヤは溜息を吐きながら思った。 五日前のバレンタインデー、渡せるタイミングがあったら渡そう、そんな中途半端な気持ちで用意したチョコレートは結局渡せず、今もこうしてマヤの手元に ある。 チョコを買っている時はそれなりに高揚した。そういうネタにはとことん疎い自分が、周りへの聞き込みから探り当てたそのショコラティエは、「溶けやすい 繊細なショコラを守る為」という名目で厳重な温度管理がなされ、ガラス張りの店内に入れる人数は常時十名までと徹底されていた。そもそもチョコなどと今 は言わないらしい。ショコラと言うのが常識だと、さやかにも諭された。 どうかと思う程の時間を並んで入った店内のショーウィンドウには、まるで高価な宝石のように一粒、一粒、チョコレートが美しく並ぶ。実際、マヤの常識か らしたら、チョコレート一粒の値段にそれは考えられないぐらい高価なものではあったけれど。 中身について店員の説明を受け、真澄が好きそうなビターで大人びたチョコを一粒ずつ選んだ。選んだ九粒のチョコレート達は、美しい小さな正方形の深紅の 箱に隙無く並べられる。そうやって、悩みに悩んでチョコを選ぶ時間は楽しかった。片想いではあるけれど、一方的にではあるけれど、それでも真澄に繋がる時 間のように思えて、生まれて初めてバレンタインにチョコを買うという楽しみを知ったような、そんな気持ちにすらなれた。 でも、楽しかったのはそこまでだ。 チョコを買うまではこんな自分でも何とか出来た。並んで、迷って、選べばいいのだから。問題はその先で、真澄に会う当ても、どうやったら会えるのかも、 愚かな自分は全く分からなかったのだ。 何かの偶然で、仕事の打ち合わせでも何でも、何ならお説教でもいいから、大都に呼び出されないかと思ったがそれもなかった。紅天女の上演権を継承後、自 分は今や大都芸能所属の女優となったのであるから、何かしら理由をつけて自分から出向いても良かった。けれどもその「何かしら」が思い浮かばず、マヤは途 方に暮れる。 本当に考えたのだ。考えて、考えて、考え抜いてはみたけれど、出てくるのは (突然行っても居ないかもしれない) (そもそも物凄く迷惑かもしれない) (チョコなんて絶対興味ない) (きっといっぱい貰ってる) (チビちゃんどうかしたのか?とか笑われるかもしれない) どれもこれも後ろ向きなイメージばかりだった。 結局、その日一日無駄に持ち歩いたチョコは、マヤと共に帰宅し、ひっそりと食器棚の奥にしまわれ、そして今に至る。再び大きな溜息が零れ落ちた。 ふとその瞬間、マヤの脳裏に忘れかけていた事が蘇る。そう言えばこのチョコには賞味期限があった。 「生クリームを使っておりますので、お日持ちは短めになっております」 購入する際に、そんな事を言われたような気がする。いつまでも隠すように仕舞い込んでいても仕方がない。視界から追いやるように食器棚に押し込んだ チョコの箱を、マヤはそっと取り出す。 持ち上げて底側を見てみれば、賞味期限シールがやはり貼ってあった。 「二月二十日……」 印字された文字を口の中で呟く。 皮肉にもそれは、自分の生まれた日。 「誕生日に自分で食べるか……」 自虐的にそう呟いて曖昧に笑うと、再び元あった食器棚の奥へと箱を戻した。 秋に行われた試演から早数ヶ月。 紅天女の後継者として選ばれ、その上演権を手に大都芸能とも契約した。あれほど頑なに大都でだけは演じないと昔は公言していたというのに、実際に上演権 を手にした時、真澄の居る大都芸能を選ぶ事はとても自然で当たり前の事に思えた。それだけ月日が流れたという事だし、そして状況も人も変ったという事だ。 あるいは自分が大人になった、という事かもしれない。 そして環境は一瞬にして変る。 あの白百合荘からまるで拉致でもされるかのように、都会の高層マンションへの引っ越しを余儀なくされる。自分は白百合荘のままでいいと言い張ったが 「それは無理よ」 と水城に笑われた。麗やつきかげの皆にも、 「こんなセキュリティーがザルの場所に、紅天女は住めないよ」 と諭され、渋々引っ越しを納得した。 奇麗で豪華で立派なマンション──。 でも、それだけだ。 