地上に堕ちた星 1
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”誕生日には花を買って……”
通りすがりの花屋の店先のポスターにふと目が止まる。人気の有名タレントが、一輪のバラの花を両手で持ち、長い睫を伏せたままそっと匂いをかいでいる。 なぜ、そんななんの変哲もないポスターが目に付いたのか、自分自身を訝しく思いながら、聖は通り過ぎる。しこりのように胸に残った違和感の謎が解けたのは、その日の午後のことだった。 「うっそ〜〜!誕生日、アンタ無視されたの?」 「プレゼントもなし?デートもなし?電話もなしぃっ?!」 「ダメダメダメダメ、それ完全、都合のいい女だ。ありえない、ありえないよぉぉぉ!」 仕事の合間に出来てしまった、1時間という隙間を埋めるために座ったカフェで、聞くつもりはなくてもその甲高い声は、聖の耳に飛び込んできた。人と目を合わせたくなくて、カモフラージュのために広げていた新聞から少しだけ目線をずらし、声のしたほうを見る。 若い女が3人。叫び声は、どうやら真ん中で俯く、白いワンピースの女の左右に座る二人のものだったらしい。 一面がガラス窓になった店内は、明るい日差しが差し込むが、暑さはもちろん遮断され、灼熱の8月からは隔離された涼しい空気がそこにはある。 「やっぱ、そうかなぁ。忙しくたって、これはないよねぇ……」 白いワンピースの女が今にも泣き出しそうな声でそういうと、右の赤いチューブトップの女は大袈裟に長い髪をかきあげ、諭すように止めを刺す。 「しかも、1週間もフォローなしだったら、もうそれは、完全アウトだよ」 左のモスグリーンのキャミソールの女は、アイスコーヒーのストローを口に咥えたまま、それにただ頷く。 「分かった、別れる……」 震えるその声から、目を背けるように、聖は新聞の向こう、窓の外の眩しい緑の間に目を泳がせた。 聖は杏樹の誕生日を知らなかった。 だからと言ってそれが問題だ、とは思わなかった。そんな短絡的な判断は、いくら恋の病に冒されているという自覚がある聖でもしなかった。 そもそも、あの杏樹に誕生日というものが存在するのか、そこからして疑問だった。以前言っていた ”206歳” という年齢が本当だとすれば、206年前のある日に誕生日があるということだろうか?そもそも、天使に誕生日など……。 そこまで考えて、聖はもう慣れたとはいえ、現実離れした場所を浮遊する自分の思考に苦笑する。嫌になるほど、現実の世界で現実的な問題をいくつも処理しながら日々暮らしている自分が、天使の誕生日についてあれこれ思いを廻らせる。もしも、誰かに思考を覗かれたら、ありえない、と笑われるだろう。 例年より遅い梅雨明けとなった今年は、暑さにまだ慣れて居ない体が、ここ数日で急上昇した温度についていけない。カフェの回転扉をくぐると、外は灼熱の暑さだ。車を近くの地下駐車場に入れておいたことに、聖は軽く安堵しながら、コンクリの階段を降りる。 清算機の前まで来て、ふと思いつく。 ”もしも、誰かに思考を覗かれたりしたら……” もしもではなく、いつだって自分の考えてることを、覗ける人物が一人いた。今、自分が疑問に思っていることを念じてみれば、その人は答えてはくれまいか?甘い期待が、胸に疼く。 (杏樹さん、あなたの誕生日はいつですか?) そう心のうちに唱え、聖は清算機にコインを落とす。 ジジジッと機械が反応する音が聞こえ、清算済みのチケットが弾き出される。右上に黒く印刷された数字に目がとまった。 ”810” 処理番号でしかありえないそれに、なぜかひきつけられる、チケットの角を指で弾きながら、黒のジャガーを止めた場所まで辿り着くと、それは確信に変わる。 ”A810” 黒のジャガーの駐車場所の番号が、コンクリの上に白く太く記されていた。 246を突き抜ける黒いジャガー。薄いサングラスの向こうには、トーンを落とした青山の街路樹が広がる。おかしいほどに高揚してしまった気持ちが、ハンドルを握る指先にまで伝わる。 8月10日は、三日後に迫っていた。 8月10日が本当に杏樹の誕生日である、という証拠などどこにもない。思い込みだけによる、とんだ勘違いの可能性のほうが、この場合客観的に見れば、高かっただろう。けれども、 ”恋人の誕生日” というその甘い響きにすっかり心を奪われてしまった聖にとって、事実の信憑性はすでに二の次になってしまっていた。 ジャガーの左右の窓から、青山の景色が流れていく。ふと、今朝方見た花屋のポスターのコピーが蘇る。 「誕生日には花を買って……」 (そうだ、花を買って……) 自然と頬が綻んでしまう一方で、聖は愕然と思い当たる。かつて、仕事の上で、もしくは仕事から派生した成り行きで、何人もの女と後腐れのない関係を持ってきた。けれども、一度たりとも誕生日を祝ってやるような相手は、過去の自分の人生には居なかったのだ。 あの日、影として存在することを宿命付けられ、世の中の彩りの一切に背を向けるようにして生きてきた。感情のコントロールに関しては、誰にも負けない自信があった。ことに、恋愛などという種類の感情は、あまりにも遠い昔の出来事で、思い出すことすら困難だ。そもそも、それが愛や恋と言える種類のものであったのかさえ、今となっては疑問である。 一台前を走る、白のTOYOTAが右折のため、減速する。信号が変わり、ジャガーは交差点に捕まった。