「北島マヤが2年以内に姫川亜弓と同じ芸術大賞か、もしくはそれに匹敵する全日本演劇協会の最優秀演技賞を受賞した場合、互角とみなし、二人に紅天女を競わせた後、どちらか一方に決定したい」
アカデミー芸術祭にて姫川亜弓が史上最年少で芸術大賞を受賞した席で、それは唐突に月影千草の口から発表された。その直前に真澄に対して、千草はこうも言っていた。
「マヤには荒治療が必要です」
煩わしい喧騒を背に真澄は一人会場を離れると、思考を組み立てる時の癖で目の前を漂う紫煙をゆっくりと追う。千草の意図は明らかだ。姫川亜弓にあって、北島マヤにないもの……。それは自信と闘争心だと千草は言い切った。その闘争心に無理やり火をつけて追い込んだのだろう。
しかし現実問題、マヤが立てる舞台は今はない。大都芸能をあのような形で離れ、劇団つきかげの舞台に立つ事も許されていないはずだ。報告によれば、学校
の体育倉庫で行った一人舞台や演劇部への客演が最近のマヤの一応の女優としての目ぼしい活動だ。普通にやっていては、姫川亜弓の現在の立ち位置までは到底
追いつけない距離だ。
(こちらも荒治療が必要だな……)
意を決したように真澄は吸いかけのタバコを灰皿に押し付けると、ロビーの向こうに現れたその人へと向かって歩きだす。よほど先程の千草の宣告が衝撃だったのだろう。歩くのもままならず、隣の友人・青木麗が両肩をしっかりと抱えている。
「おや、しっぽを巻いてお帰りか? 姫川亜弓に紅天女を譲るというのであれば、喜んで帰りの馬車を用意するぞ」
芝居じみた嫌味な台詞ならいくらでも出てくる。
「絶対嫌ですっ! 亜弓さんは……、亜弓さんはあたしを待っていてくれるって、約束してくれたんです。あなたのそんな嫌味なんて、聞く気もないですか
らっ!!」
そう言って、負け犬どころか逆毛を立てた猫は、全身に怒りを纏ったまま立ち去ろうとする。
「どうしたら追いつけるか、知りたくないか?」
確実に足を止めて貰える言葉を真澄は的確に選ぶ。
「それは……、さっき教えて貰いました。他でもないあなたに。過去の実績、観客の支持率、そして主人公として舞台に立って、その上で協会から選出されて、
賞にふさわしい演技力と演劇界に貢献したと認められた者だけにって──」
「そうじゃない。どうしたらそこに辿り着けるかの話をしているんだ。今の君に舞台のオファーは一つでもあるのか?」
投げた小石が確実にマヤの内壁まで届いたのを認めてから、真澄は淀みなく続ける。
「舞台に立たなければ、まずは話にならない。アカデミー芸術祭にノミネートされるほどの格のある舞台に主役として立つオファーがあるのかと聞いているん
だ」
「……ありません」
分かりきった答を相手に吐かせる事は、自分のやり方としての常套手段だ。もっともそれを他でもない、マヤに対して行う事への妙な緊張が真澄の体内に走
る。失敗は許されない。絶対に首を縦に振らせなければならない。
「ならば、話だけでも聞くんだな。明日の夜、ここに来るといい」
レストランの名前と場所を名刺の裏に走り書き、人差し指と中指でつまみ、ゲームの招待状でも渡すかのように目の前に差し出す。
「食事なんかしなくても良くないですか? 普通に話だけで……」
怒った猫はそう簡単に警戒を解かないし、機嫌も直してはくれないようだ。
「大都芸能の速水真澄に立ち話をしろと言うのか、君は。イヤな奴とでも食事ぐらいつきあえ。芸能界で生きていきたいなら当たり前だ。芸術大賞まで最短距離
で行きたいなら、社長の機嫌ぐらい取れるだろ。君には時間がないはずだ」
つい必死になってしまい、嫌味の成分が過剰になった言葉を投げ続けてしまったと、真澄の中に焦りと不安がないまぜになった妙な感情が走る。こんな気持ち
にさせるのはいつだって目の前のこの少女だけだ。
「……分かりました。行けばいいんでしょ、どうせ暇ですから。お話、聞きます!」
案の定ムキになったマヤが、目の前のカードを引ったくる。いつものように、瞬時に湧いた闘争心と怒りを容赦なくぶつけてくる。嫌われ役にももう慣れた。投げたカードを受け取って貰えた安堵感から思わず苦笑が漏れる。
「それでは明日。付添はいらないぞ、青木くん」
念の為、そんな言葉を送ったら、歩き出したマヤから振り返りざまに凄まじい勢いで睨まれた。仕方がない、二人きりでなければ意味のない誘いなのだから。