ここには白百合荘には当たり前にあった、自分を温かく守ってくれる、あるいは癒してくれるものは何もない。 生ゴミは勝手に流れていってくれるし、帰れば自動でお風呂が沸いている。洗濯機だって白百合荘のように部屋の外の廊下にあるなんて事もなく、全自動で乾 燥までしてくれる。何かあればコンシェルジュがすっ飛んで来てくれるし、困った事など一つもない。大都芸能本社や主要な劇場や稽古場までだって歩いていけ る距離だ。 あまり料理もしないので、ステンレスのキッチンはいつまでも奇麗なまま冷たく光っている。大理石の玄関はうっかり素足で触れると、信じられないぐらい冷 たい。部屋や廊下の天井に埋め込まれた間接照明は光度が押さえられ、いつだって自分には少し暗い部屋だった。 孤独を丸めて四角い箱に入れた──。 ここはそんな部屋だった。 ふと、何かに胸を押し潰されそうな気持ちになり、マヤは思いたったようにベランダへと続く、リビングの窓へと手を掛ける。大きなベンチが一つだけポツンと置かれた、リビングルーム と同じ大きさを持つ、このバルコニーだけは、唯一マヤがこのマンションで好きな場所だった。 星空に最も近い場所──。 そんなふうに……。 カラカラと静かな音を立ててガラス窓を横にスライドする と、大都会東京の夜の舞台が待っている。 都会の高層マンションから見える東京の夜は、眩いばかりの光の海が 遥か遠くまで見渡せる。一つ一つはオフィスビルの一部屋であったり、今自分が居る場所と同 じような高層マンションの一部屋の明りであるはずなのに、どこかそこには個の生命体として親しみは感じられず、いつまで経ってもマヤには慣れる事の出来な い光景だった。 そして自分のこの部屋の明りも、どこか遠くから見れば、この美しいと言われる東京の夜景の一粒の砂のような存在だと思うと、自分の孤独など取るに足らな いものにも思えてくる。 夜空を見上げる。 そこには、自分が求めているものがあった。 真上を見上げれば、そういった夜景が視界に入る事もなく、自分と星空を遮るものは何もない。ベンチの上に横になり、星空に抱かれる。そう……、梅の里で 真澄 と並んで満天の星空を仰ぎ見た時のように。勿論、都会のスモッグの下では僅かな星しか見えないけれど、それでもそこに星はある。 取るに足らない孤独を、埋めようがない喪失感を、そして行く当てのない真澄への想いを、そうやって幾晩も星空の下でマヤは持て余す。 こんな想いやこんな自分の事は、誰も知りようがないと思った。 紅天女を手に入れ、豊かな暮らしを手に入れ、仕事にも環境にも恵まれ、寂しいなどと文句を言おうものなら、バチが当たる。 だからきっと誰にも言えない し、誰にも分かって貰えるはずがないと、そう思い込む。 星だけが見ていた。 孤独な心も、報われない想いも……、 全て星だけが見ていた。 大都芸能社長室──。 「今日は一段と寒いですわね。夕方から雪になるとか……」 そう言って、水城がデスクに置いたコーヒーから芳醇な香りが湧き立つ。寒い朝の温かな一杯のコーヒーは欠かせない。 「そうだな、今日は不要不急の残業は禁止の上、社員にも出来るだけ早く帰宅するよう促しておいてくれ」 「かしこまりました」 そう言って頷いた水城の視線が、訝し気に真澄のデスクの上で止まる。デスクの横に積み上げられた箱の山は数日前からピクリとも動いていない。 「今年はまた、いつにも増して凄い数でしたわね、真澄様……」 何がだ? と言わんばかりの視線で真澄は水城を見ると、その目線の先にある箱の山を見て苦笑する。数日前、運び込まれたチョコレートの山に対して、特に 何も考えずに 「その辺に置いておいてくれ」 と、確かに言った気はする。仕事の忙しさにすっかりその存在を忘れていた。 水城は呆れたような溜息を一つ吐くと、一番下の箱に手を掛け、その山を持ち上げた。 「秘書課で適当に処理させて頂きます。甘い物が苦手でしたら、最初からそう仰って下さい」 返す言葉もない真澄は、黙って両手の手のひらを上に向けるジェスチャーで詫びた。 「あら……、これもいいんですか?」 そう言って、水城はその中から深紅の正方形の箱を一つ抜き出す。仰々しい程に大きな箱入りチョコがひしめく中、小さなそれは控えめながらも高級感溢れる 外装ではある。