第3話
この人からこうやって紫の薔薇を差し出されるシーンを、自分は一体何度夢に見ただろう。どれほど狂おしいまでにその妄想に焦がれただろう。
それほどまでに思い描いた情景だというのに、いや、それだからこそなのか、一歩足を踏みだせば、真澄も薔薇も、たちまち全ては霞となって消えてしまうのではないか、そう思うあまりに体が少しも動かない。

「それは……、私に、ですか?」

やっとの思いで喉元を通過したそれは、途切れがちに擦れる。

「俺が紫の薔薇を贈るのは君しかいない。それから――」

一切の迷いも淀みもない言葉とともに、ゆっくりと真澄がこちらに歩みを進める。真澄の手に握られた紫の薔薇から花びらが一枚、空に舞う。その様子が3倍速の映像を見ているかのようで、マヤは時間の感覚が歪んだ錯覚を覚える。

「君にこの薔薇を贈るのは、俺しかいない。世界中で、俺だけだ」

手を伸ばせば触れられる距離。その紫の薔薇を受け取ることができる距離。

「俺が紫の薔薇の人だ」

目を瞑る。
その言葉の重みと深みを、正しく受け止めたいあまりに目を瞑る。
ゆっくりと再び目を開いても、変わらずそこには真澄と紫の薔薇があった。消えないそれに、マヤはゆっくりと手を伸ばす。

「ずっと……、待ってました……」

紫の薔薇ごと真澄の手を、まるで祈るようにマヤは両手で包むと全身で息を吐き出す。組んだ指に額を合わせ、心の声を吐露する。キリストの像に祈りを捧げる信者のように。

「今まで、本当にありがとうございました。あなたの薔薇が私の生きる支えでした」

一番言いたかったことを、心の底から解放させることが出来た安堵のため、マヤの体から力が抜ける。

「あの……、抱きついてもいいですか?それが夢だったか――」

言い終わらないうちに、強い力で抱き寄せられる。おかしな角度で押し付けられた喉元の痛みと息苦しさが、強烈なデジャヴュとなって昨夜の出来事を蘇らせる。

『それが俺の現実だ――』

傷ついた獣の声が脳裏で響く。
真澄の体の熱とその行為の性急さが、これは夢ではないとマヤに思いこませる。

「ずっとこうしたかった……」

傷ついた獣の声とは対極にあるような、穏やかな安堵の声が落ちてくる。強く回されていた真澄の腕から、ゆっくりと力が抜け、体が解放される。真澄の両手がマヤの両頬を掬いあげるように包む。お互いの額を合わせると、今度こそ本当の秘密を吐露するように、息を吐く。

「ずっと君が好きだった……」

高揚していく気持ちとは裏腹に、脳裏の別の部屋では、あの穏やかな執事の声が静かに響く。

『このホテルではあなたの願いはなんでも叶う。
ただし、ここでの最高の想い出と引き換えに、あなたにはこの恋を忘れていただきます』

分かっている。分かっている。分かっている。
心の奥で、執事のその声に返事をする。その部屋から執事が消える。

例え全てを忘れることになろうとも、今あるこの甘美な時を手放すことなど、到底できるとは思えなかった。そもそもこの咲き狂う薔薇の園に足を踏み入れた時から、自分はこの幻想の世界に取り込まれていたのだ。今更引き返すことなど、いや引き返す方法すら分からない。
分かっているのは、今確かに自分が触れている真澄の手が、体が、全てが温かみを持ったものだということ。今の自分には、これが全てなのだ。

「私もあなたが好きでした。ずっとあなたが……、好きでした――」

真澄の言葉に応えるように、自らの手を両頬に置かれた真澄の手に重ねる。真澄の体が一瞬、ビクリと強張ったのが分かる。

「馬鹿な……」

そう言って、何かを否定するように頭を振ったが、それはマヤの言葉を否定したというよりも、自らの心に去来する何かを否定したように見えた。

「馬鹿、ですか?」

分かっていて、ついそんな言葉で答える。真澄の言う”馬鹿”の意味を、たった今真澄が否定した物の存在を知りたかった。

「いや、君がではなく、俺がだ。何もかも否定し続けた俺がだ」

牙の折れた獣が否定し続けてきたこととは一体――。
思いを巡らすが、瞬時にそこまでの答えは出なかった。

「速水さん、話がしたい。私、速水さんと沢山話がしたい。話すことがいっぱいある」

真澄の目をまっすぐに見上げながらマヤは懇願する。

「ああ、俺も話したいことが山程ある。だが、まず先に――」

そう言ってゆっくりと顔を近づける。唇が触れあうその時、笑みを含んだ声が届く。

「まずはキスからだ」

唇が触れ合った瞬間、魔法がかかったのだと思った。童話の白雪姫は、愛する王子様からのキスで魔女の魔法が解けたはずだが、自分はその逆で、愛する人の唇に生まれて初めて触れた瞬間、体ごと、心ごと、今目の前のこの真澄という存在に掬い取られる。乱暴なキスでも、強引なキスでもないのに、自分以外の力が自分の体に対して働く感覚。

