第一話
|
夏の夜の匂い。 レセプション会場の外にようやく解放されると、マヤは大きく息を吸った。 日中、ありとあらゆるものが熱せられ、どこか膨らんだ空気が取り残されたような目に見えない外気が肌を包む。 少し、酔っているのかもしれない。 真澄とのあの会話のあと、随分とアルコールを体に入れてしまった。まるで恐ろしい現実から逃れるかのように。 足元がおぼつかないのを、細いピンヒールのせいにしようとしたが、このふわふわと浮遊する感覚がアルコールから来ていることはやはり否定できない。 「マヤちゃん、お疲れ様。ほんとによく頑張ったわね。これで念願のお休みよ。一応二日。いい部屋だからゆっくりして」 そういってマネージャーはマヤをタクシーへと押し込めると、運転手に早口で行先を伝える。 「――ホテルまで」 ホテルの名前が聞こえなかったので一瞬問いただそうとしたが、柔らかなレザーシートに一度埋もれてしまうと、抗い難いほどにそれは急速にマヤの体から意識を奪っていく。まるで一本の糸を引き抜くかのように。 まぁ、いいか、どうせ黙っていても着くのだから――。 極度の疲労と、そして数時間前に交わされた真澄との重たい会話が、嫌でも瞼を閉じさせ、マヤは静かに眠りに堕ちる。 空調の効いた車内には、夏の夜の匂いはもう届かない。 ただ冷たく冷えた空気が、肌の熱気を奪っていくだけだった。 紅天女の初演が喝采のうちに千秋楽を迎える。 多くの人々の予想と下馬評を裏切る形でマヤは亜弓を抑え、紅天女に選ばれた。結果的には興業的にも日本の演劇人口からしたら、社会現象としか言わざるをえないほどの動員数を記録し、紅天女は北島マヤの代名詞となることを誰もが予感する。 手のひらを返したように浴びせられるマヤへの称賛の言葉の数々。 「彼女は大都の、いえ日本の宝です」 終演後のレセプションの席での真澄の挨拶の言葉を、耳の奥の残響を損なわないようにマヤは何度も繰り返し響かせてみる。 この人の宝物になれた――。 女優としての自分への最大級の賛美であるとは分かっていたが、それでもそれは甘美な響きだった。 「チビちゃん、おめでとう。紅天女に乾杯だ」 主役だというのについつい人の輪から離れてしまう自分を見つけ、真澄が近付いてきた。 「負けたほうの”完敗だ”、じゃなくてですか?」 この人に対しては昔から何かを言い返すのがくせで、そして手放しで褒められることへの照れから、ついマヤの口からはそんな言葉がついてでる。 「乾杯だ」 真澄は柔らかな苦笑を浮かべると、マヤのグラスに自分のそれを静かにあわせた。 真澄がごく自然にひとけのないバルコニーへと向かうので、黙ってマヤもそれに従う。 「タバコ、ですか?」 それでも黙ってついて行くことが、大したことでもないと思う一方で不意に場違いな気がして、慌ててつい理由を探してしまう。 「いや……、君はタバコが嫌いだろ?」 どうという言葉でもないというのに、自分を気遣う真澄の言葉の余韻と、そしてそれならなぜ二人きりになるような場所へ行くのかという訳のわからない高揚で、途端に胸がうるさくなる。 「いいです。そんなの。吸ってください」 気にせず吸ってくれて構わないことを伝えたかっただけなのに、不器用に積み重なった言葉は子供じみていて、恥ずかしさで居たたまれなくなる。自分はやっぱり子供だ。特にこの人の前では無条件に。 「魂のかたわれか……」 何気なく真澄がバルコニーのガラス扉を閉めると、会場の喧噪が一気に遠のく。闇夜に静かに放たれた真澄の独り言のようなその言葉を、マヤは訝しげに見つめる。 「速水さん……?」 「魂のかたわれ……、そんな相手に出会えるのは舞台の上だけかもしれないな」 「どうしたんですか?そんな急に……」 見たこともないような真澄の遠い目に、マヤは戸惑う。 