第3話


 




「すっかり遅くなってしまったな。家まで送る」

 先程マヤに褒められた紫の文字盤の針は二十三時を過ぎていた。

「え、嘘! 三時間も私達ご飯食べてたんですか? このお店はそれが普通なんですか?」

 携帯の液晶を三時間ぶりに見たマヤが驚いている。どうやらこの個室の中では、他とは違った時間の流れが存在していたようだ。自覚はなかったが、真澄自身もマヤとの食事にすっかり夢中になっていた。仕事だと言い聞かせてこの場には来たが、結局はこうなる。
 
 一緒にいると楽しくて時間を忘れる──。

 大都芸能の冷徹な仕事の鬼と言われる自分にそんな相手がいて、それも十一も年下の高校生であるという事実を真澄自身ですら持て余す。

「君がデザートを全種類食べるからだ。普通はあそこで一つ選ぶ。冗談で全部食べてもいいとは言ったが、本当に食べるとは思わなかった」

 咎めるつもりも理由も全くないが(むしろデザート三皿分長く一緒にいる事ができた)、ついからかいたくてそんな事を言う。

「だったら、ちゃんとそう言って下さいっ! 三つ書いてあったから、三つ食べていいんだと思っちゃったじゃないですかっ!」

 顔を真っ赤にして怒っている。

「ロブションのフレンチのフルコースを普通に全部食べて、あそこでデザート三皿いけるとは誰も思わないだろうが。そんなのは世界中探しても君だけだ」

 これ以上からかったら本当に嫌われて、二度と口をきいて貰えなくなるかもしれないと言うのに、つい楽しくてからかってしまう癖を中々止める事が出来ない でいる。自分のこじらせ方も重症だと真澄は苦笑する。その苦笑を別の意味に取ったのか、遠慮がちな上目遣いでマヤが見上げてくる。

「呆れました?」

「いや、全然」

「どんだけ食べるんだ、いい加減にしろ、この底なし胃袋! この店は高いんだぞ!! とか実はずっと思ってたんですよね?」

「いや、思ってないよ」

 堪えきれずにクスクスと忍び笑いが漏れてしまう。

「ほんとは、ちょっと速水さんの事、困らせてやろうと思ってたんです。ここのお店、すっごく高いって麗にも聞いてたから、いっぱい食べていっぱい飲んで速水さんなんて、破産しちゃえばいいって」

 そこで我慢するのに失敗したゲップが、マヤの喉から一つ出た。しゃっくりを無理やり飲み込んだような、妙なそれに、真澄は今度こそ爆笑しそうになる。

「でも、意味なかったです。こんな事ぐらいじゃ、速水さん痛くも痒くもないですよね。ただ私がお腹いっぱい美味しいもの食べて、それだけでした」

 さすがに少し苦しいのか、そこで大きく息を吐いた。

「今夜のこれ、速水さんにとって何か意味ありました? あたし、大都には絶対入りませんし、紅天女までたどり着けたって、絶対絶対、大都劇場でだけは上演 しませんし、どんなに美味しいご飯やデザートを奢って下さっても、絶対あなたの事は選ばないって分かってて、それでもこんな時間、速水さんに意味あったん ですか?」

 ──絶対あなたの事は選ばない。

 中々なストレートな物言いに、胸の辺りが抉られる痛みが走る。全くもって容赦ない。

「楽しかったからそれでいい」

 何かもっと言われると思っていたのか、真澄のその一言にマヤは腑に落ちない顔をする。けれどもそれは誇張でも嘘でもなく、ただの事実だ。楽しいだけの時間など、自分の人生において、マヤと過ごす以外の時間では存在しない。

「それに俺はしつこいからな。一度で諦めるとは言ってない。加えて俺は、嫌がられれば嫌がられるほど燃えるタチなんだ。悪いな」

 すると今度は、心の底からドン引きしている様子を隠さないとでもいう表情で嫌がられた。


 



 レストランを出ると、先程呼び戻した黒塗りの社用車が門の前に横付けされていた。まだ終電があるだの、歩いて帰るだの言い張るマヤを、真澄はうるさい騒ぐなと言わんばかりに無理やり後部座席に押し込む。

「女優が歩いて帰る時間じゃない。危ないだろ。ちゃんと家まで送っていく」

 少し叱るトーンで言ってしまったからか、その後は隣で小さくシュンとなっていた。
 車内の密室という逃げられない事が確約されたシチュエーションに少しだけ気が大きくなったのか、真澄の指が、隣でシートに無造作に投げ出されたマヤの手に触れる。

