第2話



「は……やみ……さ ん?」

 目の前に突如現れた、ありえない存在にマヤは呆然とする。
 大雪の為、普段からは考えられないほど人気のない六本木の路上で、黒いコートの長身のその人の姿は、雪の中で浮き上がって見えた。まるでこの世のものと は思えないほどに……。
けれども それが間違いなくあの真澄である事の証拠に、開始十秒で早速嫌味を言われる。

「驚いたな。まさかこのタイミングでこの場所で君に会うとは……。こんな天気の夜に散歩をしているのは、おそらく東京中探しても君だけだろう」

「はっ?! 散歩なんかしてませんっ! あたしは家に帰るところですっ!!」

 噛み付くように二秒で沸騰して言い返すのも毎度の事だ。

「ああ、そうか……。君の家はこの辺だったな」

 そう言って真澄は納得したように頷いた。真澄の前髪にはすでにうっすらと雪が積もっている。

「速水さんこそ、こんなところで何してるんですか?」

「車が止まった。あの場所でかれこれ一時間以上動かない。おそらく明日の朝まで動かないだろう」

 真澄の後ろには確かに見慣れた大都の社用車が止まっていた。すでに車体の上には雪が降り積もっている。

「え……、た、大変じゃないですか……。どうするんですか? これから──」

 速水邸は世田谷のほうだと聞いている。到底ここから歩いて帰れる距離ではないはずだ。

「そうだな……、おそらくこの事態では都内のホテルはどこも満室だろう。社に戻って──」

「あのっ……、うちに……、うちに来ませんかっ?!」

 考えるよりも早く、勝手に口がそう動いた。言った後で何を口走ったのだと、自分でも引くほど動揺したが、すでに口から飛び出した言葉を取り消すことはも う出来ない。案の定、目の前の真澄は絶句している。

「コ、コーヒーぐらい出せますからっ!」

 何かを言わなくては、とつい適当な事を言った。ドラマや映画で、男の人に送って貰った女の人は必ずこう言う。

 ──コーヒーでも飲んでいきませんか?

 なので思わずそんな事を口走ったが、果たしてそれが正解だったのか、もはや全く分からない。

「そんな簡単に男を部屋にあげていいのか?」

 からかうように真澄にそう言われ、この程度のジャブはこの人には全く効果がないのだとよく分かった。

「な、何言ってるんですかっ! この非常事態にっ!! 凍死したければお好きにどうぞ」

「それは困る。そうだな、確かに君の言う通り、これは非常事態だ。お言葉に甘えて、君の世話になる事にするよ」

 そう言って真澄は流れるようなスマートな動作で、傘を持つマヤの手に包むようにして触れると、そっとその傘を自分の手に持ち替えた。反対側の真澄の腕に 肩を抱かれるようにして傘の中へいざなわれる。
 そして二人は、ゆっくりと雪の中を歩き始める。

「なんか……、前にもこんな事ありましたね」

「そうだな、前にもあった」

「覚えてるんですか?」

「覚えているよ。君に優しくして貰った、数少ない想い出だ。確かピンクの苺模様の傘だったな」

 そう言って真澄はクスクスと笑った。
 
 ──同じではない。

 マヤはそう思う。
 あの時真澄は左手で傘を持って、自分は真澄の左側を歩いた。こんなふうに肩を抱かれてなんかいない。心臓の高鳴りが伝わってしまうほど、密着してなどい なかった。

「あの日も雪でしたね……」

「そうだな」

「今も……、雪好きですか?」

 しばしの沈黙──。
 なぜ自分でもそんな事を聞いたのか分からなかった。
 あの日、「雪は好きだ」と遠い目をする真澄に対して、この人にも人間らしい感情が存在するのだと驚いた。もしも出来ることなら、あの日のように今夜もま た、真澄の心の欠片に触れてみたかったのかもしれない。

