第2話
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目覚めた時、やはりそこは薔薇の香りに包まれていた。知らない場所で目覚めた事から、軽く現実を忘れる。 自分は今――。 ベッドに横たわったまま部屋の四隅を順番に見やりながら、記憶をゆっくりと整理する。やがてミリオンローズホテルという不可思議な館の中に宿る、昨晩からの薔薇の香りが纏わりつくこの状況を理解する。 寝て、そして目が覚めてみて、全てが夢であったということではなかったようだと思う一方で、それとも夢の中で人はさらに夢を見るのだろうか、などと取りとめのないことを考えてもみる。 ――考えてもしようがない。 言い聞かせるように、そう心の奥でつぶやくと、ベッドから起き上がる。 ”紫の薔薇の人に会いたい” コンソールデスクの上の茶色い革張りのノートの表面を、指先でそっとなぜる。 それは昨晩、確かに自分がこのノートへしたためた願いだというのに、その願いが本当にもうすぐ自分の手の中へと堕ちてくるものとは、到底信じられない気持ちがもたげてくる。慌てて頭を振って顔を上げる。正面の金縁の壁かけ鏡の自分と目が合う。 ――信じなければ、叶う願いも叶わない。 もう一度、そう自分に言い聞かせた。 執事に言われた通り、裏庭を通りローズガーデンへと向かう。昨晩は暗闇のためはっきりとは見てとれなかったが、やはりここの敷地の薔薇の咲き狂い方は尋常ではなかった。どんな薔薇園でもこれほどまでに咲き乱れる様子は、見たことがない。種類も色も多種多様の薔薇が咲き乱れていたが、不思議と全体としては”この世のものとは思えない美しさ”という意味で調和が取れていた。 「おはようございます」 薔薇に気を取られていたからか、それともそれがこの執事の流儀であるのか、全く気配を感じさせられることなく発せられたその言葉に、マヤは驚いて振り向く。 「お、おはようございます」 びっくりした気持ちを抑えるように、自然と胸に手を当てながら、今一度、聖と酷似したその執事の様子を見やった。やはりよく似ている……。 「昨晩はよくお休みになれましたか」 相変わらずの穏やかな微笑。 「はい、とても。素敵なお部屋ですね。それから、素敵なお庭……」 そう言って、何気なくすぐ近くにあった美しい紫の薔薇の花びらにそっと触れた。 「紫の薔薇がお好きなのですか?」 何かを見透されているかのような質問に、一瞬マヤの心の襞の一部が収縮する。 「はい……。私には特別な薔薇なので……」 ごく小さなな声でそう答えるのが精一杯だった。 「それではお部屋の薔薇は紫にいたしましょう」 毒はないけれど、どこか陰のあるこの執事独特の穏やかな笑みで、マヤの言葉をそう引き取ると、執事は用意された朝食の場所へとマヤを案内した。 ローズガーデンと呼ばれるそこは、庭の中央にあしらわれたアーケード型のドームの中央にテーブルがセッティングされていた。まるで誰も使ったことがない、目の覚めるような真白のテーブルクロスとナフキン。大きなクリスタルの花瓶には、摘んだばかりのやはり大輪の薔薇が溢れるほどに活けられていた。 テーブルは一つ。朝食を取るゲストはマヤ一人だけのようだった。それともマヤ以外のゲストは一人もいないのか、訝しく思いマヤはそれを口にする。 「あの、他のお客さんはいないんですか?」 「お会いになることはございません」 微妙な否定の仕方。「いない」とは言わずに「会うことはない」というその言い方が、やはりここは普通のホテルではないのだとマヤに思わせた。 「お飲物は紅茶でよろしいですか」 そしてこの執事は自分が朝はコーヒーを好まないことを、知っているようだ。 「はい、紅茶で……」 もはや普通ではないこのホテルへ降参するように、マヤは苦笑を浮かべてそう答えた。 小さなテーブルに所狭しと溢れるように並べられた朝食メニュー。自分が最も好きな半熟の固さで出されたゆで卵や、バカラのグラスに入った絞りたてのフレッシュオレンジジュース。