なんとはなしに、ハンドルを指で叩きながら見上げたビルの最上階の特大宣伝広告。 息が止まる。 オールヌードでダイヤモンドのネックレスを一粒だけ身に纏ったスーパーモデルのポスター。ダイヤモンドの老舗として有名な、高級宝石ブランドのロゴがそこに重なる。キャッチコピーは ”地上に堕ちた星” 古くから、ダイヤモンドは”地上に堕ちた星”と形容されることがあったと、昔どこかで読んだ気がする。 (地上に堕ちた……) その言葉を聖は、無意識にもう一度口内で転がす。 聖にとって、杏樹はまさに”地上に堕ちた星”だった……。 「ありがとうございました」 紺のスーツの店員に見送られ、ご丁寧に黒服のドアマンにまで見送られ、ペパーミントブルーの小さな袋を手に、聖はその店をあとにする。 宝石を買ったのは初めてのことではない。仕事を円滑に行うための軽い投資として、そういえばいくつかの光物を用意したこともあった。けれども、どこで何を買ったか、それも思い出せない程度のことだった。 我ながら呆れる。 行動の早さに……。 (愛する女の生まれた日に、星を買う) そんなことを呟くと、聖は苦笑する。完全に酔ってしまっている自分に、苦笑する。一体、どうしたのか?自分は何をやっているのか? 「買ってしまったんだ」 そんなふうに言って、キャラメルのおまけでもあげるような気安さで、それを杏樹に渡すことが出来たのであれば、全てはかわいい笑い話ですんだ。恋にイカれた、一人の天使に溺れた男の笑い話に。 けれども、事実は少しも面白くも、笑えるものでもない、と急に覚めてしまった頭の一隅で、聖は思う。 聖は、それを杏樹に渡す術を知らない……。 そもそも、本当に今日が誕生日であるのか、そんなことは誰にも確かめられない。 それを買うまでは、ここ数日、思いつきで始まったことではあったが、想像するのが楽しかった。杏樹に似合うものを、喜ぶものを想像する、そんな気持ちは初めてで、誰かの喜ぶ顔が見たいなどという感情に、胸を潰されそうになるなんて、かつての自分にはありえないことだった。しかし、その一方で、人間として、男として、持つべき感情が、自分にはなかったのではなく、どこか奥深く、自分でも手の届かない場所にあったことを、聖は自覚されられる。そして、それを目の前で絵を描くように見せてくれたのが、杏樹だった。 彼女でなければ、全てはありえないこと、そう思いきれるほどの強い抗えない力に、聖は屈する以外に術を知らない。 抱きしめたいときに、抱きしめることも出来ず、その唇に熱い吐息を被せたくても、見ることすら出来ず、そしてどれほど自分が恋焦がれていても、その想いを告げる術も知らない自分は、その抗えないほどの力の前に、ただ無力になる。 『時々は言葉にして……。時々は、そうやって今みたいに、口に出したり、書いたりして、形にして……』 七夕の夜に叶った束の間の逢瀬のあとに、杏樹が呟いた言葉が蘇る。杏樹には自分の考えていること、そう、今まさにこの瞬間、この胸の中に渦を巻くこの気持ちさえ、見えているかもしれない。 けれども、ただ願うだけでは、想いは叶わないことを聖は知っている。その一方で、願い続ければその人はいつも願いを叶えてくれることも、聖は知っていた。 軽く小さく息を吐くと、取り出した白い紙に、ペンを走らせる。 ”もしも、今日があなたの生まれた日であるというのであれば、地上に堕ちてきてはくれませんか?” 言葉は、それ以上もそれ以下も、見つからなかった。それだけ書き終えると、小さく最後に「唐人」と署名を残し、その白い紙を折る。 悩んだ末に、246の歩道橋の上に登ると、ゆっくりと目を閉じる。セミの声が一層、うるさく脳に響く。 祈りを捧げる。 それが、その人に届くよう、 それがその人の元まで、 翼を持った想いとなって、辿り着くよう……。 白い紙飛行機が、八月の風に舞う。 時刻はすでに夜の8時を回っている。 6時過ぎにどうにも一人で居ることに耐えられず、渋谷の宮益坂にある飲み屋に入るが、普段は静かなのその店もその日に限って、小うるさい団体客に陣取られ、聖は早々に席を立った。皮肉にも、そのグループもメンバーの一人の誕生日を祝うために、集まったようだ。何度となく耳に刺さった、 「お誕生日おめでとう!」 の掛け声が、複雑に胸に響く。 杏樹の誕生日が今日である保障など、どこにもない。全ては自分の思い込みと早とちりが招いた、悲しい勘違いなのかもしれない。 そして、たとえ今日が本当に杏樹の誕生日であったところで、一年に一度しか、そう、来年の六月まで会えないはずが、偶然にも七夕に会うことが叶った、その一ヵ月後にこうしてまた会おうなどというのが、そもそも虫のよすぎる話なのかもしれない。 渋谷の雑踏に背を向ける。 溢れかえる駅前の人ごみを逆走しながら、聖は不思議に思う。これほど沢山の人間が今ここに存在するというのに、自分にとって大切な人間は誰一人としてこの中に居ないということ、そして自分を必要としてくれる人間もこの人の渦の中には、一人もいないということ……。 台風一過で湿度が上がりきった、うだるような暑さが支配する、八月の二度目の日曜の夕刻、聖はひどく孤独を感じた。 らしくないほどの、孤独を……。 01.31.2003 …to be continued |
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