だがしかし、だからと言ってそれが何か真澄にとって特別であるはずもない。訝し気に、なんだ?と真澄は眉間に皺を寄せた。 「こちらのチョコ、今女の子の一番人気で大変なんですのよ。何でも繊細なショコラの温度管理の為、一度に店内に入れる人数を制限しているとかで、お店の外 には女の子の大行列。先週、表参道の本店の前を通ったら、並んでいる彼女に会ったので──」 何かが真澄の神経に触れる。確実に何かの不協和音をもたらす、嫌な種類のものだ。 「彼女……とは、誰だ?」 それでもまだ、その何かを認めたくなくて真澄の口はそんな愚問を口にする。 「勿論、北島マヤです」 嫌な種類の沈黙が流れる。 有能な秘書が当たりを外した事に気付くまでの微妙な間と、知らなければ知らないで済んだ話を無理矢理耳の中に入れられた事に愚かな男が気付くまでの微妙 な間がクロスする。 「これは……、脚本家の北山女史から頂いたものだ」 一瞬、重苦しい沈黙が流れるが、振り払うように真澄はわざと明るい声を出す。 「そんなに有名な店なのか。それほどの店でチョコを買うようになるなど、あの子も大分出世したもんだな。どうせ義理チョコでも買いに行ったのだろう」 負け惜しみも手伝って、つい真澄はそんな事を口にする。義理だろうと何だろうが、自分がマヤからチョコを貰っていない事実は、覆しようが無かった が……。 「でも……、彼女が購入したのは一つだけでしたわ……」 ダメ押しのように水城がそう告げた事実に、真澄は黙り込む。 一つしか買わなかった。それも、何時間も並んだ上で──。 それが意味する事とは……。 「どうして君がそんな事まで知っているんだ?」 「後で会いましたから……。その時、聞きました。メゾンのショコラを誰にあげるの?って。彼女、まさか私に見られてたなんて思いもしなかったようで、真っ 赤になってましたわ。ずっと好きだった人がいるので渡してみたい、と……。本命ですわね」 言い切る水城の言葉に、今度こそ救いようのない沈黙が流れたが、水城はそこでクスリと笑った。 「子供だったあの子も、ついに本当の恋をするようになったなんて時の流れを感じますわね、真澄様。もう、紅天女を演じるほどの大人の女優ですもの、恋の一 つや二つ……」 そう言って、今度は意味深に真澄を見つめた。 「真澄様、信号はいつまでも赤ではないと申し上げましたわ。でもたとえ、青になったところで肝心のあなたが渡らなければ、他の誰かが渡ってしまうかもしれ ま せんわよ」 何をどこまで知っていて、この秘書はそんな事を言うのか、真澄は黙って、ただその言葉の意味を考える。 「失礼致しました。出しゃばり過ぎましたわね。──こちら、ありがたく皆で頂戴させて頂きます」 そう言って、改めてチョコレートの箱を掲げると、水城は社長室を後にした。 予報通り、夕方から降り出した雪 はあっという間に東京の街を白く変えていく。何とか電車が動いているうちに社員を帰したが、すでに都内の交通機関は麻痺状態で、無事に皆が家路につけたの かは定かではない。社用車という帰宅の足は確保出来ている真澄は、静まり返ったオフィスでただ一人、仕事を続けていた。 猛烈に降り続ける雪が、街の輪郭をあやふやにしていく。窓の外に斜めに降り注ぐ雪の粒が、次第に大きくなっていくのがはっきりと肉眼でも分かる。 さすがにそろそろ帰ったほうがいいと、真澄は配車の連絡を入れた。 マヤが本当の恋をしている──。 何度も頭から追い払おうとしてみたが、その事実だけは覆しようもなく、繰り返し繰り返し真澄の脳裏に訴えかける。 おまえは何をしていたんだ。 このままそれを見て見ぬ振りをするつもりか。 あるいは、もはや手遅れだと諦めるのか。 苛立と焦燥が、無意識に下唇を噛む。気をつけていないと今にも薄い表皮が裂けるほどの強さで。 ここまでの現状に対して、真澄にも全く考えがなかった訳ではない。十月の試演のマヤの演技を見た直後、もうこれ以上は自分自身に嘘はつけないと、全てを 捨てる覚悟で鷹宮との破談を決めた。当然、英介には勘当され、真澄の大都での立場は現在も微妙なものとなっている。破談を巡って、大都が被った実質的な損 害も小さくはない。