第6話
「まったくあんた、急に呼び出すから、母さん着てくる服にも困っじゃないか」

真っ先に口をついて出てくる母親らしい文句。けれどもそれは決して棘のある種類ではなく、まるでそれが母親の特権であるかのような調子であるから、そんな文句さえもヤは愛おしく思う。

「速水さん、この子はいつだってそうなんですよ。急にいろんなことを前の日に言い出してね、やれ明日は授業参観だ、明日は三者面談だって。こっちは仕事もあるから急にそんな言われても行けないってもんですよ。
まぁ……、それで辛い思いをさせたこともあったね」

そんなことを春の口から聞いたのは初めてだ。確かに学校の行事に母を呼ぶのはいつも憚られた。それは言うことを忘れていたわけでは勿論なくて、母子家庭である北島家では、家計のすべて、家のすべてを春が支えていたのであって、学校の必須行事とはいえ、そのことで春が例えば仕事を休む羽目になり、店の者に迷惑がかかる事が分かりきっていたからだ。渋々前日になって、それを春に告げると、文句ばかり言われて怒られたものだが、それに対して春がそんなふうに思っていたなど、全く知らなかった。

「ほら、なんだっけあれ……、学校の文化祭にあんたが出たのも、母さん見に行ってやらなかったね」

そう言って白い皿の上に、春は視線を落とす。遠い昔に言い忘れた言葉を探すように。

「わるかったね……。あれはあんた、ちゃんと母さんに言ってたよね。見に来て欲しいって、弁当持って見に来て欲しいって。なのに母さん、あんたがみっともない役やって笑われるのかと思うと、耐えられなくて見に行ってやれなかったんだよ、わるかったね……」

――ビビ……。

初めて舞台で演じた役。
笑われ者でお馬鹿さんのビビ。
けれども生まれて初めて、役の心を想像することを教えてくれた役。
もう思い出すこともないと思っていた、あまりにも遠い記憶が一気に押し寄せてきて、マヤは堪えるようにナイフとフォークを握ったまま目を瞑った。

「大事なあんたの初舞台だったのにねぇ……」

そう言って悲しみが薄く均等に表情に沁み込んだような笑顔で、春は笑った。
心の底辺にずっと沈んでいた遠い記憶。辛い思い出の一つとして封印されていたそれが、少しだけ軽くなって底辺から浮上する。

「君の初舞台か、俺も見たかったな」

テーブルクロスの上に広がりかかった悲しみの染みをそっと拭うような真澄の一言で、マヤは顔をあげる。目を合わせると、真澄は穏やかに一度だけ頷いた。

(君の気持ちはすべて分かってる)

そう言われたような気がして、救われた。

「春さん、彼女の狼少女はご覧になりましたか?」

さらに明るい声へと真澄は声音を着替えると、春が見ていないという数々のマヤの舞台の話をし始めた。

「狼少女はそれはそれは、恐ろしかったですよ。私なぞ、本気で噛まれましたからね、一度」

「まぁ!育てた親の顔が見たいねえ、人様に噛みつくなんて!」

「育ての親って……、母さんでしょ……」


「アルディス王女を演じた時は、可憐なお姫様の登場に誰もが心を奪われたものです。絶世の美少女でしたよ」

「この子が?お姫様?はっ!冗談でしょうがっ」

「母さんっ!!」


そんな楽しい会話がいつまでも続いた。白いテーブルクロスの上に次々と順番に運ばれるディナーの間中、途切れることなく、そんな夢のような会話を楽しんだ。

春と真澄と三人――。

それはあるはずのない光景であり、起こるはずのない奇跡だった。けれども今自分は確かに、真澄と春が座るテーブルでこの二人との会話の中に身を委ね、そして間違いなく幸せを感じていた。穏やかで、満ち足りたありふれた幸せを……。

自分の愛する人を、たったひとりの家族である母親に会わせたかったというごく平凡な、けれども自分にはもう決して叶えることができない願い。

芝居を選ぶことによって、母親を捨てたという自らの暗い過去。

そして運命の歯車が狂った結果、愛する人が背負ってしまった春の死という十字架。

長い間自分を苦しめてきたそれらが、マヤの中でゆっくりと浄化されていくのをマヤは感じる。それは消えてなくなっていくというよりも、苦しみの塊だけだったそれらに、新しい物質が加わることによって、穏やかに中和されいくかのようだった。黒いものにどれだけ白を加えたところで、完全に白に戻すことはできないし、それを自分は望んでいるわけでもない。けれども限りなく白に近い、薄いグレーに例えられる心に残ったそれを、穏やかな感触のものとして、心地のよい感触のものとして、マヤは受け入れる。


