第2話

「本気で言ってるのか?」

 突如持ち上がった米騒動に戸惑うように、真澄はマヤの瞳の中の本気度を伺う。 

「ほ、本気です! 勿論、迷惑だって言うなら遠慮しますけど……」

 急に自信がなくなって、結局まだ渡せていない米袋を、マヤはまるでぬいぐるみを抱き寄せるように再度抱え込む。もしかしたら返品コースかもしれないその 二キロがずっしりと堪える。

「そんな事は言っていない。あまりにも想定外の急な話で驚いているだけだ」

 そう言って真澄はデスクに半分腰掛けるような体勢でもたれ掛かると、デスクに置かれたカレンダーをくるりと半回転させてこちらに向ける。

「いつにする?」

「えっ? いいんですかっ?」

 本気で頼んでおきながら、本当に実現するとは思っていなかった事が正直な驚きとなって飛び出す。

「どっちなんだ」

 真澄が呆れたように苦笑する。

「い、行きます! 行きます! お米、炊きます!」

 マヤの異常なテンションに再度真澄は苦笑すると、カレンダーの数字を指で辿り、二十日の上を指先で叩く。

「二十日はどうだ?」

「え? 二十日……ですか?」

 想定外のその日付に、マヤは間違ったタイミングで息を止めるよう指示された子供のように絶句する。
 その日はマヤの誕生日だ。勿論、真澄はそんな事を知る由もないのだろうけれど……。

「そうだ二十日だ。予定が入ってるのか?」

 どこか気軽な様子ではない、まるで予定など入っていたら許さないとでもいうような強い調子で真澄がこちらを見ている事にマヤはドギマギする。

「だ、大丈夫です。空いて……ます」

「よし、決まりだ」

 真澄はそう言うと、何も書いていないカレンダーにデカデカと二十日の予定を「米」と書き込んだ。

「それと今晩だが──」

 そう言いかけて、真澄が体勢をこちらに向けようとした瞬間、デスクの電話が鳴る。呼び出し音から、それが内線である事が分かる。

「もしもし? ──は? 何だと?」

 みるみる真澄の眉間の間の皺が深くなる。明らかに何かまずい事が起こった事は間違いない。

「分かった、すぐ行く」

 そう言って真澄は受話器をガチャリと置くと、溜息を吐き、何かを諦めるかのように、広げた両手で太腿を叩いた。
 両手の指を無造作に組むと、本意ではない事を宣言するような間を作る。

「すまない、チビちゃん。緊急事態だ。せっかく君が大嫌いなゲジゲジに会いに来てくれたのだから食事にでも、と思っていたがトラブル発生だ。申し訳ないが 今夜は帰って貰えるか?」

 今夜、食事に誘って貰えるなど、全く考えてもいなかったマヤは逆に驚いて、しどろもどろになる。

「え? そんな、食事とか……まさか──。だ、大丈夫です。全然そんな事──」

 急ぐ真澄を引き止めてはいけないと、慌てて部屋を出て行こうとすると呼び止められる。

「その米は俺が預かったほうがいいんじゃないか?」

 危うく二キロの米をまた持ち帰るところだった! マヤは慌てて引き返すと、茶色の米袋を真澄に託す。その重さに真澄は一瞬、狼狽えるようなジェスチャー をして苦笑する。

「確かに受け取った。わざわざこんな重い物を持って来てくれてありがとう。二十日の夜を楽しみにしている」

 片手で米袋をデスクの上に置いた真澄は、そう言って穏やかに笑った。米袋すら脇に置いて様になるイケメンを、マヤは生まれて初めて見た気がして一瞬見と れる。

「あ……、えっと、はい……。速水さんがビックリして倒れるぐらい美味しいご飯、炊いてあげますからっ!」

 ついそんな事を言い放って、社長室を出て来てしまった。

(倒れるぐらい美味しいご飯って、何?)