「君の素晴らしい紅天女を見ての率直な感想だ」 冗談なのか本気なのか、図りかねるその口調。 「現実には夢の話だ。例え巡り合えても結ばれるとは限らない」 突き放すような冷えたその言葉に、マヤの心の皮膚がざわめく。 「そんな……、何言って……、もうすぐあんな素敵な人と結婚する人が、何言ってるんですか」 笑いながらそう言うつもりが、声が少し震えてしまった。 そんなマヤの言葉に驚いたように振り向いた真澄の顔には、失望とも驚愕ともとれる表情が張り付いていた。 「チビちゃん……、君はやっぱり何もわかってないな」 先ほどの不可解な表情を中和させるような、無理矢理な苦笑を浮かべながら真澄はそう言った。 心の皮膚のざわめきが大きくなる。何かの噛み合わせがずれる。 「じゃぁ……、じゃぁ分かるように言ってくれたらいいじゃないですか。いっつもそうやって人を子ども扱いして、チビちゃん、チビちゃんって、速水さん、私もうチビちゃんじゃありませんっ!」 突き放されたくないあまりに必死に放った言葉は、かえって真澄を遠ざけてしまったようで猛烈な不安と後悔に襲われる。 不意に真澄との距離が縮まる。見上げれば真澄の体がすぐ目の前にあった。自分の背後にあるバルコニーの手すりを真澄が握ると、体が今にも触れあう距離だった。 「そうか、もう君は子供じゃないというわけか」 また少し縮まる距離。真澄の指がマヤの前髪に触れる。 「ならば君は本当に人を好きになったことがあるか。自分の魂と呼応するほどの相手を見つけたことがあるか」 威圧的な声にひるみそうになるが、マヤは一度だけ唾を飲み込むと、ハッキリと答えた。 「あります……」 その答えに、どこか不意を突かれたように真澄の表情に一瞬、亀裂が走る。 「そうか……。ならばその相手と結ばれず、他の第三者と結ばれる運命を、そんな運命を選ばなければならない現実を見たことがあるか」 沈黙。 バルコニーの手すりの向こうに広がる夜陰と対になるほどの、重く深い沈黙がマヤの足元を縛る。何か言葉を探そうとするが、適当なものは一つも浮かばなかった。 前髪に触れていた真澄の指先が頬の輪郭を辿り、顎へと下りてくる。沈黙の闇がまとわりつく足元に目線を縛られていたマヤの顔を、強く持ち上げる。 「あるのかと聞いているんだ」 その声は男の声であり、牙を持った獣の声だった。 「自分の魂と呼応するもう一つの魂はたった一つだ。この世にたった一つ。奇跡が起きて、その相手と巡り合えた時、人はそれまで自分がどれほど孤独だったか初めて気付くだろう」 強引に顎を掴まれたまま、マヤは真澄のその強い眼差しと言葉に縛られる。 「そしてもし結ばれることができなければ、その時は……」 その瞬間、強く折れるほどに抱きしめられる。おかしな角度で押し付けられた喉元が苦しくなり、息ができなくなる。 「奪うことも、欲することもせずに、別の手を取る。そういう運命を辿る。 それが現実だ」 傷ついた獣のようなかすれた声が、マヤの耳に荒い吐息と共に吹き込まれる。 「それが、俺の現実だ――」 その言葉は世界中で自分の耳だけに届いた言葉だった。 気がつけば真澄の姿はなく、マヤは一人バルコニーに取り残される。獣が残した折れた牙を、心臓に突き刺されたままに。 『それが俺の現実だ』 信じて疑わなかった真澄の幸せが崩れていく。 「お客さん、つきましたよ」 眠りの世界から一気に引き戻される。 「あ、すみません。いくらですか」 慌てて財布を探したが、チケットを貰っているから支払はないと運転手は言う。 荷物をまとめタクシーを降りると、それは想像していたような仕事の際によく用意されているシティーホテルとは全く異なる白い古い洋館だった。 ホテルであるという看板すらない。