ベーコンはたった今フライパンで焼かれたかのように、温かいまま白い皿の上にサーブされる。表面はカリっと香ばしく、けれども肉の旨味はしっかりと閉じ込められていた。焼きたてのトーストは黄金色の美しい焼き色が食欲をそそり、そして美しい小さな正方形の大きさに切られたバターは、冷たい透明な氷の上に乗っていた。丸みを帯びたガラスの小瓶に入った、既製品ではないジャムが十種類以上、銀の盆の上に並ぶ。薄いピンクが美しい色のそれは、瓶の底に薔薇の花びらがはかなげに沈んでいた。 「これ、薔薇ジャムですか」 生まれて初めて見るそれに、マヤは少女のような驚きの声を上げると、 「はい、こちらの薔薇で作っております」 とこともなげに執事は答えた。 どこでどのようにどのタイミングで用意されていたのか、答えは”魔法だった”と聞かされたら一番納得できるようなクオリティーでそれらはあっという間に整えられる。 「あの、凄く美味しいです。これ全部、信じられないくらい美味しい。こんなの初めてです、こんな朝食……」 ひらひらと飛んできた白い蝶が、バカラのグラスの縁に止まった。 時が止まる――。 「それは、何よりでございます」 そう言って、まだ早朝だとはいえ、真夏だというのに汗一つかかない黒燕尾の執事は、ゆっくりと体を折り、片手を胸にあて一礼した。 執事の白い手袋をはめた指先が、ゆっくりとバカラのグラスへ伸びる。白い蝶がごく自然にその指先へと移る。そしてそのまま執事は何事もなく下がっていった。蝶を指先に休ませたまま。 信じがたいその光景にマヤは眼を奪われながらも、どこかこの異空間に少しずつ馴染んできている自分を、何が起きてもおかしくないというその空気を受け入れてきていた。 ここはやはり、普通のホテルではないのだ。 「朝食をお召し上がりになりましたら、散歩はいかがでしょうか。裏庭の最奥に別のローズガーデンがございます。ここよりは小さいですが、紫の薔薇だけが咲いている一角もございます。きっとあなたのお気に召すでしょう」 執事のその言葉に従い、朝食を終えるとマヤは広大な薔薇園の更に奥へと足を進めた。 どうせ今日一日オフなのだ。久しぶりの休みに対して、何かを計画していたわけではないが、この状況では一日このホテルで過ごすことにすでに心は決まっていた。 薔薇しかないこの異様な空間で、次第にマヤの脳は麻痺してきたかのように、全ての動作がゆっくりとなっていく。 「あっ……」 執事の言う通り、蔦が生い茂る小道を奥まで抜けると、紫の薔薇だけが咲く一角に出た。 紫の薔薇の花束を貰うことはあっても、地面に根を張った形で紫の薔薇を見るのはこの館でが初めてだった。そして四方全てを紫の薔薇に囲まれたその場所で、一面を見渡すようにその場で回ると、眩暈に襲われマヤは眼を瞑る。 背後でカサリと葉が動く音がした。 執事ではない――。 直感で分かる。あの執事は歩く音すら立てないのだ。蝶を起こすことすらないのだ。 予感に胸が震える。 「見事な薔薇だな」 その低い聞き慣れた声に、自分は少しも驚かなかった。なぜなら自分はこの瞬間を待っていたから。 もうずっと、 何年も、 待っていたから。 ゆっくりと体の骨一つ一つを動かすように、マヤは振り向く。 その刹那を永遠に記憶にとどめるかのよう、体に刻み込むかのように、時間を限界までに引き延ばす速度で。 はたして振り向いたその先に居たその人は、咲き乱れる紫の薔薇の中から、ひときわ大輪の花を咲かせている、今まさに咲き零れんばかりの一本を選び、マヤの目の前で手折る。 まるで薔薇に棘など存在しないかのような、自然な動作で。 「待たせて悪かった……」 その選ばれた一本が差し出される。 それが、 この不可思議な館が用意した、紫の薔薇の人との”始まり”だった。 08.23.2009 |
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