第3話




「なんでも好きなものを選んでくれ」

ケーキ屋のショーケースの前で言われた台詞だったら、なんの気兼ねもなく心ときめかせ、好きなものを好きなだけ選ぶ事ができただろう。
けれどもここは高級ジュエリーブランドショップなのだ。勝手に商品に触れることも勿論できないし、値段すらも手に取るまでは分からない。

「速水さん、やっぱりいくら何でも、これは私には荷が重過ぎます」

小声でそう真澄に助けを求めるように囁くが、

「もう遅い」

そう言って、取り合っても貰えなかった。

「ペンダントタイプのネックレスを頼む。大げさでなく小ぶりなものが好ましい」

何も言わない、いや、言えないマヤに代わって真澄がそう店員に指示を出す。
小さなクロスのペンダント、ループタイプ、フラワータイプ、と美しいダイヤの数々が並べられる。ふと一つの小さなペンダントの前でマヤの視線が止まる。

「これ……、蝶々?」

「こちらはマーキースとペアシェイプカットというドロップ型のダイヤモンドを二石ずつ組み合わせて、蝶の形にセットしたものです。蝶の優雅さと美しさをダ イヤで表現したシリーズで、ペンダントの他にも様々なアイテムに展開されております」

淀みない店員の説明に、マヤは何だか良く分からなかったが、ただただ頷く。
それはとてもとても小さな可愛らしい蝶だった。
頼んでそれを首に掛けてもらうと、鎖骨の少し下辺りで蝶が美しく輝いた。

「あ、指輪やピアスもあるんですね。可愛い」

店員がビロードのトレイに乗せて見せてくれたそれに、思わず手が伸びる。何とはなしに指にはめてみると、小さな蝶がまるで指先に止まっているかのようで、 その愛らしさに思わず微笑んでしまう。

「ね、可愛いですね、速水さん、これ──」

そう言って
真澄に見せようと手の甲を向けた瞬間、マヤはとんでもない事に気付く。

「ご、ごめんなさい。指輪はナシでしたよね。つ、つい、調子に乗っちゃって……」

「そうだな。指輪は贈る訳にはいかないな。俺も特別な人にしか贈りたくない。だがこの蝶は確かに可愛らしい。このネックレスにしよう」

胸のどこかを不用意に掴まれたように、痛みが走る。

特別な人──。
聞いてはいけない言葉を聞いてしまった気がした。
この蝶のネックレスを貰えるその人ですら貰う事の出来な い、指輪を貰える特別な存在を想像すると、自分には関係ない事だと分かっていたはずなのに、まるで月 の裏側の出来事の話をされた時のように、真澄という存在を遠くに感じた。
あるいは元々あるべき距離感を忘れて不用意に飛び込んだ場所で、慌てて帰り道へと続くドアを探すような、そんな愚かな気持ちに苛まれた。

自分はやっぱり馬鹿だとマヤは思う。
経験値の無さがこういう時に出る。
慣れない事は、やはりするものではない、どこからともなく戒めるような気持ちがヒタヒタと押し寄せて来た。



「お礼は何がいい?」

ジュエリーショップを後にすると、沈む気持ちをそっと上向かせるような真澄の意外な言葉に戸惑う。

「お礼?」

「買い物は元来苦手なほうなんだが、君のおかげで思いの外、とても楽しかったよ。プレゼントも君のアドバイスがあったから、予想以上にピッタリのものが買 えた。ありがとう」

「いえ、そんな……。大したアドバイスなんてしてないじゃないですか」

それは本当の気持ちだったので、お礼などと言われても困ってしまう。そんな事は思ってもみなかったし、望んでもいなかった。

「物でもいいし、何なら君が行きたがっていたロブションに行くのでもいいぞ」

「それがいい!それがいいですっ!!」

真澄にしてみれば、何気ない一言だったのかもしれないが、マヤはその提案に即座に反応してしまう。膝にある腱を叩かれると、膝下が上がってしまう人間の反 射のように、それは止められなかった。
そんな前のめりなマヤの様子を真澄も穏やかに微笑む。

「決まりだな。いつがいい?」

「二十日の夜がいいです。今週の金曜日なんですけど」

瞬時に日時まで指定してきた事に、引かれてしまったのかもしれない。真澄が少し驚いた顔をした。

「あ、いえ……、その日オフなんで……」

「そうか分かった」

再び穏やかな表情で自分のわがままを受け入れてくれた真澄をみていると、ふと思った。今なら渡せるかもしれない、と。
予定通り、思いっきり義理を装えばきっと渡せる。突如、どこからともなく湧いて来た勇気に急かされるように、マヤは慌ただしくバッグの中から包みを取り出 すと唐突に真澄の前に差し出す。

「あの、これっ」

訝しげな表情でこちらを見る真澄の指先が、ダークブラウンの箱を包む金色のリボンに触れた瞬間、マヤは触れたからにはもうあなたの物だと言わんばかりに一 気に押し付ける。