――これは薔薇の魔法だ。

やめることが出来なくなったキスに眩暈を感じ始める。薄く開いた視界の端に、風などないはずなのに、無数の薔薇の花びらが舞っているのが見える。
薔薇の香りが一層強くなる。むせ返るほどに。
もうこれ以上は無理、息継ぎもできずに溺れそうになった瞬間、真澄の唇が離れ、前より一層強く抱きしめられる。

真澄の肩越しにこの世のものとは思えない、美しい青い蝶が浮遊するのが見えた。舞い散る紫の薔薇の花びらの間を、ひらひらと泳ぐように。
天国には青い蝶がいると聞いたことがある。
天国から来た青い蝶。ひらひらとさまよう蝶が、薔薇の垣根の向こうに消えていく。その先に、黒い燕尾服の肩が見える。差し出される白い手袋の指先。青い蝶は静かにその指先へ止まる。
黒い燕尾服の執事は、ゆっくりと振り返り、こちらへ一礼すると、青い蝶を連れて下がっていった。


『このホテルではあなたの願いはなんでも叶う。
ただし、ここでの最高の想い出と引き換えに、あなたにはこの恋を忘れていただきます』


もう一度その声が、確かにマヤの脳裏で聞こえた。







執事に頼み、午後の時間はその紫の薔薇の咲く場所に、お茶の用意をしてもらった。
テーブルセットをわざわざ整えるよりも気軽だからと、大きめのブランケットとクッションを用意してもらい、柔らかな緑の芝の上にまるでピクニックのように真澄と二人、横になる。
あの時はああだった、この時は本当はこうだったと、過去にいくつも掛け違えたボタンの場所を確認しては、笑い合う。そしてようやくこうして想いを通わせることができたことを、何度も口づけを交わしながら確かめ合う。

「それにしてもスカーフの色だけで、俺だと断定したのは、早合点だったんじゃないか?」

今更だからこそ、まるで負け惜しみのように、真澄は軽い口調でそう言ってみる。

「それだけじゃないです!母さんのお墓参りの時、速水さん万年筆落としていったでしょ?紫の薔薇と一緒に、万年筆が落ちていて、それ速水さんあとで、確かに自分のだ、って受け取ったもん」

マヤも真澄の軽口に応酬するつもりで、そんなことを口に出したはずが、不意に真澄の表情が強張る。

「春さんのことは、本当にすまなかったと思っている……」

一瞬にして薔薇の園には似つかわしくない、重い空気が流れ込む。

「俺が君に今まで気持を告げることが、到底許されるとは思えなかった一番の理由は、春さんの件があったからだ。今でも、もちろん許されるとは思っていない。俺は取り返しのつかないことを――」

「もう、いいです」

血を絞り出すかのような、真澄のその言葉に耐えきれなくなったマヤは遮る。

「確かに私、随分速水さんのこと恨みました。だから随分酷いことをあなたに言った。それこそ取り返しのつかないくらい酷い事とかも……」

無言でそれを否定するように、真澄は左右に頭を振る。

「でも、こうなったのも本当は全部私がいけなかったんです。私があの時、母さんを置いて家を飛び出して。お芝居がしたいからって、たったひとりの家族である母さんを捨てて。そのあとはお芝居に夢中で、会いにも行かず。確かに母さんの事故は、不運が重なってああなってしまったけれど、一番最初に積み木を間違った順番で積み始めたのは私だったんです。子供だった私は、それを全部速水さんのせいにして……」

上手く説明できている自信はなかったが、いつか真澄にそう伝えたいと思っていたことをマヤは必死に言葉にする。

「今まで速水さんだけを苦しませて、ごめんなさい。もうこれ以上、母さんのことで苦しまないで……」

その言葉が真澄の耳に届き、そして心の奥、おそらく折れた牙の痛みに耐える獣がうずくまり、頑なに心を閉ざしている場所に届くまでの時間が経つ。

「君は俺を許してくれるのか」

「許すなんて――」

許すなどという言葉が自分には相応しくないように思え、マヤは咄嗟に否定をする。

「前にも言ったように、俺は謝り方も知らない人間だった。償い方も知らない。ただ君にだけは、一生をかけて俺にできる全てでもって、償うつもりだった。女優として誰よりも成功させてやる、輝かせてやると。ただ――」

