地上に堕ちた星 2
 マンションに辿り着くと、灯りのついていない窓に、分かっていたことだが落胆する部分がまだ自分の心に少しは残されていたことに、諦めの悪い奴だと、自分で呆れる。
 機械的に、ドアのロックを解除し、玄関の扉を開けた瞬間、予告なしに心臓が掴まれる。

 華奢な白いピンヒールのサンダル。

 慌てるあまりに、すねをどこかにぶつけてしまったが、痛みを感じる余裕などどこにもなくて、そのままリビングへ突入する。

「おそ〜〜〜いっ!もう、ケーキ一人で食ってやろうかと、思ってたわよぉ〜!」

 少しも怒ってなどいない、少しもすねてなどいない、ただ優しいだけの、ただ愛しいだけのその声が、リビングのむこう、仄かなロウソクの明かりの向こうに見えた。

「唐人が買ってきてくれないから、自分で買ってきちゃったよ。やっぱ、誕生日にはショートケーキでしょ!あ、パソコンの横にあった2000円借りちゃったから」

 言葉が出ない。突然の幸福と、突然の興奮に、言葉が何も出てこない。
 フローリングの床の上に、長い足を邪魔そうに曲げてぺたりと座っているその人は、嬉しそうに順番にケーキのロウソクに火を点す。

「どうしたの?お祝いしてくれないの?」

 分かっていて、そんなことを言う。いつだって、その人は自分より何枚も上手で……。

「一緒に消そっか」

 大きな美しい瞳には、ロウソクの炎が揺れ動いている。聖はかすかに頭だけで頷くと、ケーキを挟んで杏樹の向かい側にそっと座る。

「せ〜のっ!!」

 杏樹の子供のような無邪気な掛け声を合図に、ロウソクの火が消える。その瞬間、交わるロウソクの炎よりも熱い吐息。
 一向に弱まることを知らない、その情熱の塊に、杏樹の方が先に悲鳴をあげる。

「や〜〜っ、もう、ケーキ踏んづけちゃうよぉ」






「ごめん、ごめん、ほんっとにごめん!」

 言葉ではそう謝っていても、杏樹のその声には、堪えきれずに笑いが滲む。

「すっかり、忘れてたよ〜。唐人、生クリーム、ゲロ吐くほど嫌いだったんだよねぇ〜。すまんぬっ!」

 無理矢理口移しで、ショートケーキを食べさせられた聖は、何度も水でうがいをしても、眉間から皺が離れない。けれども、そんなことも、もちろんポーズの芝居であって、杏樹から食べさせられるのであれば、吐くほど嫌いな生クリームをバケツ100杯だって構わないとまで、本気で思っているぐらなのだ。

 ただ、恋人の時間に酔う。

 そんなまどろみと、ブランデーを含みすぎたケーキのようなこっくりとした時間が流れる。
 意味のない小さな喧嘩をすることも、拗ねた恋人をあやすことも、わざと脹れたふりをすることも、全てが望まれた、待ち焦がれた、恋人の無駄な時間だった。

 何度も食べているところを聖に邪魔され、すでに原型をとどめない残骸になってしまった、ホールのショートケーキのイチゴを摘み上げると、杏樹は口に咥える。

「イチゴは?イチゴも、吐くほど嫌い?」

 挑発するように、笑いながら、咥えたイチゴの先端を上向きに、聖に向ける。

「吐くほど好きですよ」

 聖のその言葉とともに、イチゴも唇も一瞬にして奪われる。激しいキスに、紅いイチゴの飛沫が白いシーツに飛び散る。

「甘いシミがついちゃったよ」

 唇のまわりを誘うように舌で丁寧にぬぐいながら、杏樹は言う。確信犯のように。
 そんな愛しい口を塞ぐように、貪るように、聖は自らのそれを杏樹の唇に重ねる。

 吐くほどに甘い時間は、終わりがあるからこそ、急速にその濃度を増し、密度を上げ、刹那的に上り詰めていく。それは、欲望と愛情それぞれが、異様なまでに高まり、そして互いに相手もそうだと伝わるために、空気全体が、にわかに高揚していくのだ。息も出来ないほどに。
 終いには、口も聞く余裕もなくなり、体中が酸素を欲するほどに体の機能が麻痺し、壊れ、そして抜け殻のように、二人は横たわる。

