好きと言わない恋をする 1

ロープで仕切られた道を無駄に迂回して、空いているディスペンサーの前に滑り込む。
コートの袖口が画面に触れないように気をつけながら、おそらくはもう100回以上は同じ動作を繰り返しているはずの慣れた動作で、4桁の数字を打ち込む。人差し指を平らにして。
画面の上で、人差し指は第一関節のあたりでへこむ。ゆっくりと1から始まるその4桁の数字を打ち込む。


1103


その数字を打つ度に、想い出す。
その数字を打つ度に、想い出したくて、そんな数字に設定した。


ガタガタと機械が震え、お札を数えている音がする。

例えば
お札が吐き出されるまでの時間、
明細が出てくるまでの時間、
通帳記入が終わるまでの時間、

いつもそうやって、マヤは決して好きとは言えない相手の事を思い出していた。
銀行口座の暗証番号を誰にも言えないのと同じように、自分の好きな人のことも、マヤは誰にも言えなかった。


1103


11月3日。
言うまでもなく、それは真澄の誕生日なのであって……。






出てきたお札を財布に押し込め、渋谷の喧騒に出た瞬間、驚いて足がとまりかける。何度見ても見慣れないそれは、スクランブル交差点の向こう、JR渋谷駅の壁面いっぱいに掲げられた自分の笑顔だった。
柄にもなく、自分は片目を閉じてウィンクをかわし、尖らせた唇に人差し指を立てて笑っている。

【好きだと言わせたい!!】

それが今週から始まる新番組のドラマのタイトル。隣のキャッチコピーがさらにとどめを刺す。


――アタシのこと好きなくせにっ――


(ああ、もう、恥ずかしくて死にそう……)

急いでマヤは、身の程知らずにはしゃいでいるとしか思えない自分自身から目をそらすと、反対側の井の頭線口へと急いだ。


毎分ごとに膨れ上がる渋谷のスクランブル交差点。その真上に掲げられた自分のことをここに居る誰もがきっと知っているはずなのに、それが自分だと、今ここでパタパタと急ぎ足で井の頭線に乗ろうとしている自分だとは誰も気づかないことをマヤはおかしく思う。同時に、少しだけ情けなくも思う。

(だから私はダメなんだよ)

そんなふうに。


日本一有名な女優になっても、日本一気づかれない女優、それが北島マヤだった。






紅天女も手に入れた。
その後の仕事は、映画も舞台もドラマも、どれもこれもスタッフにも脚本にも監督にも恵まれ、怖いほどに順調だった。そう、怖いほどに。
それは恐らく事務所の力なのだろうと、そんなことには疎いマヤでも、さすがに分かる。努力をしただけでは報われないことは、自分がよく知っていた。どれだけ才能があっても、どれだけ実力があっても、この世界ではそれだけではやはりどうにもならないことも、学んできた。
今の自分が、女優として”怖いぐらい”に恵まれているのは、やはりこの事務所のおかげなのだと。
そしてマヤをこの事務所に入れたのも、所属後も最高且つ最大の采配を振るってくれているのが真澄であると考えると、全ては真澄のおかげであるという考えにたどり着き、そして途方に暮れる。

大都芸能に所属して1年。

幸せだと思う。
女優としては。

不幸せかもしれない。
女としては。


こんな人を好きになってしまった自分は、女優としてはずっと幸せかもしれないけれど、それと引き換えに女としてずっと不幸せでいることを選んでしまったのかもしれない。
最近、嫌でもそんなことを自覚する。ことあるごとに。
誰にも言えない秘密が、少しずつ自分の胸で重さを増すたびに……。






「北島さんは、好きになったら積極的に告白したり、アピールしたりするタイプですか?」

ドラマの放映開始に合わせて、今週はいくつものインタビューが組み込まれていた。

「え?こ、告白……って、あの、あ、ありえないですね。したことないです。出来ません。無理です、ムリムリ、絶対無理です」

少しはインタビュー中にも”演技”というものが出来る器用さがマヤにもあれば、マネージャーも周りのものも、これほど寿命が縮むこともないのだが、その危うさがマヤの売りでもあるため、いつも綱渡りのようにマヤのインタビューは続く。

「それでは告白は無理でも、今回のドラマの主人公の姫子のように、あの手この手で告白させるように仕向けるなんてことは……」

「それも無理ですよ。そんな自信ないですから〜。あたしなんかのこと、絶対好きなわけないし、好きになってくれるわけない人ですからっ!!」

マネージャーの顔に縦線が30本入る。

「北島さんっ、今好きな人居るんですねっ!片思いなんですねっ!どんな人なんですかっ?!」

あまりにも単純に用意した穴に落ちてくれるマヤに対して、インタビュアーは嬉々として切り込んでくる。

・プライベートに関してはふれない
・本人の恋愛に関しては探らない

これがインタビューを受ける際の条件でもあるに関わらず、マヤは毎回同じ墓穴を同じ場所にご丁寧に掘る。

「ええ?!あの、あの、あの、好きな人って、あの……」

舞台の台詞は一度で覚えられても、自分が10秒前に言った言葉も思い出せないほどに動揺するのも毎度のことで。

「好きだなんて言えない相手なんです。
好きって言えない恋なんです」

そう言ったきりうつむいてしまうのも、もう今週だけで5回はあったりしたわけで。

「切ない片想いなんですねぇ。どんなときに、相手のことを思いだしますか?」

「……暗証番号を入れるとき」

「は?」

とんでもない方向からマヤの答えが返ってくるのも、それもある種のマヤの人気の秘密でもあるが、百戦錬磨のインタビュアーもあさっての方向から聞こえてきたその声に固まる。