大切な相手の商談においてのセオリー通り、静かな個室を手配させる。けれども、窓のない部屋だと余計に警戒され、緊張させてしまうかもしれない。相手は
まだ18にもならない未成年だ。瀟洒な一軒家が立ち並ぶ住宅街のレストランの二階の個室の窓からは、ライトアップされた庭の木々が見える。
「夜景よりはマシだな」
高層ビルから見えるギラついたネオンよりかは、いくらかは親しみのある光景としてマヤの目に映る事を真澄は祈る。
「速水様、お連れ様がお見えです」
給仕の声に振り向き、時計に目をやる。手首で銀色に鈍く光るそれは、約束の二十時丁度を示している。
「開演の時刻だな」
まるでこれから舞台の幕でも上がるかのように、誰もいない部屋で真澄はポツリとそう呟いた。腕のカフスを直し、無意識に首元のネクタイに触れる。男が武
装する時の一つの儀式のように。真澄の中のある種のスイッチが入る。
「遅くなってすみません」
「いや、時間通りだ」
にっこり笑って振り返る。余裕ある、大人の男の姿に見えるだろうか。まかり間違っても、取って喰おうとしている飢えた野獣には見えない事を真澄は望む。
「私一人で来させるには、難易度高すぎです、こんなお店」
走ってきたのだろうか、息が切れている。最寄り駅には30分前についたのに、延々住宅街を彷徨っていた話を聞かされ、真澄はクスクスと笑う。
運ばれてきたアペリティフの細いシャンパングラスを掲げると、マヤは戸惑ったような様子を見せる。
「心配するな。君のほうにはアルコールは入っていない。未成年を飲ますほど、俺も迂闊ではない」
マヤが恐る恐る、細い繊細なグラスのステムを持ち上げる。
「君の未来に乾杯」
戸惑いながらもマヤがそっとグラスのリムに口をつける。そして一口目で驚いてグラスの中身を見るようなそぶりをしたかと思うと、そのまま一気にグラスが
逆さになるまで飲みきってしまった。あっけに取られた後、思わず真澄が笑うと、
「あ、ごめんなさい。走ってきたから喉乾いてたのと、すっごく美味しくって」
なんの駆け引きもないような、生まれたての言葉がその濡れた唇から零れ落ちる。たった今その口元から体内へと消えてしまった甘い誘惑を追いかけるように、
マヤの指先が唇に触れた。
「ほんとにお酒じゃないんですか? こんなの初めてってくらい美味しいです」
屈託なくそう笑われ、用意していた狡猾な言葉の数々を見失い、取り出せなくなりそうな動揺が真澄の中を走る。たとえ毒を差し出したところで、「毒ではな
い」と言えば躊躇わずに口にしてしまうような、そういう危険な無邪気さがこの少女にはいつもある。その無邪気さこそ、自分にとっては時に何よりの不意の刺
客である事を自覚はしていたが、実際はやはり想定以上で、真澄はただ曖昧に笑うしか出来なかった。
二人の前にディナーの始まりを告げるアミューズが運ばれる。
「こちら香り高い黒トリュフとコンテチーズソースのゴンドールでございます」
香ばしく焼き上げられた生地の上に薄くスライスされたトリュフが、生地を覆い隠すように乗せられている。
どこからナイフを入れたらいいのか分からないとでも言うように、マヤは皿を見つめたままカトラリーを手に固まっていた。
「速水さん……、私今日ここに、凄いご飯を食べに来た訳でも、ましてやあなたとお喋りに来た訳でもありません。昨日言ってた『どうやったら一流の舞台に立
てるのか』の話、ちゃんとしてくれるんですよね?」
案の定、そんな事を目の前の少女は口にする。
「勿論だ。だが、美味しい食事に罪はない。これを食べながら話しても罰は当たらないだろ?」
真澄の意図を何とかして読み取ろうとしているのだろう、大きな瞳が猜疑心に揺れる。
「私……、あなたがどんな事を私に言うのか、全く想像もしてない訳じゃないんです。私なりに、一晩ちゃんと考えてから今日ここに来ました」
「ほう……」
それは想定外だった。真澄もカトラリーを一度置くとテーブルの上に肘をつき、両手の指を組んで続きを言うように促す。
「多分……、また大都に入れとか、そういう──」
「話が早いな」
そう言って真澄は、一瞬にして亀裂のように走った緊張を誤魔化すようにグラスを口にした。
「そうだ、君が大都に入れば、必ずアカデミー芸術祭にノミネートされるような舞台を用意する」