「そうだな……、こうして思いがけず君に会えた。雪の夜も悪くない」

 そう言って、ほんの一瞬、抱き寄せるように
肩に触れた真澄の手に強く力が入る。厚いコート越しだとい うのに素肌に触られたかのように、体が熱くなる。
 氷点下を下回るほどの寒さだというのに、息苦しいほどに体は熱を持っていた……。








 この部屋に真澄が居るという違和感。
 麗やさやかがこの部屋に来た事はあったが、それ以外の、それも男性がこの部屋に入るのは考えてみれば初めてだ。そう気付くと、急にあれもこれも自信がな くなって不安になる。
 例えば、出しっ放しのパンの袋が生活感丸出しで、隠せば良かったとか、今朝洗濯物を畳まずに出掛けたから、さっき慌ててソファーの上から回収してク ローゼットに放り込むのを見られた事を激しく後悔したとか、来客用のカップ&ソーサーぐらい用意しておけば良かったとか、真澄にとっては恐らくどうでも いい事 で、自分にだけ重要な事だった。
 仕方がないので海外のお土産に貰った、どこかの国のファンシーなキャラクターのマグカップで真澄にコーヒーを出す。許されるのであれば、このカップで コーヒーを飲む真澄の姿を写真に収めたいなどと思って、あまりのその不釣り合い具合にマヤはこっそり笑った。

 不意にあの深紅の箱が視界に入る。

 ──渡せなかったチョコレート……。

 そう思った瞬間、咄嗟に言葉がこぼれ落ちる。

「あ、あのっ……、チョコレート食べませんか?」

 マグカップに一口、口をつけた真澄が驚いてこちらを見る。余りに唐突な流れであったし、自分の声は不自然に大きかった。

「あ、明日、賞味期限切れちゃうチョコで……」

 言い訳のようにそう言うと、マヤは食器棚の奥に隠していた箱を取り出す。無造作にリボンを解き、蓋を外した箱を、真澄が腰掛けるソファーの前のローテー ブルの上に置いた。
 真澄が無言のまま、じっと箱を見つめている。

「これは……、表参道にあるメゾンという店のか?」

「え? 速水さん、知ってるんですか?」

 意外過ぎる真澄のその言葉にマヤは驚く。甘いものになど全く興味がなさそうなのにと思ったのだが、よくよく考えてみれば芸能事務所の社長だ。流行物には 敏感であっておかしくない。もしかしたら、バレンタインに他の誰かから貰ったのかもしれない──。
 ほんの一瞬の内に、ありとあらゆる可能性を想定していたマヤに、真澄の次の言葉はもっと意外だった。

「君がここの店に並んでチョコを買っていたと、水城君から聞いた」

 瞬時にマヤの顔がカッと熱くなる。そう言えば、あの後偶然テレビ局ですれ違った水城からそんなふうに話しかけられた。まさか水城から真澄の耳にその事が 入るなど、考えもしなかった。どう言い訳をしようかと焦っていると、想定外のトーンの真澄の声に、マヤは息を止める。

「好きな男がいるのか?」

「…………」

「本命用だったと聞いている」

 どういう趣旨でそんな事を真澄が聞いてくるのかは全く分からなかったが、少なくとも自分こそがその相手だとは一ミリも思っていないからこそ出て来る台詞 だろう。脱力するような深い溜息が、マヤの口からこぼれ落ちる。

「そうだったとして……、どうしてそのチョコが今ここにあるか、察してくれないんですか?」

 訝し気な表情で真澄がこちらを見る。

「だからっ……、渡せなかったんです! それでもう明日には賞味期限が切れちゃうから、勿体ないんで一緒に食べて下さいって言ってるんですっ! ヤケ酒な らぬヤケチョコですよっ!」