「小さいな……」

 細い指先をなぞると、マヤの体がビクリと震えた。

「こんな小さな手で、本当に紅天女が掴めると思っているのか?」

 慌てて引っ込められそうになった指先を逃さぬよう、瞬時に掴む。

「もう一度言う。大都を選べば、全て解決する。舞台に立てるようにしてやる。芸術祭の選考対象になるような、一流の舞台だ。今の君にそれを用意してやれるのは、大都芸能の速水真澄だけだ」

 握った手に力を込める。

「そ、そんなのズルじゃないですか? 自分の力じゃないじゃないですかっ!」

「ズルとは金の力で賞をもぎ取るような事だ。俺がしてやれるのは、君を舞台の上に乗せてやる所までだ。そこから先は君の力だ。紅天女に相応しいという実力 を証明出来るかどうか、それは君次第だ。ただ、その舞台に乗らない限り、君は闘う事も証明する事も出来ない。亜弓君の居る場所まで、辿り着く前に負ける。 それだけは覚えておくんだな」

 握った手から力を抜く。すぐさま手を抜かれると思ったが、マヤはそのままにしていた。真澄が放った言葉の重みに放心しているようだった。

 小さな手だと思う。この小さな手で、全てに立ち向かおうとしている。
 どう考えても茨の道だ。
 ならばせめてこちらの道だと、手を握って指し示してやりたいと、そう思う事すら傲慢なのだろうか。どう取り繕ったところで、それは誰が見ても大都で紅天女を上演する為の狡猾な罠にしか見えないのだろうか。
 漠然と真澄はそんな事を考える。






「着いたようだ」

 黒いメルセデスは静かに音もなく、白百合荘の前に停まった。狭い路地で後続の車のランプが見えたので、真澄は運転手に早口で伝える。

「トランクから荷物を出す。ここに停車はできないので、荷物を出した後は、この先のT字路を抜けた所で待っていてくれ」

 トランクから荷物を出し、待っていると、マヤがゆっくりと後部座席から降りてきた。左手首の腕時計に真澄は視線をやる。時刻はあと数秒で0時になろうとしていた。

 ──時は来た。

 秒針が真上を差す。

「誕生日おめでとう」

 唐突に目の前に差し出された紫のバラの花束に、マヤが息を止める。

「え……? 嘘……、誕生日は明日──」

「もう今日だ」

 紫の文字盤を見せると、信じられないとでも言うように、マヤは頭を振りながら目を丸くさせた。

「どうして……紫の……」

 それ以上は言葉にならないほどに混乱しているのが分かる。

「君の好きな紫のバラだ」

「受け取れません」

 瞬時に拒否され、胸に鈍い痛みが走る。ほんの一瞬でも「自分が紫のバラのひとだ」と告げる事を妄想した。なんて愚かなのだと真澄は自嘲する。

「君の一番好きな色を選んだつもりだ。俺から受け取りたくない気持ちは分かるが、バラに罪はない。受け取ってくれないか」

 その言葉に、ためらいながらもマヤの手がそっと伸び、花束に触れる。

「あたしの誕生日なんて……知ってたんですか?」

「知っている。君が思うよりもずっと君について知っているつもりだ」

 目を眇めて、いつのまにか大人になった存在を見つめる。もう少女ではない。

「18か……。もう大人だな」

「そ、そうですよっ! 18はもう大人です。だからチビちゃんだなんて──」

 その言葉を遮るように、真澄の指先がマヤの顎を捉え、その唇をも捉えようとする。

「もうこういう事をしても、俺が捕まらない歳になった。試してみるか?」

 唇が触れると思われたその瞬間、渾身の力で突き飛ばされた。

「す、す、するわけないじゃないですかっ!!」

 物凄い剣幕で怒鳴られる。

「そうか、チビちゃんにはまだ早い遊びだったな」

 大声で笑い出すと、ワナワナと震えるマヤの腕が、花束のセロファンをきつく抱きしめる様子が視界に入る。

「もう一つ、プレゼントだ。受け取って欲しい」

 差し出したベルベットのケースに案の定絶句している。

「心配するな。プロポーズしている訳じゃない」

 そう言って、マヤの手を取ると片手の手のひらに出来るだけ軽くそのケースを乗せる。まるで飴玉でも貰うような気軽さで受け取って欲しいと馬鹿な事を考える。
 戸惑いながらもマヤがケースの蓋をそっと開けると、一粒ダイヤのネックレスが夜道の外灯の下で静かに光った。
 
