第一話

 義理チョコとは──。

 会社に就職した訳ではないので、社会人になったという自覚がないままここまできてしまった為、世の中には仕事でお世話になった人にチョコを渡すという習 慣があることを知らなかった。
 そして、それなら自分にでも出来るのではないかとマヤは思う。
 紅天女にもなり、大都芸能の所属となり、現在進行形の紅天女の本公演に関しては勿論、去年だけでも三本もの舞台に出してもらい、ドラマと映画もそれぞれ 一本ずつ出演させて貰った。全て真澄の采配だ。
 これを「仕事でお世話になっている」と言わずして、何と言うのだ。

「いつもお世話になってます」
 などと神妙な面持ちで、真澄にチョコを渡す自分の姿を想像してみる。全くもって不自然ではない。イケる──。
 そこまで確信するとマヤはいそいそと水城の元へと向かった。







「バレンタインのチョ コ?」

 マヤから改まって話があると言われ、訝し気に表情を固まらせていた水城は、想定外のワードに拍子抜けしたような声をあげる。

「は、はいっ……。あの、その……速水さん、やっぱり沢山貰ったりしますか?」

「そうね、ほとんど仕事のお付き合いの物ばかりだけれど、だからこそ付き合いに比例して凄い数が確かに毎年届くわ。それこそお店が開けそうなくらいにね」

「お、お店……」

 そこまで聞いて、想像以上のその実態にマヤは引く。

「で、実際、速水さんそのチョコ食べたりするんですか?」

 水城がクスリと笑う。

「真澄様、甘いもの苦手なのよ。だから、ここだけの話、頂いたチョコは全て秘書課で管理して、お返し用のリストを作った上で寄付しているの。まぁ、苦手で なくても一人で食べられる量にも限界があるから、いずれにしてもこの形を取るしかないのだけど……。ほら、事務所にタレント宛のチョコも沢山届くでしょ。 若手の俳優もうちは多いから。最近流行の2・5次元の舞台にも沢山出演させてて、出演者同士のチョコバトルみたいのを主催が仕掛けて煽るもんだから今年は 特に凄い事になりそうで、今から秘書課はその仕分けに悲鳴をあげてるわ。だからその大量のチョコと一緒に、トラックでいつも恵まれない子供の施設などに一 括で寄付しているのよ」

 芸能事務所のバレンタイン事情を目の当たりにして、マヤは言葉もない。つまりは自分が少しばかりの勇気を出して、物凄いさりげなさを装って義理チョコの 一つも真澄に渡したところで、その行き先は一トントラックであり、寄付は素晴らしい事だとは思うけれど、自分のこの現状においては真澄に対してのアプロー チとして全くもって意味のない事なのだと突き付けられる。
 マヤは深い溜息を吐く。その溜息の意味を察した水城がやんわりと諭す。

「でも、勿論マヤちゃんからなら話は別よ。真澄様だって、きっと喜ぶ──」

「ダメですっ! チョコなんて渡したら、却って迷惑になるってよーく分かりました。もうちょっと考え直します。お世話になっている御礼にとか思ったのに、 逆に余計なお仕事増えさせて迷惑になるなんて本末転倒ですっ!」
 
 水城の言葉を遮るようにマヤはそう叫ぶと、勢いよくソファーから立ち上がる。

「あの……、もうちょっといいアイデアを思いついたら、そしたら……ご連絡してもいいですか?」

 つまりはバレンタイン当日に真澄とのアポを取って欲しいという意味だったが、有能な秘書は心得たとばかりににっこりと笑う。

「勿論よ、マヤちゃんの頼みだったらいつでも大歓迎よ」

 その言葉にマヤは少しだけ安心すると、大都芸能を後にした。








 何も考えずにうっかりチョコなんて渡さなくて本当に良かったと、マヤは道すがら思う。義理チョコを装えば、世間の一大イベントにもちゃっかり便乗でき、 そして好意のほんの一欠片、──そう、まるでチョコレートの一欠片分だけでも真澄にこの想いの一端を渡せたら、そんなふうに安易に考えていた自分が恥ずか しくなる。そんな事は全くもって無意味だったのだ。