 呆気にとられたような表情でしばらく真澄は固まっていたが、今度は急に笑い出した。

「君はほんとに酷い女だな。他の男の為に買ったチョコをこの俺に食えと?」

「いいじゃないですか。美味しいんですから。めちゃめちゃ高いんですよ、ここのチョコ! それに二時間ぐらい並ばないと買えないんですからっ!」

 そう言って、マヤは目の前のチョコを一つ、口に放り込む。
 

 苦くて、甘くて……、


 涙が出そうになる。




 思っていた形で真澄にチョコを渡す事は出来なかった。
 世の中の女の子たちがそうするように、想いをチョコに託して渡す、などという事は到底自分には出来ない事だったのだとマヤは悟る。
 それでもありえない偶然が重なって、今、自分の好きな人は自分の目の前で、この人の為に選んだチョコを食べている。真澄がこの箱のチョコを全て食べたと ころで、自分の想いが伝わる事はないだろう。
 どこか滑稽で物悲しいこのシチュエーションに、胸が塞がれる。



「コーヒー、冷めちゃいましたね。淹れ直してきます」

 そう言って席を立つ。戻ってくると、真澄はリビングのバルコニーへと続く窓の前に立ち、外の様子を眺めていた。

「さすが夜景が売りのマンションだけあって、眺めがいいな」

「私は……、夜景よりも、ここから星を見上げるのが好きで、毎晩あそこのベンチに横になって星を見ていました」

 こんもりと雪がつもったベンチはまるで今はカマボコのように見える。

「寒いだろ」

 驚いたように真澄がこちらを見る。確かにこのマンションに引っ越したのは十二月だから、夜中に高層マンションのベランダのベンチに毎日横になるなど、正 気の沙汰とは言えないのかもしれない。

「そうですね……、でもそれがいいんです。この場所からいつも一人で星を見ていると、頭の芯まで冷えて、凄く冷静になれて……。色んな事を考えられ て……」

 マヤの指先が目の前のガラス窓に触れる。外の寒さが容赦なく伝わる冷たさが指先を赤くする。

「十三歳で家出してからも、いつもつきかげのみんなが居てくれたり、ほんとのひとりぼっちになった事もなくて……。こうして今、このマンションで生まれて 初めて一人暮らしをしてみて、思ったんです。お芝居だけ夢中になってやってきたけど、ほんと私ってそれしか取り柄がなくて、それしか出来なくて……、女優 じゃない私に、人としての価値なんてないんじゃないかって……。取り留めもなく、そんな事ばかり考えたり……」

 もしも孤独というものに温度があるとしたら、それは冷たさだとマヤは思う。温もりとは対極にある、その冷気の中で自分の神経はどこまでも研ぎ澄まされ、 突き詰めると自分は世界でたった一人なのだと嫌でも自覚させられる。

「すまない……」

 真澄が苦悩と苦痛に表情を歪ませる。

「たった一人の家族である春さんを死なせ、君を独りにさせてしまったのは他でもないこの俺だ。許されるとは思っていない。一生憎まれ続けても足りないぐら いだと思っている。それでも──、それでもこれだけは信じて欲しい」

 真澄の瞳が真っ直ぐにマヤを捉える。孤独という名の殻の中に閉じこもろうとするその存在に対して、どうにかして思いとどまるようにと言い聞かせるよう に。

「君の事は俺が一生守る。女優として誰よりも輝かせてみせる。その為なら、俺はどんな事でもするつもりだ」

 胸の奥に何かが灯る。
 小さいけれど、確かに暗闇を照らす小さな明り。きっとそれは、女優として生きていくこれからの自分の人生を支える確かなものとなるだろう。

「女優の北島マヤの 事は、多分沢山の人が知っているけど、今ここでこうして星空を一人で見上げてる北島マヤの事は、きっと誰も知らないし、知りようがないなって……。星だけ が私の居場所を知っているんだと、ずっとそう思ってました」

 溢れる涙を拭うと、マヤは真っ直ぐに真澄を見つめ返す。

「でも……、今日速水さんが私の話を聞いてくれました。ありがとう……ございます」

 そう言って、マヤ は不器用に笑った。

 こんな話を真澄に するとは思ってもいなかった。
 けれど、多分自分は聞いて欲しかったのだ。
 他の誰でもなく、真澄に聞いて欲しかったのだ……。


 




2018 . 2 . 22




…to be continued


 












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