第7話
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「NGはないんですか?」 「NG?」 訝しげな表情で執事が振り返る。この男が何かしら想定外に立ち止まる瞬間というのは、まるで空中で蝶が静止するような非現実感があった。 「えっと、だからあの……、お願いしちゃいけないことみたいな――」 ああ、とようやくそこで合点がいったように、執事は表情を緩める。空中で静止していた蝶が動き始める。 「一つだけあります。叶わぬ恋の相手と、現実に結ばれるのを望むことはできません。それだけは、叶えられません」 濁りのない透き通った声は、美しい分、心の無防備な場所に真っ直ぐに突き刺さる。 「そ、そうですよね……。それじゃぁ、ズルですよね……」 分かりきっていたことであるはずなのに、今さらこれが非現実であることを早く来すぎたエンディングのように突きつけられ、ひきつるあまりに裂けてしまった心の皮膚の間から、思わず乾いた笑い声をあげる。 「この世界でしか叶えられないことですよね……」 確認するようにその言葉で自らの乾いた笑い声を引き取った。 「限定する必要はありませんよ。現実か、幻想か、この世界か違う世界か、決めているのはあなたの概念だけで、あなた自身はどこまで行ってもあなたでしかありませんし。あなたの心も一つしかありません」 「なんか、頭がクラクラしてきちゃいます」 執事の言葉を追っていると迷宮に誘い込まれそうで、マヤは思わずため息をあげる。 執事は柔らかく苦笑する。青い蝶がゆっくりと羽を動かすような、密やかな笑み。 「すみません。私の言葉は難しく響きますか。抽象的なことばかり言って、あなたを惑わすつもりはないのですが……」 彼が悪いわけではもちろんない、そう言う代わりにマヤは慌てて小さく頭を振った。 「怖いんです……」 「怖い?」 再び青い蝶がわずかに羽を震わせる。 「はい……。あまりにもこの世界にはまり込んでいる自分が……」 「あなたの心で感じたことが真実だとしても?」 「それは分かっています。ここが、幻想か現実かの答えを求める場所ではないということも。ただ、あまりにもこの世界で起こることが自然過ぎて、まるで本当のことみたいで、どんどん依存していっている自分が怖いんです」 言ってもしようがないことを言っていると自分でも思った。そんなことは最初から分かり切っていたことで、願い事を二つもすでに叶えてもらった自分が、今更何を言うのか、そう叱責されてもおかしくないと痛いほどに分かっているだけに、執事の次の言葉までの沈黙が肌にのめり込む。 「忘れればいいのです」 あまりにもあっさりと落ちてきたその意外な言葉の軽さに、マヤは驚き俯いていた顔を上げる。 「これは本物だと思いこむのではなく、これが本物でないことを忘れればいいのです」 その言葉はマヤの聴覚の一番上の網の上に引っ掛かり、異物のようにしばらく留まる。 ――これは本物だと思いこむのではなく、 これが本物でないことを忘れればいいのです―― その意味を理解するまでの間、形を持たないはずの『言葉』が煙となってマヤの目の高さを漂う。 「あなたの心の想うままに、全てを委ねるのです。あなたとあなたの目の前にいる恋人こそが全てです。彼と過ごせる時間を、一分たりとも無駄にしてはいけません。薔薇が咲く時間には限りがあるのですよ。全てを忘れ、全てを受け入れなさい」 執事のその言葉が、体のあちこちに散らばっていた神経をゆっくりと束ねていくのを、マヤは意識の奥で感じる。 目を閉じてもう一度、胸の中で先程の言葉を繰り返す。 ――これは本物だと思いこむのではなく、 これが本物でないことを忘れればいいのです―― ゆっくりと目を開くと、煙は消えた。 「あなたの言う通りです」 穏やかな笑みが、自然と顔を覆う。もう迷う場所に自分はいなかった。 かけがいのない時間。 二度と取り戻せない時間。 全ては例えようのないほどに、自分にはあまりにも大きな意味を持つ大切な時間。 その時間に依存するのではなく、その時間を自分は受け入れるべきだったのだ。今そこにあるものとして……。 席に戻る前に、両手の手のひらを顔に何度も押し当て、顔を整えた。泣いたことなど、決してわからないように。 「いや……」 そういって真澄の視線が、自分の表情を追っているのを感じながら、それでも目線を合わせずにマヤは席に着く。 「泣いたのか?」 たった一言、たったそれだけの言葉だというのに、体の奥まで、心の奥まで一瞬にして掻き混ぜられた錯覚に陥る。 否定の言葉の代わりに頭を素早く左右に振って、それに答えたつもりだが不自然な動きになり上手くいかなかった。 