第5話
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時刻は間もなく19時。執事に頼んでおいた夕食の時刻だ。 薔薇の館に、ひっそりとした夜がやってくる。 コンソールデスクの上に散らばった化粧品たち。パーティーの帰りだったので、それなりに化粧品は持っていた。とは言っても化粧の腕は大したものでは勿論ないので、薄いシャドーやチークを乗せる程度だ。それでも鏡に映る自分の顔が、少しだけ艶めいて見えてくる。 コンソールの上に置かれた小さなガラスの香水瓶。この部屋に来た時からずっと気になっていた。ボトルの首の部分にローズレッドの房飾りがついたそれは、フランス映画に出てくる昔の香水瓶のようで、思わずマヤの手が伸びる。 フロストガラスの表面に刻まれたなめらかな美しい筆記体のRの文字をなぜる。RはRoseのRだろうか。 遠慮がちに少しだけ噴射し、香りを嗅ぐ。 薔薇の香りだ。 それも本物の薔薇の香り。香水特有のきつい香りではなく、自分がとても好きな種類の。 普段は香水などつけないマヤだが、その甘い薔薇の香りがあまりに心地よく自らの肢体を包むので、マヤはその香りに身を委ねることにする。 香りを一枚纏っただけだというのに、自分が別人のように感じた。 お洒落をしよう、そう思ったのはいいが、もともとレセプションパーティー帰りに2泊の予定で立ち寄ったホテルだ。小さな荷物に入っている服でお洒落をできそうな服といえば、まさにそのレセプションで着用した、パープルブルーの薄い素材のドレスだけだ。 少しだけ迷ったあと、そのドレスを足元からするりと引き上げる。シンと静まり返ったホテルの一室で、絹ずれの音が気持ちを高揚させる。 黙って鏡に映った自分をしばらく見つめる。 少しのメイクと、薔薇の香水、そしてパープルブルーのドレス。 それが今の自分に出来る、精一杯のお洒落だった。 「そんなに悪くはない……よね」 そう呟いて視線を窓の外に移すと、そこにはビロードに包まれた果てしない夜陰が広がっていた。 大切な想い出になるはずの夜が始まる。 レセプションの奥にあるレストランには、やはり他のゲストは一人もいなかった。テーブルもあり、またカトラリーやリネンクロスもセットされているが、おそらくあの執事の言葉通り、ここで誰かに会うことはないのだろう。 庭に面した大きな窓ガラスの席へと案内される。柱の影に隠れて入口からは見えなかったが、すでに着席していた真澄の姿を認め、マヤは慌てる。 「ご、ごめんなさい。お待たせしました!」 その様子に真澄が柔らかく笑う。 「時間丁度だ。俺が少し早く来すぎただけだ」 自然な調子でマヤの手を取ると、その甲に口づける。 「君に早く会いたくて、つい早く来てしまった」 溶けるかと思った。キスもその台詞も、あまりに甘く、一瞬にして体がカッと熱くなり、その瞬間マヤの体からあの薔薇の香水の香りが立ち昇る。そしてその香りが真澄の鼻孔にも届いたのが、真澄の表情で分かった。 「薔薇の香りか……」 立ち尽くしたままでいると、先ほどキスをされた手を今度は強く引っ張られる。都合、上半身が真澄の方向へ屈み、顔が近付く。 「いい香りだ」 キスをされるのかと慌てて目を瞑ったが、そうではなく、首のあたりに真澄が唇を近づける。唇が今にも触れそうな、けれども決して触れない距離で、真澄が鼻孔から息を吸い込んだ。それだけのことなのに、その気配が一瞬にして、皮膚の細胞を粟立たせる。 自分の体の匂いを嗅がれるという行為は、キスよりもずっと深く、湿度を感じさせる行為に思え、マヤは激しく動揺する。それは直接肌に触れられるよりも、ずっと強く自分の体内の情熱が掻き立てられ、 香りだけでなく、体の機能のどこか一つまで持っていかれてしまったのではないかと錯覚するほどだった。 愛する男に自らの匂いを嗅がれるという行為が、自らの体に対してこれほどまでに破壊的な誘惑の力を持っているなど知る由もなかった。 そんなことは誰も教えてくれなかった。 そんなことは、誰も……。 「アペリティフをお持ちしてもよろしいでしょうか」 選ばれた適切なタイミングで執事がテーブルにやってくる。黙って頷くと、マヤは真澄を見つめる。アペリティフの名前なんて、一つも知らない。真澄がきっと頼んでくれるだろうと、執事と真澄を交互に見やる。 「この店のおすすめは?」 