第2話


 




(何でこんな事してるんだろう。何でこんなひとと……)

 目の前で、マヤの話に一々大げさにオーバーリアクションで笑うその人の様子が、あまりにも非現実的で、マヤはついそんな事を思う。そもそも自分は先程か ら普通の話を普通に話しているだけだというのに、何がそんなにおかしいのかさっぱり分からない。まるで童話にあった、誰にも知られてはいけない王様の本当 の姿をうっかり一人だけ知ってしまった名もなき庶民の気持ちだ。そのうち知りすぎた庶民として消されるかもしれない。

「そんなに大都で上演したいなら、亜弓さんと食事に行けばいいじゃないですか」

 真澄の取っている行動が全く無駄に思えて、思わずそんな事を口にする。この食事も、アルコールではないというが摩訶不思議に美味しい謎の泡の液体も、ど うせ全て無駄になる。こんな事で自分は買収されたり絶対しない。

「彼女は大都の女優だろ。こんな事をしなくても言うことを聞くし、そもそも彼女なら、どこの劇場が紅天女を上演するのに一番相応しいかよく分かっている。 賢い女優だからな」

 ──賢い女優。
 
 その対になる言葉は”馬鹿な女優”しかマヤには浮かばない。

「やっぱりなんかすっごい馬鹿にされてる気がするっ!」

 秒で噛み付いてみたが、

「気のせいだ」

と涼しい顔で笑われて、相手にもされなかった。そんなことより……、とでも言うように、唐突に真澄が話題を変えた。

「チビちゃん、今日は少し遅くなっても構わないか?」

「なんですか、突然……。最初からこんな夜遅くに呼び出しておいて、今更じゃないですか?」

 もう何杯目のおかわりになるのかも分からない、口当たりの良すぎるノンアルコールのスパークリングワインをまた一気に口にする。魔法のように美味しすぎ るのがいけない。またすぐに空になってしまったグラスに驚き、マヤは中身を真上から確認するようにマジマジとグラスの中を覗き込む。確かにたった今、自分 で飲み干したというのに。

「一応、まだ未成年だからな。確認しておいたほうがいいだろう?」

「安心して下さい。どうせ仕事のない女優ですから暇です。学校だって、明日は月曜ですけれど、もう高三なので登校日も少なくなっていて、明日は午後からい けばいい日なんです」

 なかばヤケになってそんなふうに答える。
 
「もうすぐ高校も卒業だな」

 登校日という言葉尻を拾われたのか、急に感慨深そうにそんな事を言われ、マヤはまたもや返答に困る。

「そうですね……。あっという間でした。でも、凄く楽しかった。最初は戸惑ったけれど、行って良かったって、今なら心から思います」

 思わず満面の笑みでそう笑いかけてしまった後、なぜ自分はこの人にこんな事を報告しているのだ、と慌ててその笑顔を引っ込めようと前のめりになりかけた 体勢を引き戻した。

「大学は行くのか?」

「行きません。私には紅天女まであと二年しか無い訳で、大学に行ってる時間はないです。それに……、もう充分過ぎるぐらい良くして頂いたので。紫のバラの ひとには……」

「大学ぐらい行っておいても、今の時代、損はないと思うがな。君のその幸せなファンも、大学だって行かせてくれるだろう」

 それは事実だった。大学進学への支援についても引き続き行いたい旨、すでに学校を通して紫のバラのひとからは提案されていた。でも、断るつもりでマヤの 中ではもう決まっていた。

「そもそも高校にだって通えるとは思ってなかったんです。お金もなかったし、勉強だって苦手だし、バイトしながら芝居さえできればいいかな、とか安易に考 えていて。でも、違いました。高校にちゃんと通ったから学べた事も沢山あったし、経験出来た事も沢山あった。勉強はからっきしだったけれど、友達も出来た し、一人芝居をみんなに見て貰えたり……。そういう経験全部に意味があったって、今思えるんです。だから高校行って本当に良かったなって……。なので、本 当に紫のバラのひとには感謝してもしきれないほど、感謝してるんです。大学なんてとんでもないです。何か、私に返せるものがあればいいんですけど……」

「君のその幸せなファンも、君から何かを返して欲しいとは思ってないはずだ」

「どうしてそう思うんですか? っていうか、分かるんですか?」

 何をもってそう断言できるのか、訝しげにマヤは真澄を見つめる。

「その人が君に何か望む事があるとすれば、舞台の上で輝く君の姿だけだ。何かを返して欲しいなど微塵も思っていない。本当のファンとはそういうものだ」

 真澄の言葉にはいつだって反発心を持って言い返す事が常だったのに、なぜかその言葉はマヤの中に静かに収まった。入るべき場所にストンと落ちるかのごと く、ごく自然に。

「だったらなおさら……、紅天女になって、紫のバラのひとを招待したいです。あなたのおかげで、私ここまで来る事ができましたって。紅天女になった舞台の 上の私の姿を見て欲しいです」