本当にここでいいのか、しかし周囲を見回してもこれ以外に建物があるわけでもなく、マヤは恐る恐る薔薇の蔦が絡まる鉄の門をくぐり抜ける。 あっと声を上げる。 暗闇の庭にわずかなライトアップにより浮かびあがる一面の薔薇。 そこは見たこともない立派な薔薇園だった。 赤や青や白、そして紫__。 薔薇の最盛期でもないというのに、咲き乱れる100万本もの薔薇の世界に、マヤは圧倒される。 ふと正面の館の扉がゆっくりと開く。 「ようこそ、ミリオンローズホテルへ」 芝居じみたその台詞。 訝しく思いながらも暗闇の向こうに浮かびあがった、漆黒の燕尾服の長身の男にマヤは目を凝らす。 「聖さんっ?!」 思わぬ人物の登場に、マヤは驚愕のあまり思わず叫ぶ。 しかしその人物は、穏やかな微笑を浮かべたまま、口角を上げ訝しげにマヤを見つめるだけだ。 「聖さんでしょ?どうして……、なんでここにっていうか、このホテルなんなんですか?」 たたみかけるようにマヤは問いかけると、白い手袋の指先がしっとマヤの唇を遮る。 「もう遅いお時間です。ひとまず中へお入り下さいませ」 そう言ってマヤの小さな荷物を受け取り、扉の中へと誘う。 フロントロビーは深夜のため、もちろん他のゲストはいなかった。壁に取り付けられた振子時計の時を刻む音だけが響く。 美しいマホガニー色のアンティークの家具の数々。椅子もテーブルもソファーも一つとして同じ形のものはないのに、全体として全てがこの建物と呼応しているようで、調和がとれていた。 そして全てのテーブルの上には花瓶が置かれ、全ての花瓶は大輪の薔薇であふれていた。 勧められるままにフロントデスクの前の布張りの椅子に腰かける。デスクの上にはやはり大輪の薔薇の入った花瓶。あまりに形の整った、今まさに開ききった薔薇の形がフェイクに思え、思わずマヤは鼻孔を近づけ香りをかぐ。 「いい香り。本物だ」 独り言のようなそれが現実の声となって出てしまったのに、マヤは一瞬慌てるが、様子を見ていた男は穏やかに笑うだけだった。 「北島マヤ様。このたびはようこそミリオンローズホテルへお越し下さいました。本日より2泊、ご宿泊を承っております」 あまりに当たり前のようなその声に、マヤは不安になり再度問いただす。 「あの、聖さんでしょ?どうして__」 「似ていますか?あなたのお知り合いのどなたかに」 その言葉に、マヤは驚いて思わず一瞬身を後にのけぞらせる。 口を開けたまま、もう一度視線だけでゆっくりとその輪郭を辿る。頭、顔、肩、そして指先。 どこからどう見ても聖だ。 しかし、 そこまで聖を知っているか、と言われれば急に自信もなくなる。 「はい、あの……、そっくりなんです。ごめんなさい、こんなこと言われても気持ち悪いですよね」 「いいえ、光栄です。あなたのような方のお知り合いに似ているというのであれば。 残念ながら、私はこのホテルのただの執事ですが……」 そう言って穏やかに微笑むと、宿泊カードを取り出し記入を促した。 宿泊カードの台帳の紙は、古い地図のような紙質で、出されたペンは羽のついたペンとインク壺。いったいどこまで趣にこだわるホテルなのだ、とマヤは小さく笑う。 名前、住所と、記載しながら最後の欄でマヤの持ったペンが止まる。 「あの、これ、最後のこの『3つの願い』ってなんですか?」 ”ご希望されるものに印をいれてください” と書かれた項目の、朝食、新聞と続き、最後に『3つの願い』という理解しがたい項目が書かれていている。 執事はゆっくりとテーブルの上の手を組むと、声を整えるかのように真っ直ぐに姿勢を正す。 「それはあなたの願いを3つ、このホテルに居る間に叶えてさしあげられるというものです」 「は?」 あまりに想定外の言葉に、マヤは言葉を失う。 