 満ち足りた、穏やかな、果てに……。  






「いわしの缶詰みたい」

「え?」

ただ、ベットの上で、ぴったりと寄り添い、言葉もなく杏樹の髪の間に空気を入れるように、滑らせていた聖の指が止まる。

「こうやって、唐人とぴったりくっついてるの、いわしの缶詰に似てるなって」

 ”いわしの缶詰”という唐突な言葉に、その絵を想像してみるが、なんとなく分かる気がして聖は小さく笑う。

「煮過ぎて、骨抜きなところなど、ぴったりかもしれませんね」

 そう言って、いわしの缶詰のようにくっつきながら、杏樹の髪の間に一つキスを落とす。

「今日が本当に、誕生日だったんですか?」

 ずっと、聞きたかったことを静かに、言葉にする。髪を梳く手を休めずに。

「ホントだよ。207年前の今日、天使になりましたっ」

 生まれたと言わずに、”天使になった”ということに、どこか引っかかりを覚え、髪を梳く手が少し止まる。

「207年前にね、あたし、25で死んだのよ」

 それは、いつものように、本当にあっさりと、突然に聖の耳を静かに殴打する。

「人間だったの。普通の。純情可憐な」

 茶化しているのか本気なのか、図りかねるような声だが、それが本気であることは、聖にはよく分かる。

「それで、天使になったんですか?」

「まぁ、そうなんだけど。っていうか、あたしね、死にたくない、死にたくない〜〜!って大騒ぎして、天使を困らせたらしいのよ。あたしを、迎えに来た」

「なぜ?」

 聞いてはいけないことを聞くことになるのでは、と一抹の不安が聖を襲うが、すでに言葉は口を突いてでてしまったあとだった。

「あたしね、その日結婚するはずだったの」

 どれほど抑えようと思っても、その瞬間、ドクリと心臓が大きく音を立ててしまったのは、ぴたりと自らの胸の位置に背中を寄せた杏樹に伝わってしまっただろう、と聖は薄く自覚する。

「こんなにあたしのことを愛してくれる人を置いてなんて、行けないって、もうぎゃ〜ぎゃ〜大騒ぎしてさ、そしたら神様が、だったら一生懸命働いて天使になれ、って。そしたら、その人が死ぬまで天使として側に居てあげられるし、その人が死ぬ時も自分が迎えに行っていいって言われてね。
で、必死に修行して天使になりましたとさ」

 爪を噛むくせなどないはずなのに、杏樹が左手の親指の爪を噛むので、それを優しく止めながら聖は言う。

「今その人は、どこに?」

 嫉妬などという言葉では済ませられないほどの不安と、自分はかけがえのないものを失うことになるのではという恐怖に、聖の声はかすかに震える。

「天国に居るよ〜」

 聖の息が一瞬、止まる。

「あたしが死んだあと結婚した奥さんと、幸せ〜に暮らしてる。結局その人、そのあと2回生まれ変わったんだけど、2回ともその奥さんと結婚してさ、結局あたしってば大貧乏くじ。運命の相手でもない人に一生捧げちゃって、大騒ぎしてさ、んでもって、もう二度と人間にも生まれ変われないんだから、あほだよねぇ〜」

 そこまで聞いて、聖は思わず肩で息をつく。そして、杏樹が喋っている間中、自分は息を詰めていたことに気付く。  急に杏樹がくるりと体の向きを変え、聖の胸に顔を押し付ける。

「だから、もう恋なんて絶対しないって、絶対、絶対しないって、そう決めてたのに。 なのに、二百七年もたって、おんなじ間違いしようとしてるかもしれない。あたし、馬鹿かもね、ほんとに馬鹿かも……」

 どんな愛の告白よりも、それは堪えたかもしれない。聖は、薄く震えている、自らのその胸の中の存在を、ただ抱きしめる。それだけでは足りない気がして、さらに強く抱きしめる。けれども、まだまだぜんぜん足りない気がして、心からこぼれた言葉を口にする。

「同じ間違いなわけがない。こんなに、私があなたを愛していることが、間違いであるわけがない。わたしよりもあなたを愛する人が、過去にも未来にも、いるわけがない」

 大きな声でも、乱暴な声でもなかったが、激情がほとばしったその声に、杏樹は体中が痺れるのを感じる。愛されることへの抵抗と、愛することへのためらいが、しびれた体の中からゆっくりと溶け出す。

 ベットの脇に無造作に脱ぎ捨てられたジャケットに聖が手を伸ばす。薄い暗闇の中で、そのポケットを探り当てると、ペパーミントブルーの小さなヴェルベットの宝石箱を取り出した。