 と自ら気付いて突っ込むのは、勿論、帰り道を興奮のあまり早歩きで半分ぐらい来てからの事だった。











 そこから数日間は、白米に似合うおかずランキングを延々脳内で繰り返す日々だった。
 まさか、本当に白米だけ炊いて出す訳にはいかない。そこには、白米の美味しさを際立たせる、いわゆる「ごはんがすすむおかず」というのが必要だ。

 勿論、料理は今だに苦手で超絶不器用である事には昔と比べて何の変わりもない。ただ、必要に駆られてご飯だけは上手に炊けるようになったというそれだけ だ。土鍋で炊くようになったのも、炊飯器が壊れた際、新しい炊飯器を買うお金がなく、たまたま持っていた土鍋で炊いたら美味しかったので以来ずっと土鍋で 炊いているという、極めて行き当たりばったりの理由からだ。

 新しいメニューを今更試すのは危険だと分かり切っているので、自分が作れる狭いレパートリーの中から、一番安定して作れて、且つ白米に合うおかずという ことで選ばれたのは、肉じゃがだった。
 家庭科で最初に習った料理だったし、作り置きしておいて冷めても、その間に逆に味が染み、再度温めると美味しく食べられ、真澄の家に持ち込むのにも都合 がいいと思えたからだ。

 それから、麗のアドバイスによれば
「肉じゃがが嫌いな日本人の男はいない」
という事なので、根拠はないけれどそれを信じる事にした。

 あとは味付けの関係ない茹でただけのほうれん草のおひたし。──あんな人の家には醤油もないかもしれないから醤油ももっていけと麗には言われた。
 それから、これはズルだとさすがに自分でも思ったが、これほど白米の美味しさを簡単に味わえるものもないと言う事で、刺身の盛り合わせと明太子を用意し た。いつものスーパーで買ったものではなく、ちゃんとデパートの鮮魚売り場でお願いして作って貰ったから、間違いないはずだ、とマヤは自分自身を鼓舞す る。

 結局、なんだか居酒屋メニューのような、真澄に出すにしてはあまりにも普通過ぎるメニューになった。唯一のこだわりはデパ地下で買ったという刺身と明太 子だけ、という……。

 白米の美味しさを存分に味わって欲しいから、と更には味海苔や納豆を詰め始めたが、最終的には麗に止められ、

・土鍋ごはん
・肉じゃが
・刺身
・明太子
・ほうれんそうのおひたし
・味噌汁

というラインナップとなった。


 空の土鍋の中にタッパーに詰めた肉じゃがとほうれん草のおひたしをそっと入れ、割れないように土鍋をバスタオルで包む。後はデパートで受け取った刺身と 明太子を抱えて、マヤは真澄に言われた通りにタクシーで真澄のタワーマンションへと向かった。

 何を作るか、何を食べて貰うか、失敗なく真澄のマンションのハイテクキッチンのコンロでもお米を炊けるか──。

 マヤが心配していたのはそんな事ばかりで、例えば真澄の一人暮らしのマンションの一室で二人きりになったらどうするべきなのか、どうなりうるのか、どう やって帰ってくるのか──。

 本来であれば心配すべき事は全てどこかに飛んでしまい、マヤの脳裏をチラとでも掠めることはついになかった。









 瀟灑なエントランス、まるでホテルのようなゴージャス過ぎるロビー、にこやかに「おかえりなさいませ」などと笑いかけるコンシェルジュ、真澄の部屋に 辿り着くまでのその全てがマヤを気後れの極致へと送り込む。
 この腕の中の土鍋も肉じゃがもおひたしも、全てが間違いなのではないかと、途端にもともと僅かしか持ち合わせのなかった自信すら崩れそうになる。
 いっそこのまま
「お腹が痛くなった」
とでも言って(正直胃が痛いので嘘でもない)帰ってしまったほうがいいのではとまで思う。

 だけれども──。

 マヤは土鍋を抱く腕に、グッと力を込める。
 逃げるのは簡単だ。
 これ以上、恥をかくこともなくなるだろう。
 だが、それだけだ。
 
 これ以上真澄に近づく事も出来ないし、真澄について知る機会もなくなる。誕生日の夜を図らずも一緒に過ごせるはずだった相手から、ただ逃げたという事実 だけが、誕生日の思い出になる。

 ──そんなのはイヤだ。

 目の前のエレベーターの階数を示す数値がグングン上昇していく。

 何より、あの忙しい真澄が時間を作ってくれたのだ。こんな事の為に。山ほど高級チョコレートを貰うモテ男が、いきなり米を渡され、どれほど戸惑った事だ ろう。
 それでも真澄はそんな自分と向き合ってくれた。
 笑い飛ばして