「あの、ちょっと訳がわからないんですけど。えっと、このホテルって……」 マヤの脳内を先回りして覗き込んだかのように執事は穏やかに、再びの微笑を浮かべる。 「このホテルは、叶えられない恋を抱えた方がいらっしゃるホテルです。このホテルではあなたの願いはなんでも叶う、ここはそういう場所です。ただし――」 マヤは思わずそこで唾を飲み込む。 「ここでの最高の想い出と引き換えに、あなたにはこの恋を忘れていただきます」 充満する薔薇の香りが幻想と現実の堺を曖昧にする。この執事の言っていることは一体――。 「このホテルの薔薇がどうしてこれほどまでに昼夜を問わず、色鮮やかに完璧な形で咲き誇るのか。それは100万もの女性たちが、叶わぬ想いを薔薇に託してここに残していったからです。 この薔薇達はここでしか咲くことができません。 一生叶うことのないはずの恋を、ここでだけ咲かせるのです」 赤や青や黄、そして紫の薔薇がマヤを幻惑する。 そんなこと、あるわけがないと言い切れない幻想の世界。 戸惑うあまりに硬直するマヤに、執事は柔らかに微笑する。 「何も今焦って決めなくてよいのです。あなたの滞在は2日。このホテルでゆっくりお休みになる間に、願い事を3つ決めてください。決めた願い事は、客室にありますゲストブックに一つずつ書いてください」 「それだけ?」 「ええ、それだけです」 あるはずのない世界に迷い込んだアリスの気持ちを思い出そうとする。 その時、背後の壁かけ時計が深夜0時を知らせるべく、重く鳴り響く。まるで幻想の世界の扉が閉まる合図であるかのように。 「わかりました」 覚悟を決めたかのようにマヤは静かにそう言うと、その『3つの願い』の前の四角にチェックを入れた。 執事は満足気に微笑みなが頷いた。 「それでは本日は、お疲れでしょうからゆっくりとお休みください。ご朝食はお好きなお時間に裏のローズガーデンまでお越し下さい。ゲストブックは窓辺のコンソールデスクの引き出しに入っております」 そう言って、銅色の古びた鍵を手渡された。 マヤは静かにそれを受け取ると207という2階の一番奥の部屋へと向かう。 やはり室内にも薔薇が溢れていた。叶えられない恋を形にしたというその薔薇の香りが、マヤの鼻孔を塞ぐ。 まっすぐに窓際のコンソールテーブルへと向かう。金色のつまみをゆっくりと引くと引き出しは滑るように静かに開いた。 茶色い革張りのノートが一冊。 ゆっくりと革ひもを解き、ページをめくる。 ”ここであの人と食事をしてあの日のことを謝りたい” ”一晩中、彼に手を握っていて欲しい” ”二人きりにしてくれればいい。それでいい” 執事の言った通り、そこには叶わぬ恋を抱えた女たちの最後の願いが溢れていた。 マヤは静かに羽のペンを取ると、黒いインク壺からインクを取る。ペン先をその厚い紙の上に置くと、途端にインクが滲んだ。まるで抑えていた何かが泣き出したように。 一つ目の願いをしたためると、マヤはゆっくりとペンを置き、ノートを閉じた。 コンソールデスクの上に掲げられた、金色の縁が美しい大きな壁かけ鏡に映った自分を見る。 たった今したためたその願いをもう一度、胸の中で復唱する。 その願いが叶うことを信じるように。 その夜、羽毛布団に柔らかく包まれ、この世界でもっとも深い眠りにマヤがついた頃、コンソールデスクの上の革張りのノートが風もない部屋で静かにページを手繰られる。まるで真夜中の魔術であるかのように、パラパラとめくられるページは、もっとも新しい文字がしたためられたところで止まる。 その願いがゆっくり夜陰に放たれる。 ”紫 の 薔 薇 の 人 に 会 い た い” 08.20.2009 |
next / index / novels top/ home |