 再び大きな溜息が一つこぼれ落ちた。
 真澄への不毛な片想いを自覚してから、もう一年以上になる。

 そもそも最初は紫織という完璧な婚約者の存在があった。ところが紅天女の試演後、真澄は電撃的に婚約を解消した。試演後に結婚と聞かされていた自分は勿 論驚いたが、それよりも天変地異が起こったような大都芸能の揺れ方のほうが凄まじかった。
 紅天女の上演権を獲得後、正式に大都芸能への所属を決めた為、その騒動の様子も渦中とまではいかないが、疲弊した水城や真澄の様子から破談がもたらした 大都への峻烈な影響は肌で感じる事が出来た。
 
 なぜ破談になったのか──。
 詳しい事はただの所属女優の一人である自分には分かる訳がない。ただ分かりきっていたのは、破談になったからと言って、自分ごときの出る幕などないとい う事だった。
 一説によれば、鷹宮家との破談がもたらした大都の経済的損失は億単位にも上り、また鷹通によって多くの優秀な人材が引き抜かれるなどの二次被害もあった そうだ。破談に際して、鷹宮側は徹底的に不利な条件を大都に対して突き付けたらしいが、全ての悪条件を呑んででも真澄は破談に持ち込んだという。会社の利 益を何よりも優先する、冷酷な仕事人間であるはずのあの速水真澄がだ。

 結果的に破談後の真澄は、以前にも増して仕事人間になっていた。
 水城の話によれば、速水の実家も出て、ホテル暮らしを経た後、会社近くのタワーマンションに現在は一人で暮らしているらしい。それも正直、寝に帰るだけ の生活だと。
 とてもじゃないが、そんな生活を送る人に対して、ふわふわと不用意に近づいて、ましてや想いを打ち明けるなど到底出来ないとマヤは思う。

 お呼びじゃない。
 一言で言って、そういうことだ。
 
 破談して完全な独り身に戻ったとはいえ、真澄が恋愛に勤しむとは全く思えなかったし、また紫織ほどの完璧な相手と破談した直後にこんなチンチクリンで子 供みたいな女優を相手にするとも到底思えなかった。

 とは言え、自分の日々の生活の中に真澄という存在が全くないかと言うと、それはそうでもなかった。何の気まぐれか、真澄は何かと理由をつけてはマヤを呼 び出し食事に誘う。頻度で言えば一ヶ月に一回は必ずどこかに連れ回された。
 呼び出されたところで、何か特別な男女の空気になるなど勿論あるはずもなく、大抵は真澄にからかわれたり嫌味を言われたりする度に、マヤがキャンキャン と噛み付き、何だか知らないが最終的には真澄に大笑いされ、いつもお開きになる。

 おそらくこれは真澄の趣味なのだと思う。
 所属の他の女優ともきっとこうして出掛けたりしている。真澄のプライベートに関しては全く謎ではあったが、自分だけとはとても思えなかった。なぜなら真 澄はとてもモテると聞いたからだ。
 きっと今は、再びの独身時代を謳歌しているのだろう。バリバリと仕事をこなし、沢山の女優と遊び、噂になる。いかにも大都芸能のやり手社長らしいではな いか。

 自分だけが特別だとは到底思えない。
 チョコだって、渡したところで一トントラックの片隅で、その他大勢のチョコに押し潰されるのがせいぜいだ。

 そこまで考えると、マヤは自分の置かれた状況が振り出しに戻った事を自覚する。

 アポはきっと水城がどうにかしてくれる。
 問題は何を渡すかだ。
 チョコはダメだ。迷惑になる。

(貰っても困らないもの……、困らないもの……)

 真澄の欲しいものどころか、いつのまにか消去法の極致にまで辿り着いた独り言を、マヤは脳裏で繰り返す。
 
 プレゼントはダメだ。義理チョコを装えない。思いっきり本命っぽいし、そもそも真澄が喜ぶような、あるいは真澄に似合うような気の利いた何かを自分ごと きが選べるとは到底思えない。絶対無理だ。
 やっぱり食べ物がいい気がする。いわゆる「消えモノ」だ。食べてしまえば残らないのが気軽でいい。重くない。
 チョコではない、何か食べる物を渡そうとマヤは決める。

(貰っても困らない食べ物……、困らない食べ物……)

 少しだけ範囲が狭まった問いをマヤは繰り返す。

「あっ……!!」

 突然ひらめいた。
 日本人だったら絶対に貰っても困らない食べ物を。
 誰もが毎日でも食べて、保存も利いて、沢山あっても困らないもの。

(そうだ、あれを贈ればいいのだ!)