「寂しいとか、悲しいとか、そういうんじゃないの。そうじゃないの。ただ……」 そこで真澄を目を見るために顔を上げる。 「速水さんと母さんと三人で食事できるなんて、そんなこと出来るわけないって思ってたから、ほんとに嬉しくって、それで……、それで胸がいっぱいなの」 涙の理由は、それが全てではなかったが、それが嘘でもなかった。 そうか、と言いながら真澄の手が涙の跡を拭うように、頬を包む。その指先にそっと自分のそれを重ねる。 そうしているだけで、心の温もりまで伝わりあうようで、途方もない幸せを感じる。 そうやって全てを受け入れればいいのだと、マヤはもう一度確かめるように思った。 「ここが君の部屋か」 二階の一番角、廊下の先がそれ以上ない場所で二人は行き止まる。 「は、入りたいですか?」 そんなことをどんな声で、どんな顔で言ったらいいのか分からず、用意できていなかった声が思わず裏返る。 「入れてくれるのか?」 どこかおどけたような真澄の声。 「ど、どうぞっ!」 そういって鍵穴に、あの銅色のキーを差し込もうとすると、 「遠慮しておくよ」 余裕のある声が背後に聞こえた。振り向いた自分の顔には、おそらく軽い失望と驚きの表情が、そのまま張り付いていたであろうとマヤは思う。振り向きざまに額に短いキスを落とされる。 ハイ、ソコデオシマイ。 そう判を押されたようで、思わず言葉がこぼれおちる。 「薔薇を……、薔薇をみませんか?」 真澄が訝しげに口角をわずかにあげる表情で、その真意を問い返す。 「あの……、執事の方が私の部屋を紫の薔薇でいっぱいにして下さっているんです。凄い、綺麗なの――」 そう言って、ドアの鍵を開け扉を開け放つ。部屋の一番暗い照明をつけ、紫の薔薇が部屋中に浮かびあがるのを確認し振り返る。 「ね?凄いで――」 言い終えないうちに、一気に真澄の影が自らを包むように視界が遮られたかと思うと、抱きすくめられる。その圧倒的な存在感を持つ背中の向こうで、扉が閉まる音が聞こえた。 「馬鹿だな、男を部屋に入れたらどうなるか、君は分かっていないのか」 「ば、馬鹿は速水さんです!私がいったいどんな想いで、さっき『入りますか』って――」 「シーーッ」 マヤのその精一杯の抗議を抑え込むように、マヤの唇に人差し指一本で真澄は鍵をかける。鍵をかけられた唇に、今度は魔法がかけられる。 堕ちてきた口づけには、確かに媚薬の香りがした。 一瞬にして熱を持った自らの体から、薔薇の香りが立ち上る。つけたての香りとは確かに違う、女の体の中で熟成された香りが。 「いい香りだ――」 首筋の匂いを嗅がれ、そして今度はその皮膚へと口づけられた。瞬時に体中に細波が立つ。細胞が目覚めたかのように。 そしてゆっくりと、ゆっくりと、繰り返し首筋に愛撫を受ける。皮膚の上に残る様々なもの、例えばそうなることへのためらいとか、わずかな抵抗と羞恥心を持つ自らの幼さとか、そういったものがゆっくりとやすりをかけられ、こすり取られていく感覚。 息が震える。 上着の上から必死でつかんだ真澄の腕に、きつく皺が入った。 パープルブルーの薄い絹地のドレスの肩紐に、真澄が指をかける。その位置を僅かにずらすと、そこへも口づけられた。またやすりがかけられたような感触がマヤの体中を走る。 喉元から胸元に真澄の指先が滑り落ちていく。 「地図のようだ」 目を幾分細めて、あらわになった自らの胸元を見つめる真澄の口から意外な言葉がこぼれ落ちる。 「地図?」 「薄緑色のこれ……、この静脈が河のように走っている」 そう言って、真澄の美しい指先が静脈をなぞる。血がドクリと音を立てた。 「綺麗だ」 その言葉が、僅かに残った理性の膜を裂こうとする。 そして静脈の上を辿るように、真澄の口づけと熱い湿った吐息が交互に這っていく。 理性の幕が破れた。 全てを差し出すように、マヤは地図上の河と真澄が例えた静脈が走ったその胸元をあらわにし、背中に回された真澄の腕だけを頼りに、身を仰け反らせる。 伸びた白い首筋に、万ものキスを浴びせられる。 細い肩紐が外され、衣ずれの音とともに、パープルブルーのシルクのドレスが足元へと落ちた。 薔薇の香りが強くなる。 自らの体から沸き立つ、薔薇の香りが……。 マヤの体内で、今まさに一本の薔薇が咲き始める。 想いは薔薇に宿り、 やがて忘れ去られるために咲き誇る その一夜と引き換えに、 そして恋は永遠の眠りにつくだろう 09.13.2009 |
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