「これは君が食べてくれ」

そう言って、追い返されたっておかしくなかったはずだ。でも真澄はそうしなかった。
 だから、自分も逃げちゃいけない。
 マヤはそう思う。

 真澄の仕事が終ってから、ということで指定された時間は夜二十一時と思ったよりも遅かった。忙しい真澄の事だから仕方がない。それより刺身の盛り合わせ というナマモノを 抱えた状態でキャンセルにならなくて良かったし、こんな平日のど真ん中の遅い時間でも真澄が自分の為に時間を作ってくれた事が何より嬉しかった。

 エレベーターが短く鳴って、目的階に到着した事を告げる。
 マヤはしっかりとした足取りで、フロアの最奥、突き当たりの部屋へと真っ直ぐに向かった。







 本当に土鍋ごと持って来たマヤを見て、真澄は

「凄いな、君は……」

としみじみと笑った。いつものあの人を馬鹿にしたような、からかうような笑い方とは違って、むしろ降参した上での速水真澄最大の苦笑とでもいうような笑い 方だった。

 最新のシステムキッチンとはいえ、コンロ自体はガスコンロだったので、ボタンの押し方だけ真澄に教えて貰い後は何とかなった。
 ご飯が炊きあがるまでの間に、持ってきた肉じゃがやおひたしなどのおかずを皿に移し替える。タッパーのまま出すなよ、と散々麗に念を押されていたのでさ すがにその辺は気をつけた。

 深めの鉢があったので、そこにゴロゴロと肉じゃがを移し替える。やたらとジャガイモが大きいのはご愛嬌だ。

 ガラスの大きなプレートを一枚見つけ、刺身をのせてみた所、とても綺麗に映えた。本来は何をのせる皿なのか知る由もないが、もうこれでいいとマヤは思 う。

 炊きあがった土鍋をテーブルの真ん中の鍋敷きの上に置き、支度が出来たとリビングのソファーに座る真澄に告げる。

 ふと、まるで新婚のようだ、と口が裂けても声には出せないが自分で思ってしまい、猛烈な照れがマヤを襲う。
 好きな人の家で料理を作り、テーブルで向かいあって食べるという事は、もしかしたらとてつもなく親密な行為なのではないかとマヤは急に気付く。

 好きな人の家に今自分はいる。
 押し掛けてきたも同然の経緯ではあるが、それでも不法侵入などではなくちゃんと招待を受けてやって来た。
 何とか失敗なく料理をテーブルに並べる事も出来た。
 目の前のその人はとても穏やかに笑っている。
 軽く手を合わせて
「いただきます」
と言ってくれた。

 それだけで──、
それだけで胸が塞がれ、まだ何も食べていないというのに胃の辺りがいっぱいになり苦しくなる。

 何を想像したのだろうか。
 もしも真澄と一緒に暮らすことが出来たらの未来だろうか。
 それとも、決して見る事も触れる事も出来なかった真澄の日常の一欠片というものに、思いがけず触れてしまったからだろうか。

 土鍋の蓋をあけると、白く温かな湯気が上がる。白米の炊きたての香ばしい優しい香りが広がる。米粒を潰さないように、軽く上下を返すように混ぜる。ツヤ ツヤと一粒一粒が輝くそれを、マヤは真澄の茶碗にそっとよそう。出来るだけご飯粒を潰さないよう、湯気すら逃さないよう、旨味を少しも損なわないよう、丁 寧によそう。

 真澄が美しい箸の所作で、それを口に運ぶ様子をじっと見つめる。
 一口、口に運んだ真澄が、少し驚いたように一瞬咀嚼する動きを止める。何かを確かめるようにゆっくりと咀嚼した後、頷きながら再び箸を口に運ぶ。

「美味いな。今まで食べたどのご飯より美味い」

 そう言って笑った瞬間、不覚にも涙がこぼれ落ちそうになる。

「良かったぁぁ〜」

 破顔するように笑って、何とかマヤは涙を引っ込め誤摩化した。



 真澄は沢山褒めてくれた。
 肉じゃがは勿論、茹でただけのほうれん草ですら、美味しいと言ってくれた。刺身と明太子に至っては、マヤは何もしていないというのに(いや、していない からなのか)、何度も素晴らしいと絶賛された。