「例えば私に戸籍があったとして、あなたにもそれがあったとして、そうしたら私はあなたを”婚姻届”という紙で、縛り付けておくことが出来たかもしれない。
例えば私が、公に人前に出られる存在で、あなた自身も誰の目にも映る存在であったとしたら、誰彼かまわず、二人が愛し合っていることを、言いまわって認めさせたかもしれない。
だけれども、幸運にも……、そう、幸運にも、わたしたちは、そんなものが必要ないほどに愛し合っているのです。 あなたは私のところに堕ちてきた星です。あなた以外は、誰も私の星になど、なりえないのです」

 そう言って、静かに、宝石箱を杏樹の手のひらの上に置く。
 ゆっくりと、杏樹の細い指が、その角の丸い小箱のふたを開ける。

 眩い透明の多角の光が、容赦なく心を揺さぶる。キラキラと、その輝きが胸を押し上げる。

「……ダイヤ…モンド?」

「地上に堕ちた星です。あなたと一緒の」

 聖はそう静かに答えると、そっと小箱からプラチナの指輪を抜き取ると、杏樹の細い左手を手繰り寄せる。かすかに震える杏樹のその指に、ゆっくりと六角形の石をはめ込む。
 ぴたりと自らの左手の薬指に納まったそれを、見ながら杏樹は、訝しげな声を上げる。

「サイズ、どうやって調べたの?」

 知ってるくせに、と聖は苦笑する。

「あなたが教えてくれましたから」

 訳が分からないという顔でこちらを見つめる杏樹に、聖はあっさり堪える。

「これを買いにいったときの駐車場の番号がA7でしたから。七号でしょう?」

「やだ、違うよ、それはあたしじゃない。ホントにあたしじゃないって。だって、あたし、今まで自分の指が七号だってことだって知らなかったよ」

 ふいにおかしな沈黙が流れる。

「あ、神様かな。ねぇ、神様も二人のこと許してくれてるのかもよ。うん、きっとそうだよっ!」

 弾けるような、曇りのない笑顔がようやく輝き出す。
 そうだ、自分はこの人の笑顔を何よりも愛している。この笑顔のためならなんでも出来る。どこからともなく、湧いてくる限りのない、終わりのない、その力の源が確かに愛であることを、聖は認める。

「指輪なんて生まれて初めて。なんか、キンチョーしちゃうよぉ〜。失くさないようにしないとぉ。お〜、怖い怖いっ!ドキがムネムネだわっ!」

 照れ隠しなのか、ふざけた口調で杏樹が言う。

「私も恋人の誕生日に何かを贈ったのは初めてです」

 聖のその言葉に杏樹ははにかんだように笑う。

「マジっ?ほんとっ?めちゃくちゃ、嬉しい!あぁ、もう、唐人大好きぃぃぃぃぃっ!!」

 甘い叫びとともに、その長い細い腕が、絡まるように伸びてくる。
 その指先では、”地上に堕ちた星”が、今、静かに、確かに、輝き出す……。




02.01.2005




<FIN>






1年半前のオフ会の前日に、真っ青になりながら脱稿した気が……。ちょうど杏子祭りの真っ最中で、この他にも”あの夏一番美しい花火”と”暑中お見舞い申し上げます”を書いてたので、かなりパニックではありました。
しかも、これ、半分以上書いたところで、ふと尿意を催し、(院長は膀●が弱い)
”これ以上は我慢できないぜ!”
と、ご不浄に立ち上がった瞬間に、なんと回転椅子の車がめでたく、おパソのケーブルを綱引きしてくださいまして、ブッチン……。
丸々原稿失いました。
だーーーーーーーーーーーーっ!!泣いた、これには泣いた!!
いつかはやると思っていましたが、やっぱりやってしまいましたよ。トホホホホホホ。

ええっと、H&Aにしては珍しいゲロ甘だね。本当はこのあと、杏樹ちゃんが帰るとこまで書こうかと思ったもだが、そうするとまた切なくなっちまって、なんかかわいそうなので、今回はここでオシマイにしておきました。 こんな二人もたまにはいいかな〜っと。
今後、杏樹が結婚式の日に死んだ、という設定を使った話なぞ出てくるので、話が繋がらなくなる⇒まずー、というワケで無理矢理出させて頂きました。
H&Aバナシ、まだまだ続きます♪  






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