第4話
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「ここで起こることは、ホントじゃないんですよね」 真っ白なハンカチを受け取ると、折り目の部分を一度目に当てて涙を拭うと、マヤは努めて静かで落ち着いた声を出そうとする。 そんなマヤの様子を痛々しそうに見つめながら、執事は言葉を選ぶ。 「幻想か現実か。大切なのはその答えではなく、ここではあなたの心で感じたことが全てだということです。 あなたが感じ、あなたの心に残った想いの全ては、あなただけのものでいかなる者でも侵すことはできません」 揺ぎない強さで持って執事は述べる。それは言葉は穏やかだが、一つ一つの言葉の響きにははっきりと核となるものがあると分かる伝え方だった。 「あなたの心に残ったことは、全て真実です。その真実によって、こうして薔薇は咲き誇り、そしてあなたは、あなたの愛する人のいない世界を生きていくことが出来るのです」 自らの心に残るもの。 確かにそれは自分だけのもの。誰にも触れることはできないものであるように思える。 けれどもそれは同時に、自分にしか価値のないものであるともいえ、そしてあまりにも不確かで捉えどころのない形のないそれを、『それが全てだ』と言い切る自信がマヤにはまだなかった。 「忘れるってどういうことですか?忘れるなんて想像できない。 そんなこと、あるわけない――」 執事から差し出された白いハンカチの角を、指先で意味もなく確かめながらマヤは聞く。 「あなたにはこの青い蝶が見えますか?」 唐突にそう言って、執事はマヤの前にその白い手袋の指先をかざす。ふとあの天国の青い蝶がどこからともなく、飛んでくる。当たり前のように、蝶はその指先に止まると、静かに羽を休める。 見える、そう言葉にする代わりに、マヤはコクリと頷いた。執事は黙って、もう一方の手を一度だけ蝶の前にかざす。 ほんの一瞬の出来事。 次の瞬間、青い蝶は異次元へと吸い込まれる。 飛び立ったわけではない、ただ消えたのだ。まるで始めからそこに存在しなかったかのように。 「青い蝶が本当にここに居たのか、居なかったのか。そんなことは大切な事ではないのです。ただ、今のあなたは青い蝶の美しさを知っている。青い蝶が私の指先で静かに羽を休める様子を、克明に思い出すことができる。私が言っているのはそういうことです。 あなたの心の中には、青い蝶がいる」 そう言って、再びマヤの目の前で握った拳の上下を返し、指先を開くと、異次元から戻ってきた青い蝶がその手の平から飛び立った。 そのあまりの美しさにマヤは言葉を失う。 この執事が見せる魔法は、自分には耐え難いまでに美し過ぎる。 「あなたはごく自然に忘れるのです。このホテルを出、いばらの道を抜け、あの門をくぐる時、苦しい愛の記憶と情熱と痛みは、全てあなたの体から引き抜かれます。まるで結び目を持たない細い縫い糸を、絹の布からするりと引き抜くように。 残るのは、ここで過ごした甘美な想い出だけです」 目を瞑って想像してみる。 明日の朝には、このホテルをチェックアウトし、ゆっくりと門までのいばらの道を抜けていく自分。文字通り、体から抜けていく痛みと苦しみの数々。 信じられないと思う一方で、この執事の言うことのほうがやはり正しいのだろうと思わせる何かがそこにはあった。 「このホテルではあなたの愛する人はあなたの恋人となります。それが例え現実の世界とは異なる事実であったとしても、あなたに対する優しさや眼差し、かける言葉や情熱のすべてに嘘はありません。その方が本当に愛する方に接する態度とそれは同様のものなのです。」 執事の言葉には、どこにも濁りがなかった。この世界のことをすべて知り尽くした神の言葉のごとく。 「じゃあ速水さんは、本当に愛する人と一緒に居る時は、あんなに幸せそうな顔をするんですね。あんなに楽しそうに笑って、あんなに優しいキスをするんですね……」 あの極上のひとときが再び思い出され、胸を苦しくする一方で、マヤの脳裏に昨夜の真澄の意外な告白が蘇る。 『奇跡が起きて、 その相手と巡り合えた時、 人はそれまで自分がどれほど孤独だったか初めて気付くだろう……』 さらに苦しげに擦れた獣の声が、マヤの頭蓋骨に響く。 『そしてもし結ばれることができなければ、その時は……、 奪うことも、欲することもせずに、別の手を取る。そういう運命を辿る。 それが俺の現実だ』 真澄の言うところの“現実”について、マヤは想いを巡らせてみるが、そのベクトルを自分の方向へ引き寄せてみることなど露も浮かばない。 ただ真澄もまた、思い通りにならない現実の前で、目に見えない何かに蝕まれるかのごとく苦しんでいたのだと想像する。 その切なさに胸が痛いほどに苦しくなった。愛する人の苦しみは、自らのそれより痛々しく心を抉るものだと、マヤは生まれて初めて悟る。 「美しい想い出を作る覚悟はできましたか?」 果てしなく想いを巡らせるばかりのマヤを覚醒させるように、ゆっくりと執事は問いかける。 その言葉と本当に対峙するために、マヤは目を閉じる。 現実ではどうしたって叶うことのないこの恋を、唯一叶える方法があるとすれば、やはりそれはこの場所でしかないのだと、マヤは改めて確信する。そして現実に結ばれることが出来ないからこそ、自分は記憶が欲しいのだとも理解する。その人の居ない世界で、その先も一生、生きていける糧にもなりうる、記憶が。 記憶はやがて、美しい想い出となり心に宿る。自分だけが触れられるその領域の中で、禁断の薔薇の花を咲かす。やがて体はゆっくりと全てを、その薔薇の棘さえも取り込むだろう。そして全ては血となり、肉となる。 そうやって自分は生きていく。 生き抜くのだ。 そこまでの自分の姿を克明に脳裏に描くと、マヤはゆっくりと目を開けた。 「ここでしか……、このホテルでしか絶対に叶えられない願いがあります。それを二つ目の願いにします」 もう迷いはなかった。 執事はその言葉に静かに頷くと、 「それではお部屋のほうへ――」 そう言って、紫の薔薇が溢れる207号室へとマヤを誘(いざな)った。 朝食時のあのやりとりの中での約束通り、部屋は紫の薔薇で満たされていた。完璧な美しさを誇るその薔薇達に囲まれていると、このホテルで完璧ではないのは、唯一自分だけなのだと気付く。 完璧な執事、完璧な薔薇、完璧な部屋に、完璧な朝食やお茶、そして完璧な恋人。 コンソールデスクの上の鏡に映る平凡な自分を見て、つくづくそう思う。 ”今晩は、ちゃんとお洒落をしよう――” 鏡の中の自分にそう呟いて、笑ってみた。 コンソールデスクの引き出しを開ける。茶色い革のノートをそっと取り出す。 このホテルでしか絶対に叶えられない、その二つ目の願いをしたためる。 恐ろしいほどに研ぎ澄まされた感覚が、体に宿ってくるのを感じる。このホテルで起こること全てを体が覚えておこうとしているかのごとく。 もう一度鏡の中の自分を見る。 やはりもうそこに迷いの色はなかった。 完璧な想い出を作るために、舞台は全て整った。 08.30.2009 |
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