その責任は当然、全て負うつもりでいた。 自分が招いた事による大都の深刻な状況や、それだけに「紅天女」の本公演は絶対に失敗が許されないというその想いから、自身の軽卒な行動は控えなければなら ないという事は誰に言われなくとも充分に理解していた。 また、想定外にマヤがあっさりと大都を所属芸能事務所として選び、「紅天女」に上演に関しても委任してきた事から、仕事上の利害というものが生じ、二人 の関係性は以前のよう単純なものではなくなり、複雑で多様性を含むものとなった。所属の女優に手を出すなど、御法度だ。ただでさえ社内での信用を失い、英 介にも勘当され、微妙な立場である真澄が簡単にマヤに手出しを出来ない状況があった。 せめて本公演が無事、幕を開けたら──。 そう先延ばしにしていた部分がある。 一方で、自分の知らぬ間に大人になろうとしているマヤに対して、えも言われぬ焦燥感を感じる。どこか自分は、まだまだマヤの事を子供だと思い込んでいた 節がある。少なくとも、今はまだ芝居に夢中で恋愛は二の次だと。 だが、少女はある日突然、大人になる──。 何人もの女優やタレントを育ててきた自分には分かる。いとも簡単に少女の鎧を脱ぎ捨て、知ったばかりの恋を愛だと言い放ち、無防備にその荒波に身を委ね 溺れていく。それがただの所属の商品であれば 「分からないようにやれ」 とでも言って、マネージャーに管理を任せて放っておけばいい。 けれどもマヤは違う。 商品などであるはずもなく、もしも自分以外の誰かに取られるような事があれば、正気でいられる自信すらない。その事実を、自分は分かっていながらどこか 認めようとしないでいた。 と、急に街中で車が動かなくなる。渋滞かと思ったがどうやらそうではないらしい。 「すみません、社長。この雪で車が立ち往生したうようで、全く動かなくなりました。ひょっとしたら首都高かトンネル付近で何かトラブルがあったのかもしれ ません」 外の雪はいよいよ激しさを増し てくる。全てのものが雪に覆われ、元の色も形も失っていく。そうやって自分のこの気持ちも失われていくのではと、そんな感傷的な想いにすら囚われる。 雪は好きだったはずだ。 汚いものも何もかもを覆い尽くしてくれる。 だから雪は好きだったはずだ……。 けれども今日は、ただそう言いきれない何かがあった。失ってはいけないもの、手放したら最後、二度と手には入れられないもの、それらの上に雪が降り積も り始める。しばらくしたら跡形も無く、全ては真っ白に覆われてしまい、どこにあるのかも分からなくなるだろう。 目の前の信号は何度も赤と青を 繰り返したが、車は一ミリも動かなかった。 信号は赤ではないと水城は言った。 確かにそうなのかもしれない。あの少女も、もう恋をする年頃になったという意味において。例え青であったとしても、頑なに動かずにいるのは間違いなく臆 病な自分のほうだ。 意を決したように、真澄は後部座席のインナーハンドルに手を掛けるとドアを開ける。瞬時に白い雪が車内に舞い込んだ。 「しゃ、社長っ?!」 慌てた運転手が叫ぶ。 「このままではいつ動くか分からない。自分の足で歩く事にする。君も適当に切り上げて帰ってくれ。車は状況に応じて乗り捨ててくれても構わない。山手トン ネルには入らないほうがいい」 気をつけて帰るよう運転手に促すと、真澄は極寒の雪の世界へと、一人降り立つ。傘は持っていなかったが、雨ではないから別に構わないだろう。コートの襟 を立てると、吹雪く視界の向こうに自分の歩く方向を見定める。 ──その時、ありえない存在が真澄の視線を捉える。 誰もが家路を急いだのだろう、誰もいない六本木の歩道の向こうから確かにその存在がこちらに向って歩いてくる。やがてその存在も真澄を視界に捉える。 まるで時が止まったかのように、二人の体は動かなくなる。 神によって全てのものが時間を止められた世界の中で、雪だけが魔法をかけ忘れられたかのように、二人の間に降りしきる。 音も無く、ただ深々と静かに降り積もっていった……。 2018 . 2 . 20 励みになります!
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