想い出の色が変わった。
はっきりと、そう認識する。











食後のコーヒーが運ばれる頃、膝の上の白いナフキンを何度も畳み直しながら、春が何かを言おうとしていることにマヤは気づく。
決心したように、静かにナフキンをテーブルの上に置くと、春は今までとは違う強さでマヤを見る。

「母さんね、あんたのことちゃんと見ているから。いつだって見ているから、しっかりやりなさい」

突然の春の言葉が喉を押し上げる。痛みすら持って、押し上げる。
口をきつく閉じたまま、マヤは無理に唾を飲み込むようにしてそれを押し戻す。

「速水さん、私はあんまりこの子を褒めてやったり、可愛がってやったり出来なかったんでね、あなたが褒めたり、かわいがったりしてやってください」

「……はい」

真澄がゆっくりと、深く頷く。
その様子がマヤの喉を押し上げる魂を更に大きくする。

「器量は悪いは、頭も悪いは、その上料理や家事も大して教えてやれなかったから、ほんとに女優以外に何の取り柄もない子ですが、素直で優しくて、かわいいとこもあるんですよ」

「ええ、知ってますよ」

真澄は穏やかな笑みで、そう答える。

「だからあなたが、うんと可愛がってやってくださいね。お願いします」

そう言って、春は首を折るようにして、真澄に頭を下げた。そして俯いたまま春は何度も頷いた。これでよかった、これでよかった、まるでそう自分に言い聞かせるかのように。
溢れだした涙を拭おうとハンカチを探す春に、真澄がそっとハンカチを渡す。
すみませんね、と言って素直にそれを受け取った春が、真澄のハンカチで涙を拭う様子をマヤは失ってはいけない映像を見るように見つめる。


終りが近付いていることを悟る。
きっと春はもうすぐ姿を消すのだろう。
そして、今度こそ二度と会えなくなるのだろう。


「お母様のお車が参りました」

執事のその一言で、それは確信に変わる。
真澄にことわって、マヤは春を車寄せまで送る。
ごくありきたりなタクシーが一台、門の前に止まっていた。けれどもこのタクシーに乗ってしまえば、春にはきっともう二度と会えなくなる。

「母さんっ――」

堪えきれずに、マヤはその胸に飛び込んだ。
母親の胸の中で泣いたのなど、何年ぶりか、思い出せもしない。そんなことよりも、胸に溢れるように沸く想いといえば、この人の子供でよかった、この人にもう一度会えてよかった、そればかりだ。
なだめるように背中を叩く、優しい手。

「母さんちゃんと見てるから。いつだってちゃんと見てるから、心配しないで、あんたはあんたが思ったとおりの人生を歩いていきなさい。頑張るんだよ」

そう言って、ゆっくりと肩を持って引き離される。
わかったと返事をする代わりに、しゃっくりを堪え、大きく頷いて答えると、擦れる声で必死に伝える。

「母さん、ありがとう……」

それが自分が春に言った、最後の言葉だった。


春が乗ったタクシーは、あっと言う間に夜陰にのまれ、暗闇の向こうへ消えていった。おそらくもう二度と会えない場所へ……。


しばらく何も見えなくなった夜陰を見つめた後、マヤはゆっくりと振り返る。視線の先、館の入口には執事が静かに佇んでいた。

予想はしていなかったが、驚きもしなかった。この執事はいつだって、然るべき時に然るべき場所にいるのが当然の義務であるかのように心得ているのだろう、とマヤはなかば降参にも近い想いで執事を見つめる。

「あの方のハンカチは、あなたのお母様が持って行かれてしまいましたから」

そう言って、マヤに白いハンカチを差し出す。
素直にそれを受け取ると、マヤは弱々しいが、それでも全てを内包したような穏やかな笑みを浮かべて執事に言う。

「あなたが言ってたこと、今ならわかる。
大切なのは幻想か現実か、その答えじゃなくて、私の心で感じたことが全てってことでしょ?今、ここにあるこの想い出は、私だけのもので、それこそ真実だってことでしょ?」

執事はまっすぐにマヤを見つめ返すと、静かに目を伏せ頷く。

「ええ、その通りです」

「私の心の中には、母さんがいる。いつも私を見ていてくれる母さんがいる。それで、いいんですよね?」

その問いにも、執事は同じように静かに一度頷いて答えた。
その様子にマヤはすべてを納得させるように、安心して心に去来する全てのものを呑み込んだ。

「さぁ、あなたの恋人が待っていますよ」

そう言って、白い手袋の指先がそっと背中に触れ、薔薇の館へとエスコートする。
再び自分は、この幻想の館の中へと吸い込まれていく。愛する人が待つその場所へ。

そして残された時間は、あとわずか。
そして残された願いは、あと一つ。

「最後の願いは決まりましたか?」

まるで心の中を覗かれたかのように、幻想の中の現実とも言えるその声が、自分を呼んだ。









09.05.2009


…to be continued








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