もっと食事の後半でするつもりだった話を、アミューズの冒頭で話す事になるとは思っていなかった。自分のペースではないその流れから、己の精密な機械に僅
かなズレが生じた感覚に真澄は襲われる。
「お断りします!」
いきなりの結論に真澄は苦笑する。勿論、そんな答は想定済だ。
「私がどれほど大都芸能を恨んでて、どれほど嫌いで、私が紅天女に選ばれる事があったとしても、絶対に大都劇場だけは選ばないって、ずっと言ってたの知っ
てますよね?知ってて──」
「勿論知っている。だが、君が知らない事も沢山ある。この芸能界の事、演劇界の事、舞台を作るということ、上演すること、スポンサー企業、興行につい
て、そしてどう観客に認められるか。少なくとも君より俺はよく知っている。専門家だからな」
「何か、すっごいバカにされてる気がするんですけど」
毛を逆立てた猫はまだまだ警戒を解いてくれそうにもない。
「そうは言っていない。ただ君は何も知らないから、的確な判断が出来ないだけだ。だから知って貰おうと思っている」
「大都がどれだけ素晴らしいかって?」
両手にきつく握り込められたナイフとフォークは、もはや食べる用途の為にそこにあるのではなく、今にも全く別の用途としてこちらに飛んできそうだ。
「それもあるが、そうだな……。俺の事ももっと知ってもらいたいと思っている」
余程、想定外の言葉だったのだろう。マヤの口が意思から外れたように、ぽかんと開いた。
「速水さんのこと? そんなの知ってどうするんですか? 何のために?」
「君に俺を選んで貰うためだ」
半分は冗談で、半分は本気で言ったつもりだったが、勿論そんな本気の要素など伝わるはずもなく、心底呆れたような顔をされた。
「凄いですね……」
何が凄いのか意味が分からず、意味を聞き返すように真澄は僅かに眉を動かす。
「速水さんほどの人が、こんな小娘相手にそんな事言ったり、したりしなくちゃいけないなんて、お仕事とは言え大変ですね」
今度は真澄があっけに取られる番だった。
「他の女優さんとかだったら、そういうの通じるかもしれませんけど、あたしには一切通用しませんから」
とんでもない笑いがこみ上げてきて、真澄は腹の底から大笑いする。白旗を上げるとはこの事だ。
「チビちゃん、君の勝ちだ」
むせる程に笑ってしまったので、真澄はもう一度グラスのアペリティフを流し込む。真澄のアペリティフも空になった。
「この話はいったんやめにしよう。シェフに申し訳ない。君に食べて貰うために用意された料理だ。この話とは別に今夜は俺との食事を楽しんで欲しい」
「時間の無駄ですよ。私、美味しいものだけ食べて帰りますから。今日は食い逃げです」
そう言ってマヤはグサリとフォークをゴンドールに刺した。
「食い逃げか、上等だ。俺も君との食事を純粋に楽しむ事にするよ」
いつまでも笑っている真澄を、マヤは気がふれた動物でも見るように訝しげに見つめていた。
帝王学と呼ばれる、知る人だけが知り得る独特の教育法がある。
大都の経営者として勿論真澄も幼少期から今に至るまで、ありとあらゆる事を叩き込まれた。正攻法の勉強であれば、学校で学べばいい。そこには、表立って
人前では決して話せないような事も勿論含まれる。
異性の気の引き方、掌握の仕方、そして誘惑の仕方……。
面倒ではあったが、ビジネスを円滑に進めるために身につけさせられた。行為そのものに興味はなかったし、立場上それを使う事もほとんどなかったが、カー
ドの切り方次第で人の心はいくらでも操れる感覚は、必ず勝てるゲームのような快感として真澄の中に残った。
──はたしてそれが、目の前のこの少女に通じるのだろうか。
真澄の中に、一つの危険な欲望が立ち上がる。
誰にも知られずに、真夜中にひっそりと暗闇で花芽をつけたバラのように。
どんな色の花を咲かせるのか、どんな香りを放つのか、この世の誰もまだ知らない。けれどもそのバラの花をどうしても咲かせたい衝動を真澄は抑えきれなく
なる。
「チビちゃん、今日は少し遅くなっても構わないか?」
誘惑の香りが、ゆっくりと二人きりの部屋の中へと広がっていく……。
2023 . 2. 20
…to be continued
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