「きっと見てくれる。誰よりもその姿を心待ちにしているはずだ」

 そうであって欲しいと、マヤは祈るように思う。誰もが今の北島マヤに残された可能性は1%にも満たないと思っているだろう。ここから亜弓の待つ、紅天女 を戦える場所まで、途方もなく遠い。けれども、紫のバラのひと──、その人だけは信じてくれていると思いたい。その場所までたどり着く自分の姿を待ってい てくれると。

「そうだといいです……」

 心の声がそのまま素直に出た。なぜか真澄と二人、その言葉の余韻をテーブルの上で静かに味わうような、そんな間ができた。

「速水さん……、紫好きなんですか?」

 不意に視界に入るものが気になってしまい、唐突にマヤは口にする。

「時計もそうだし、ネクタイも……」

 真澄の手首で鈍く銀色に光る時計の文字盤の紫が、先程から何度となく視界に入る。時々キラリと光るのはダイヤだろうか。きっと凄く高価な時計なのだろう けれど、詳しい事など分からないマヤには、ただ紫色の文字盤が美しい時計として記憶される。

「素敵な……時計ですね。私、やっぱり紫が好きなんです。私には特別な色で、一番好きな色です」

 ついペラペラと喋ってしまったが、真澄にはきっとどうでもいい事だと気付き、急に恥ずかしくなりマヤは俯く。

「そうだったな……。君にとっては大切な色だろう。俺にとっては──」

 そこで真澄は少しだけ遠くを見た。ここではない場所に置いてきた何かを見るように。

「紫は……、優柔不断の色だ。赤にもなれず青にもなれず、どっちつかずのまま取り残されたそういう色だ。だから選んでしまうのかもしれない」

 突然の真澄のその告白じみた言葉の奥行きが、自分の手には負えない種類のものに響き、マヤは戸惑う。
 速水真澄という男は、時々こういった表情を唐突に見せる事がある。突然心のうちを明かすような顔を見せたり、優しく笑いかけたり……。いつものからかっ たり、怒らせたりする言動からは考えられないそれらに、不意に胸がつまるような感覚に襲われる。最近は特にそんな瞬間が増えてきたようにすら思う。そのた びに、この人の事が分からなくなる。本当はどういう人なのか、知っているようでまるで知らないような気持ちになるのだ。

「ゆ、優柔不断だなんて、速水さんに対して思ってる人いないと思いますよ。いつだって何でも利益重視で決めて、バッサリ切り捨てるものは切り捨てる、有能 な大都芸能の若社長、っていう印象しかないんじゃないですか?」

 見てはいけないものを見てしまった妙な焦りから、つい一般論を装って、そんな事を早口で言い返す。

「だとしたら、それは本当の俺の事を知らないからだ。本当の俺は、本当に欲しいものを前にして、どう手を出したらいいのか分からず、いつまでも考え込んで いる、そういう男だ」

 そう言って瞳の奥まで捉えるようにじっと見つめられたが、この人が本当に欲しいものなどさっぱり分からないマヤにとっては、またしても居心地の悪い間が 出来る。

「へぇ……、意外です。速水さんなら、何だって欲しいものなんて手に入れられるでしょ?」

「一番欲しいものは一番手が出せない、それが真理だ」

 そう言われ、欲しいものなど片っ端から何でも手にしているとしか思えない男が本当に欲するものとは何なのか、急に気になりだす。

「それで……、そういう時、諦めるんですか? その一番欲しいもの……」

 少し間が出来た。狙った獲物に銃の照準をあわせるかのごとく、ある種の緊張を促すような間が、確かに真澄の視線からは感じられた。

「いや……、今回は本気を出す事にした。絶対手に入れる」

 急に電気が走ったような、嫌な予感にマヤは襲われる。

「それってまさか……、紅天女の上演権じゃないですよね? 私が手に入れたって、絶対あげませんからね! 絶対!!」

 まるで一ミリ手前で落とし穴の存在に気づいたかのようにマヤは叫び出す。
 マヤのその様子に真澄は弾かれたように大声で笑い出す。

「違うチビちゃん、それではない」

 片手で顔を覆いながら笑って真澄は否定したが、かと言ってどれだけ問い詰めても煙に巻かれるばかりで、真澄が本当に欲しいものを教えてくれる事もなく、 本当の所はどうなのか結局自分ごときには分からなかった。
 ただ、何もかも手にしているようなこの男にも、簡単には手に入れる事が出来ないものが存在する事を、この時のマヤは呆れるほどに純粋に、そして不思議に 思うばかりだった。


 



2023 . 2. 21



…to be continued















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