「家ごはんもいいものだな」

 味噌汁をすすりながら、しみじみと真澄が呟く。

「幼い頃に母を亡くして以来、家で食べる料理すら料理人の作った料理だったから、家庭料理を食べているという感覚がそう言えばなかった」

 炊飯器がないという、自炊なぞ一切しない真澄の食生活とは、幼い頃から続く孤独の延長である気がして、マヤの胸は塞がれる。

「私もお家ごはん、大好きです。自分では大したもの作れないので麗に頼りきってばっかりですけど、それでもやっぱり外で食べる豪華なレストランの料理よ り、おうちで誰かと食べるご飯のほうが好きなんです。鍋とかも楽しいですよ。あれこそお家で食べるべき!」

 努めて明るい声でそう言うと、真澄が頷く。

「鍋か……。しばらく食べてないな……」

「えーー! 冬が終わる前に絶対食べるべきです。今度お鍋しましょう! そうだ、麗とか桜小路君とか皆も呼んで──」

「それは遠慮しておく」

 ついはしゃいでそんな事を捲し立てていたら、突然、不機嫌な声でシャットアウトされ、マヤは我に返る。

「あ……、そうですよね、すみません……。鍋とか、ないですよね、速水さんが……。あたし、社交辞令とかすぐに真に受けちゃって……」

「そうじゃない。君と二人だったら食べたいと思う。ただ、君のゆかいな仲間達がいるような空間に、笑って座っていられるほど、もう俺も若くはないという意味 だ」

 そう言って真澄はグラスに注がれた冷えた辛口の日本酒を煽った。

「あたしと……二人なら……?」

 驚いてマヤは真澄の言葉を繰り返す。

「ああ、そうだ」

 真澄もまた平然と言い放つ。それ以外の選択肢などありえない、とでも言うように。

「いいですよ。いつでも、喜んで」

 そう言ってマヤはニッコリと笑う。全て本心だ。
 真澄がこんな自分とまた家で食事をしたいなどと思ってくれるのなら、いつでも来たいとマヤは思う。家庭の味を味あわせてやりたいとか、美味しいものを食 べて貰いたいとか、大それた事は勿論思っていない。そんな腕前を自分は持ち合わせていない。
 けれども、真澄がこの都会のマンションの一室で眠るためだけに息をしているのかと思うと、居たたまれなくなった。そこには人間としての本来あるべき生活 の匂いというものが一切存在しない。
 麗とマヤが住む、あの白百合荘のアパートには溢れる程にある温かな生活感というものが、ここには一ミリもない。
 ご飯ぐらい自分が幾らでも炊いてあげるし、材料を切るだけの鍋なら明日にでも作ってあげると、ただそう思っただけの事だった。

「全く君って子は……。男の家だぞ、警戒心の欠片もないな」

 呆れたように、そう真澄に溜息を吐かれ、マヤは心底驚く。


 ──ケーカイシン?


 その言葉に不意に二の腕の辺りを強く掴まれたようにマヤはビクリとする。置かれた状況のリアルさに初めて気付く。

 そうだ、ここは男の一人暮らしの部屋だった。それもあの速水真澄の。

 都心のタワーマンションの最上階の窓の外からは、眩いばかりの東京の夜景が一望出来る。外はすっかり夜の帳に包まれている。同じ光景を例えばホテルの バーなどから見ていたとしたら、少しは自分も緊張感を持ってこの状況を捉えられたのだろうか。今考えても仕方のない事がマヤの脳裏をよぎる。

 薄暗い廊下の向こうにはバスルームとそして恐らく寝室が控えている。このリビングルームと同じように、間接照明で絞られた大人の落ち着いた雰囲気の漂う ベッドルームが容易に思い浮かぶ。大きな白熱灯一つで、天井から一発で部屋中の物を煌煌と照らす自分のアパートの部屋とは何もかも違う。夜になると布団が 押し入れから出される事など勿論あるはずもなく、その広い寝室にはおそらく大きなダブルベッドが部屋の真ん中に鎮座しているのであろう。
 そこまで一瞬で想像して、マヤは自分がとんでもない状況に丸腰で乗り込んで来た事に今更気付く。

 飛んで火にいる夏の虫──。

 違う、季節は今は冬だ。冬に飛び込む虫はなんだろう?

 本当にどうでもいい事ばかりが、次々とマヤの脳裏に浮かんでは消えていった……。




2019 . 02 . 18





…to be continued








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