慣れた手付きでワインリストの前にあるアペリティフのページを指で手繰りながら真澄は尋ねる。 「こちらのローズワインはいかがでしょうか」 そういって美しい淡いローズピンク色のボトルを差し出す。 「こちらイギリスはケンブリッジ州の薔薇園で栽培された、薔薇の花びらだけを発酵させ作られた薔薇のワインです。このワインはRoyal National Rose Society、いわゆる英国王立バラ協会の認定を受けていて、その品質と伝統が認められ、エリザベス女王公邸であるウィンザー城でもサーブされているものです。原料となるバラは、一輪ずつ手で花びらを摘み取って収穫され、全て厳選された天然原料だけを使い、人工の香料や着色料などを一切使用せずに作られた伝統的なイングリッシュワインで、大変珍しいものです」 この執事の頭の引き出しには一体どれだけの知識が詰まっているのかと、マヤは思わず口を開けたまま見上げる。 「ロゼではなく、ローズワインか……。確かに珍しいな、それにこのレストランらしい。よし、これにしてくれ」 そう言って真澄は満足気に笑う。その穏やかな笑みが自分だけに今は向けられたものだと思うと、幸せであるという気持ち以上に、切なさがこみ上げてきて、思わずマヤは目をそらした。 「さてチビちゃん、もう一人のゲストはいつくるのかな」 円形のテーブルには三人分のカトラリーとグラスがセッティングされている。白いテーブルクロスの上の、三つ目のその席を、真澄が人差し指で軽く叩く。 「えっと、多分、もう来るはずです」 「全く、君が会わせたい人がいるなんて言うから驚いたよ。いったい誰なんだ――」 「あっ、来た……!」 その時、確かに三人目のゲストとなる人物がレストランの入口に現れる。不慣れな様子で、きょろきょろと中を伺っている。 「母さん!こっちこっち!!」 マヤが大きな声を上げ、腕を振り回す。その姿を視界に認めた途端に安堵の顔を浮かべたのが遠くからでも分かった。 何年ぶりになるのだろうか。 自分は確実に年を重ねたが、目の前に現れたその人は、最後に会ったあの日のままだった。少し不機嫌な、けれども本当に不機嫌なわけではない証拠に、笑い皺が現れるその表情。 もう二度と会えないはずのその人のその姿に、熱いものが込み上げてくる。 「速水さん、母です。今日は母と速水さんと三人で食事がしたくて、母を呼んでいたんです」 呆然とした真澄の表情。 マヤは咄嗟に執事のほうを見る。 執事は言った。このホテルでは全ての願いが叶うと。 死んだ人間にもう一度会う、そんなことはこのホテルでしか、いやこのホテルでも可能なのかどうか、マヤにも分からなかった。 けれども確かに願いは聞き入れられた。 あとはそれを真澄がどう受け止めるのか、正確にいえば、この世界ではどういう事実として真澄に映るのか。発射ボタンが押されてしまったミサイルの行方を見定めるような心境で、マヤは真澄の反応を待つ。 「これはこれは春さん、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」 そう言って真澄は立ち上がると、春を隣の席へと案内する。 春は「ええ、ええ、元気ですよ」と笑いながら席に着いた。 その様子にマヤは思わず肩で息をつく。緊張のあまり、息を止めていたのだ。 春は死んだわけではない。 ましてや真澄に監禁されて殺されたも同然という事実もない。 ただ久しぶりに娘に会いにきた。 この世界ではそう設定されたのだと、マヤは理解する。 背後に控える執事をもう一度見ると、マヤのその心の声に応えるかのように、黙って静かに一度だけ頷いた。 茶色い革張りのノートにしたためた二つ目の願い。 やはりあの執事は二つ目の願いも叶えてくれた。不可能とも思われる願いも、この館では可能になる。 美しいピンクの液体のローズワインが入った、背の高い細いグラスを三つ、執事が運んでくる。 執事がすぐ側まで来た時、執事にだけ聞こえる小さな声でマヤは言う。 「ありがとう」 「あなたの願いであれば、私は何でも叶えます。ここはそういう場所です」 執事のその穏やかで静かな声は、ローズピンクの液体とともにマヤの体の奥へと堕ちていった。 08.31.2009 |
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