「あの、とあるところの暗証番号を好きな人の誕生日にしてるんです。それを押してるとき、その人のこと思い出したくて。押してる間だけでも、なんかその人と繋がってるような気分になりたくて……」

あっけに取られてインタビュアーはマヤを見つめる。”天然”と形容され続ける、今もっとも売れているこの女優の駆け引きのない天然ぶりに、噂では聞いていたけれど、それが本当に、本当に、ネタでも作り物でもなく、本当に”北島マヤ”というのはそういう女優なのだと目の当たりにし、圧倒される。

「あの、北島さんの好きな人って……」

「やだ、そんなの秘密に決まってるじゃないですか!」

最初は明らかに向こうのペースであったのに、いつもマヤの圧勝でインタビューは終わる。マネージャーの寿命を確実に縮めながらも。






数週間後、墓穴を掘りまくったインタビューが活字化され、一斉に店頭に並ぶ。
自分が掲載された雑誌というものをマヤは今まで一度も買ったことがなく、担当のマネージャーやもしくは偶然直接会う機会が再びあった編集者から手渡される以外は、こうして事務所の一室で病院の待ち時間をつぶすような気軽さと無関心さで見ることがほとんどだった。

テレビの上に置かれたデジタル時計にチラリと目をやる。約束の時間をすでに10分過ぎている。
マネージャーと宣伝部の人間を含めた、簡単な打ち合わせがあると言われ、今日はここまでやってきた。


真澄が出勤しているかどうかは分からない。そんなことは自分には分からない。 分からないけれど、いるかもしれないと思うだけで、この建物のどこかにいるのかもしれない、と思うだけで無駄に動悸が上がるのはいつものことだ。
いい加減、心臓にも慣れてほしいと切に思うのに……。


時計を見るために起こした体を、再び黒い革張りのソファーの中に沈めると、しかたなくまた雑誌に目を落とす。無駄にさまよってしまった思考を取り戻すかのように……。
パラパラと形だけめくりながら、ところどころ目に付いた大きな文字だけ広い読みしたりする。
週刊誌のようなスクープ扱いの下品なものこそなかったが、新番組の番組宣伝に強力にカラーページが割かれるTVガイド誌のタイトルは

”恋する女優・北島マヤが語る恋する乙女心”
”旬の女優北島マヤ・自身の恋愛ぶっちゃけ話!!”

などと煽り、女性誌に至っては

”いつも恋はしてます。いつでも恋はしてます”
”好きって言わせたいっていうか、好きって言えないんです”

と大いに切なく盛り上げ、恋をしているのは、真澄のことをこれほど恋焦がれているのは確かに自分のはずなのに、まるで自分だけが蚊帳の外に置かれているようで、マヤは途方に暮れる。

全身でためいきをつくという表現が相応しい勢いで、体中から空気が吐き出される。吐き出されたのはもちろん空気だけではなく、それこそ全身にくまなく染み渡っている真澄への恋心であり、それらを大声で叫ぶことも、小声で囁くことさえも出来ない代わりに、そうやって空気にして外の世界に出してみる。
けれどもどれだけ肺から空気を搾り出したところで、心臓が止まらない限り、再び空気は今出て行った道を丁寧に肺に向かって逆戻りするように、誰にも言えない恋心もやっぱりご丁寧にもと来た道を帰ってくる。

そして思い知らされる。

呼吸をするぐらい自然なこと。
真澄を好きでいるということは。

呼吸をするたびに苦しくなるということ。
真澄を好きでいるということは。


世間がどれだけ自分の恋する相手を詮索したところで、それが真澄だとは誰も夢にも思わないように、真澄も夢でも冗談でも作り話でも、自分がその相手だとは思わないだろう。それ以前にこんなお子様女優の恋模様など、スキャンダルの対象としては耳にこそ入れど、真澄が興味を持つとも思えず、ますます途方に暮れる。



恋をする相手を間違えるというのは、ひどく途方に暮れることだった。



ガチャリ――


確かに自分は人を待っていたはずなのに、途方に暮れるあまり、そのことを忘れ、不必要にドアの開く音に驚いてしまう。
けれども1秒後、それは不必要な驚きではなく、心の底からの驚きと動揺に変わる。


扉の向こうに現れたのは、マネージャーでも宣伝部長でもなく、
他の誰でもなく、
まさにその

”間違った恋の相手”

だったからだ。





01.07.2005





…to be continued









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