 辿り着いた結論にマヤは大いに満足すると、帰り道を一気に軽やかに駆け出した。









 バレンタイン当日。
 約束通り、水城はマヤを社長室へと案内してくれた。
 午後六時。会議が長引いているとの事で、真澄はこの部屋に今はいない。
 膝の上にずっしりと重みを感じる。真澄に渡そうと持って来たものだ。かなり重くて、ここまで運ぶ途中で少し腕が痺れた。

(これなら絶対に迷惑にはならない。絶対食べて貰える)

 その自信には一点の曇りもなかった。この時までは……。

 ──ガチャリ。

 ドアの開く音にマヤはビクリと背中から反応する。確かに自分はずっと真澄を待っていたというのに、本当に現れると飛び上がる程に驚くというこの矛盾。な んだかんだでやはり緊張しているのだと、マヤは手の平にかいた汗をスカートで拭う。

「やぁ、チビちゃん、待たせて悪かった」

 少しも悪びれたふうでなく、真澄は笑いながら入ってくる。マヤは急いで立ち上がると、両腕を前に突き出して、持って来たそれを真澄の目の前に差し出すと 一気に捲し立てる。

「あの、これ……、バレンタインの義理チョコの代わりです。いつもお世話になってますっ!!」

 そう言って、両腕を差し出したまま、頭を下げてお辞儀をする。真澄がすぐに受け取らないので、両腕がプルプルと震え出す。だってそれは、二キロもあるの だから。

「なんだこれは?」

 この日貰うものがあるとすればチョコレートしかないと、信じて疑っていなかった真澄は怪訝そうな声をあげる。

「お米です! いつもお世話になっている御礼に」

「米っ?! 年貢かっ?!」

 呆れたように真澄が叫ぶ。

「チョコは沢山貰って、食べきれなくて困るだろうなと思って。そもそも速水さん、あまり甘いもの得意じゃないって聞いて、だからお米にしました。日本人な ら毎日お米食べるし、困らないだろうなと思って」

「いや、困るだろっ」

 秒でそう返され、マヤは驚いて口を半開く。

「え、どうして……」

「炊飯器がない」

 一瞬の沈黙。
 普通の人間であれば、そろそろこのやりとりの間抜けさに気付くはずだが、そこは北島マヤだ。気付く訳がない。

「お鍋でも炊けますよ」

 炊飯器がない、それがどうした、とでも言うようにマヤは素で言ってのける。

「土鍋で炊くとめっちゃ美味しいんですよ。これ京都の丹波産のミルキークイーンって品種なんですけど、粘り気があってモッチリしてて、冷めても凄く美味し いんです。おにぎりとか特に最高で、あたし、いつもこれを土鍋で炊いて、おにぎり作って稽古場とか行ってるんです」

 再びの沈黙。
 いや、真澄の絶句だ。

 ようやくマヤはそこで気付く。これは間違った贈り物だったのだ。真澄に米など贈って、どうするつもりだったのだと。

「あ……の、ごめんなさい。やっちゃいましたね、あたし……。そっか、速水さん、自炊とかしませんよね。お米なんて貰っても……困るだけ……でしたね。あ たし……、馬鹿だから考えなしで……」

 この世に外食しかしない人間が居る事や、米など一生自分で炊かない人間が居る事など、マヤは知らなかったのだ。

「いや……、チビちゃん──」

 真澄が何かを言いかけた瞬間、マヤは遮るように言う。

「あのっ、お詫びにあたしがお米、炊いてあげますっ!」

 真澄の再びの絶句。

「速水さんのおうちで、このお米、炊いてあげますっ!」

 何としてもこの美味しいお米の炊きたてを、真澄に食べて貰いたい。マヤが考えたのはそれだけだった。

 真澄の部屋に押し掛け、お望み通り鍋で米を炊いた後、男の一人暮らしの部屋であの真澄と二人きりになる事の意味や、そしてそこでどんな事が起こりうるの かの現実味については、この時マヤは全く考えが及んでいなかった。

 それに気付くのは、勿論その状況の中心部にまですっぽりとはまり込んだ後の事だ……。

 
 

2019 . 02 . 14





…to be continued








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