「い、頂けませんっ! こんな高価なもの……」

 そのまま突き返されそうになるのを真澄が制する。

「持っておいたほうがいい。18は大人の年齢だ。それなりの格好で出なければいけない場もでてくる。それなら服を選ばないし、君にも似合うはずだ。受け取って欲しい」

「でも……」

 まだ受け取っては貰えないようだ。

「誕生祝いと、それから卒業祝いだ」

 その言葉に押されたようにマヤが顔を上げる。嬉しいというよりは、やはり困っているようだった。

「でも……、速水さんから貰う理由がないです」

 当然の事を言われただけだと言うのに、やはり自分は絶対に受け入れられない存在だと門前払いを喰らい続けているようで、真澄は苦笑する。

「君とは長い付き合いだ。祝わせてくれ」

「賄賂ですか?」

 ついにはそんな言葉で切り替えされ、苦笑を通り越して、本物の笑いが真澄を襲う。

「君がそう取りたいなら構わない。ただ……、ダイヤに罪はない」

 ケースからそっとネックレスを取り出し、マヤの細い首へとかけてやる。まるで所有の証のように、煌めく石がマヤの首元に収まった。

「よく似合っている」

 思わずまた目を眇めて、その姿を眺める。確かに少女は今、目の前で大人になった。ともすれば自分の手で大人にしてしまったような、そんな妙な感覚に捉われる。

「それ、口癖ですか?」

 マヤの言葉の意味が分からず、表情だけで真澄は聞き返す。

「罪はないって、今日3度目です。食事に罪はない、バラに罪はない、それからダイヤに罪はないって……」

 そう言って、あるいは罪の象徴とも言える、胸元で静かに光る石にマヤの指先がそっと触れる。
 自分がこれからやろうとしている事は罪ではないのか。騙す事は罪ではないのか。
 成功と引き換えに、確かに自分は何もかもを彼女から奪おうとしているのではないのか。

「速水さんが何考えてるのか分からなくてちょっと怖いけど、でも確かにバラにもダイヤにも罪はないから……、頂きます。それにご飯はもう食べちゃったし」

 そう言って舌を出していつものように笑ってくれ、その笑顔に一瞬だけ真澄は救われる。

「また会えるか?」

 日本語は分かるが、意味が分からないという顔をされる。

「え、仕事してたら普通に会い……ますよね?」

「そういう意味じゃない。こうして二人きりで食事をしたりだ」

「…………」

 またしても絶句させてしまった。

「さっきも言いましたけど、それ、速水さんに何の意味があるんですか? 私凄い食べるし」

「大丈夫だ」

「連れて歩いても見栄えもしないし」

「それはどうかな?」

「あたしなんかと一緒にいても、何の特典もないですよ?」

「とも限らない」

 どうやっても振り切れない執拗な追っ手に対して、ついにマヤは叫びだす。

「と、とにかくっ! あたし、そんな暇じゃないんですっ! 紅天女まであと二年しかないから、一分も無駄に出来ないんです。出る舞台だって決まってないのに──」

「だからそれを俺がどうにかしてやると言ってるんじゃないか」

「それはダメ!! それだけは絶対にダメ!! あたしがどれだけ大都芸能を嫌ってるか、速水さんが一番分かってるはずです」

 深夜の住宅街に響き渡ってしまった大声に、慌ててマヤは口元を押さえるが、飛び出した言葉は勿論もう取り戻せない。

「頑固だな」

「頑固には理由がありますから」

 真澄の体から大きなため息が溢れる。呆れた訳でも、怒った訳でもないが、予想通りの展開と平行線だ。

「……今日のところは……ありがとうございましたっ!!」

 さすがに言い過ぎたと思ったのか、そう言ってマヤは勢いよく頭を下げる。

「お礼はちゃんと言います。ご飯も凄く美味しかったです。スパークリングワイン、何杯もおかわりしてごめんなさい。それからデザート三皿も調子に乗って食べたのもすみませんでした」

 律儀にそう言われ、思わず噴き出しそうになるが続きがあった。

「それからバラとネックレスも……」

 そう言って、もう一度花束を抱きしめる様子に、今度は真澄の胸のどこかが締め付けられた。その小さな肩を抱きしめられないもどかしさと、紫のバラの人であると名乗れないもどかしさ。その全てがないまぜになったような感情だった。