そこで真澄は一度だけ遠くを見る。それはいかにも、心に去来することを口にすることが不得手であるという人間の姿にも見えた。

「それは俺の自己満足に過ぎないし、独りよがりな思い込みであるし、何よりそんなことで全てが許されるとは到底思っていなかった」

真澄の指がマヤの髪を梳く。

「でも君のその言葉を聞けて、いくらか救われた気がする」

あの事実がこれほどまでに真澄の心を重く縛りつけていたのかと、マヤは今更ながら居た堪れない気持ちになる。

「母さんだって、きっと今は感謝してると思う。私をここまで支えてくれたのも、紅天女にしてくれたのも、速水さんなんだから。ありがたい、ありがたい、ってきっと天国で思ってる」

付け加えてそう言ってはみたが、それで全てがなかったことになるわけでも、そして救われるわけでもやはりないことは、無駄に言葉を重ねた分だけ明白だった。
ここは幻想の館であるはずなのに、春に関するこのやりとりのリアリティーさが、どこか際立ってしまい、それはもしかしたらそれだけ自分の心の奥深くにいつまでも沈澱しているものであることの何よりの証拠なのかもしれないと、マヤはこの時思った。






冷めた紅茶を入れ替えに執事がやってくる。

白地に青い蝶と薔薇の模様が美しいカップ&ソーサー。青と紫の中間ともいえるその色合いがあまりにも美しく、それを褒めると、

「ウェッジウッドのジャスパーコンランコレクションの一つ、ブルーバタフライでございます。18世紀のデザインからインスピレーションを受けて、コンランが現代に発表したもので、描かれた青い蝶と花々の美しさが特徴です」

「ブルーバタフライ……」

その美しい響きを、まるで舌の上で飴玉を転がすようにマヤは呟く。この秘密の薔薇の園にはぴったりのカップだと、マヤは宝物を見るようにもう一度そのカップを眺めた。

執事が高い位置に構えたティーポットから紅茶を注ぐ。まるで魔術のように紅茶は生きた水となって、一滴もはねることなくブルーバタフライのカップに注がれる。カップからは温かな湯気と、アールグレイの芳しい香りが立ち昇る。こんなに美味しい紅茶を飲んだのは生まれて初めてだと、マヤは大袈裟でなく伝えると、執事はいつもの穏やかな笑みで一礼し、静かにそれに応えた。
アフタヌーンティーセットの三段の皿に並べられた、スコーンや焼き菓子の数々。焼きたてのスコーンは香ばしく、添えられたブルーベリーのジャムの隣にはやはり薔薇のジャムが。
三段目に並べられたスイーツは一口で食べられてしまう小ささだというのに、その味わいは深く、まるで宝石のようなお菓子たちにマヤは夢中になる。

子供のように無邪気に喜ぶマヤを、目を細めて穏やかな笑顔で見守る真澄。この世の幸せのすべての瞬間を、凝縮したようなその空間。全てはあり得ないほどに行き届いた、極上の午後のひとときだった。


二人はどちらともなく自然と手を繋ぐと、広大な薔薇の庭を歩く。美しい大輪の薔薇を見つけると、その度にマヤはそっと薔薇の首を持ち上げるように手を添え、その匂いを嗅ぐ。そうせずにはいられない誘惑が、この館の庭の薔薇にはあった。
そしてその度に二人は笑いあい、口づけを交わす。その気の遠くなるような幸せに眩暈がする。
前方に見えた、一際美しい、今まさに咲き誇ったと言わんばかりの大輪の紫の薔薇を見つけると、マヤは真澄の手を離れ駆け出す。

「見て、速水さん!これすごい綺麗!!」

振り向いた瞬間、一陣の風が吹き抜ける。
そこに真澄はもう居なかった。まるで風に奪われたかのように、風とともに消え去っていた。目の前には残風に舞う、薔薇の花びらがひらひらと浮遊し、やがて地面へと音もなく着地した。

あまりにも幸せが偏りすぎていたその空間は、唐突に破裂した。けれどもマヤはさほど驚かなかった。こうなる予感はどこかしていた。
覚醒する手がかりを失った夢のように、それはいつまでも、どこまでも続くかのように思われたが、そうではなかった。


なぜならここは、

幻想の館”ミリオンローズホテル”だからだ。




つい一瞬前まで側にいた温もりを思い出そうとして目を瞑る。
確かな感触として全てが思い出され、マヤの体を包む。思わず閉じた瞳から涙がこぼれおちる。


「泣かないでください」

ゆっくりと目を開けると、執事がそっと白いハンカチを差し出した。







08.27.2009


…to be continued








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