「これ、さっきそこで買いました。ヴァレンタインなんで、今日。あの……、義理ですけどっ」

言えば言う程、義理ではない、と言っているように聞こえるのでは、とマヤは体中の毛穴から汗が吹き出るのを感じる。気持ちも体もバラバラになりそうだっ た。まるで自分の気持ちという名の鞄の中身を、通りにぶちまけてしまったような心境になる。

「そ、それじゃぁ金曜日! 楽しみにしてますっ! さようなら!」

ぶちまけた鞄の中身はそのままに、マヤは走り出す。

もう、いい。
もう、なんだっていい。
相当カッコ悪い終わり方だった気がするが、もう気にしない。
チョコも渡せたし、何より誕生日の日には食事を一緒に出来る約束を取り付けたのだ。しかもあのお城で!
その日が誕生日である事は内緒にして、こっそり自分の中でお祝いをしよう。

そんな事を考えると、全速力で走り出した足を緩める事がマヤはなかなか出来なかった。




「あら、お戻りだったんですのね」

社長室に戻ると、まさかの土曜出社をしている水城と鉢合わせる。

「北島マヤの紅天女の契約書の更新分、保管させて頂きましたので」

暗にマヤが今日ここに来たという事は分かっている、と言わんばかりの水城のその言葉に、真澄は気まずさから咳払いを一つする。

「ああ、ご苦労」

「あら、そこのチョコ、美味しいんですよね」

めざとく真澄の手元のチョコレートを水城が見つける。

「世田谷の住宅街にある小さなショコラティエで、物凄く売れているのにフランチャイズする気もないみたいで、その一店舗しかないんですのよ。ヴァレンタイ ンの時期は酷い行列で、整理券を貰うのに三時間待ちだとか。そこまでして真澄様にそのチョコをお渡しになるなんて、それは絶対に本命チョコですわね」

一体、何をどこまで分かっていてそういう事を言うのか、この出来過ぎた秘書の言葉に、真澄は気まずさの限界を感じながらも、その言葉の真偽を問いたださず にはいられない。

「本命……? そうなのか?」

「ええ、客観的に見て、明白だと思いますけれど」

そうキッパリと断言されたが、真澄の反応が鈍いのを見ると、呆れたように大きな溜息を一つ吐かれた。

「デスクの上の段ボール、今日届いた分のチョコレートです。守衛室には置ききれないから早く持って行ってくれ、と怒られましたので移動させました。土曜日 だか ら減る、と豪語されていらっしゃいましたけれど、外れましたわね。せっかくだから賭けでもしておけばよかったですわ、増えるほうに」

そう言って、昨日までの分とあわせた送り主の一覧表を渡される。

「中身まで全て食べろ、とは言いませんが、送り主の一覧だけは一応お目通し下さいませ。それからお返しですが、秘書課のほうで三月十四日着でデパートより 一 斉発送の手配を取らせますので、よろしいですね」

「ああ、頼む」

言われた通りにエクセルの一覧に目を通していると、その様子をじっと見つめる水城がおもむろに言い放つ。

「そちらのチョコレートのお返しはどういたしましょう?」

「これ……は……」

一瞬の沈黙。両者の視線が真澄の手の中の小箱に注がれる。
自分は間違いなく今、この目の前の秘書に試されているというのがはっきりと分かる。

「これはいい。自分で手配する」

淀みなくそう言い切ると、まっすぐに水城の目を見た。途端に秘書の険しい表情が和らぐ。

「そうですか。それは良かったです。義理と本命を同列に扱って処理するような非情な上司では困りますので」

そう言って、今度こそ仕事は終わったとばかりに踵を返す。ドアの前でふと水城が振り返る。

「そうそう、今年のほうが頂くチョコが増えると私が申し上げたのは、何も義理チョコばかりが増えるという意味ではなくて、婚約を晴れて解消なさったのです から、本命のチョコを渡す方も現れるでしょう、という意味ですからね。では……」

そう言って、ドアを閉めると水城は行ってしまった。
出来過ぎた秘書の言動に、真澄はやれやれ、と肩で息を吐いた。

デスクに座り、段ボールの山を床に下ろすと、マヤからもらったチョコレートの小箱をそっとデスクに乗せる。金色のリボンをほどくと、薄紙に抱かれたシンプ ルな チョコレートが整然と並んでいた。
甘いものは得意ではなかったが、食べないという選択肢は勿論ない。その一欠片をそっと口に入れる。
カカオの深い旨味と甘味がゆっくりと口内で融けていった。なるほど、これは確かに美味い。真澄は目を閉じて、その味の広がりと奥行きを見届けるように頷 く。

さっきそこで買いました。義理 ですけどっ

顔を真っ赤にしてそう叫んで走り去ってしまったその後ろ姿が、ビタースイートなチョコの向こうに見える。

「かわいい嘘をつかれたな」

まるでチョコのような甘い苦笑が一つ、真澄の口からこぼれ落ちた。




2015.2.18





…to be continued






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