「ご飯って……、何を食べるかも大事ですけど、誰と食べるかも大事です。好きな人と食べたほうが絶対美味しいんです。逆に苦手な人とか、仕事の付き合いで 仕方なくっていう理由だけだったら、どんなに豪華なご飯でも砂みたいな味しかしないです。だから……速水さんも食事ぐらい、あたしなんかじゃなくて、好き な人として下さいっ!」

 それだけ言うと、マヤは走り出す。
 白百合荘の階段を駆け上がり、部屋に入る様子を見届けていると、急にその小さな背中が振り返る。

「ごちそうさまでしたー!! 美味しかったですー!!」

 住宅街に響き渡る声でそう絶叫され、手を振られる。呆れながらも軽く片手を上げてそれに答えると

「また誘う……」

誰にも聞こえない声で独り言のようにそう呟いた。

 待たせていた車の場所まで、コツコツと硬質な靴音を住宅街に響かせながら真澄は歩く。
 春の訪れを感じさせる暖かさと、突然真冬に連れ戻されたような気温を交互に繰り返すここ最近の天気。今日は暖かさが勝り、吐く息からも白さを感じない。

『食事ぐらい、好きな人として下さいっ!』

 マヤの最後の叫び声が脳裏でリフレインする。

(だから誘っているんだろうが……)

 思わず苦笑が漏れた。
 そしてマヤもまた、美味しかったと何度も言った。嫌いな奴と食べても砂の味しかしない、まで言っておいて何なんだと真澄は笑う。

 

 車の後部座席に再び乗り込むと、胸元の携帯が鳴った。液晶には速水英介の名が示され、真澄の眉が神経質にピクリと動く。

「はい……」

 この男を無視するという選択肢は、いつだって自分には許されない。

「千草が何やら宣言したようだな。わしの予想通りだ。北島マヤ……、やはりあの娘はあなどれない。真澄、分かっているな。大都芸能が紅天女を上演する為には──」

「お義父さん、もう動いていますからご心配なく。姫川亜弓に北島マヤ、どちらが紅天女になったとしても、上演するのは大都劇場です」

 遮るようにそう断言して、真澄は一方的に電話を切った。つい先程まで確かにそこにあった、存在と余韻を突然奪われたようで、神経が逆撫でられる。
 不意に足元に落ちている一枚の紫のバラの花びらが真澄の視界に入る。
 レストランでの待ち合わせの前にバラを手配して急いで車に乗り込む時、トランクに入れずに一緒に後部座席に持ち込んだ際に落ちたのだろう。

(俺が贈ったバラだ……)

 手のひらでそっと握りしめる。飛び立とうとする小鳥を傷つけないように、けれども柔らかく確かに拘束するように。

(俺のものだ……)

 どうしようもない所有欲が湧いてくるのを止められない。

(18か……、やっと大人になったな、マヤ……)

 大人になったのであれば、それなりのやり方で君を落としてみせる。
 欲しいものは必ず手に入れる。
 どんな手を使ってもだ。

 首都高に戻った漆黒のメルセデスは、真澄の黒い思惑を乗せたまま、夜陰に乗じて加速していった。




 二週間後、真澄はマヤから卒業証書を受け取る。
 それぞれの想いと思惑が、複雑に絡まり合いながらも紅天女という一筋の光へと向かって、また動き始めた……。



 


2023 . 2. 22



< FIN >






★あとがきのような★

2023年マヤ誕バナ、これにて完結です。
文庫12巻の亜弓さんのジュリエット芸術大賞受賞の席での月影先生からの”2年だけチャンスをやる”宣言と卒業式の間の出来事、という事になります。

杏子初の高校生マヤちゃんということで、過去のある時点に戻って書くのは、実は初めての事でした。
私、原作至上主義でして、過去改変とかできない&やったことないんですよ💦 なので、制約がないという意味で、いつも連載が止まったところから先を好き勝手妄想して、お話にしてました。
ですが、今回20周年記念リクエストで、このような
”高校生ツンツンマヤちゃんの誕生日を祝うシャチョー”
という尊いお題を頂きまして、これはチャンス!と頑張ってみました。
ギリギリ平行世界へ足を突っ込まず、原作の範囲内で戻ってこれたかな、という感じでしょうか💦


という訳で、リクエストバナとしてはここで一旦完結なんですけれど、今後について少しプランありまして、Blogで書いてます。
気になる方はご覧になって下さい。









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