好きと言わない恋をする 2
最初は幻覚かと思った。

寝ても覚めても、マヤマヤしている自分が勝手に見た幻覚かと。
最近思う。常に何か1つのことをずっと考えていることは可能なのだと。考えている、というのとは少し違うかもしれない。意識の一番低い所、無意識に一番近い場所に常に同じものを置いておく、そういうことかもしれない。
例えば、切れ掛かっている電球の下で本を読むとする。意識は確かに本の内容を追っているのに、常にそれは視界の端でチカチカと一定のしつこさでもって視力を刺激する。そして自分のわずかな意識も常にそれを感じている。

常にその存在を自分に認めさせる。
それが、マヤだと思った。
というか、そう気づいた。


例え、
100億の金が動く案件を処理している時だとしても、
数千人の首を切る決断を迫られている時だとしても、
日本一の売り上げを誇るアイドルの引き抜きを画策している時だとしても、
常に自らの意識と無意識の間で自分を刺激し続けることが出来る存在、
それがマヤだった。

だから自分は24時間、マヤのことを考えている、そう言い切ったとしても、それは過言でも狂言でも戯言でもなく、事実でしかないのだ。

そんな自分が見た幻覚なのだと、そう思ったのだ。



幻覚は、突然現実になる。



「速水さん、なんでこんなとこに居るんですかっ?!」

「なんでって、君…、ここは俺の会社だ……」

お互いに酷く間の抜けた会話をしているというのに、お互いに酷く動揺しているため、その間抜けさに気づくのは数秒あとのことで……。
バツが悪そうに俯くマヤに、真澄も同じくバツが悪そうに問いかける。

「君こそなんで、こんなところに居るんだ」

「う、打ち合わせです。マネージャーさんと、あと宣伝部長さんと……」

悪いことをしているわけではないのに、まるで罪を告白するかのように、マヤの言葉は自信なさげにしぼんでいく。言い訳のように最後の一言が付け加えられる。

「でも、速水さんまで来るって聞いてなかった……」

「いや、俺も聞いてない。というか、どうやら部屋を間違えたようだ」

そう言って、今日初めて自分に見せた柔らかい笑顔を見て、
少し下がった目じりを見て、
照れ隠しのように、くしゃりと前髪をかき上げたのを見て、
自分はこの人のことを物凄く好きなのだ、とへんなふうに実感した。

「恐らく、隣の部屋だな」

そう言って、ノックをするようなし仕草でもって、手の甲で小さく隣の部屋に続く壁を叩いた。

「君との打ち合わせはさぞ楽しそうだが、こちらは面白くもないいつもの報告会議だ」


そうなんだ……。
そう頷く程度にマヤは頭を縦に小さく振った。


間違いだったんだ……。
自分が真澄に逢えるのは、間違いでも起こらないとありえないことなのかと思えて、また少し頭も心も俯いてしまう。


「じゃぁ……」

そう言って真澄がくるりと背中を向けて出て行くのを待つ。それ以外に次に起こることは考えられなかったからだ。
けれども現実に耳に届いた言葉は、まるで違うもので、突然それは俯いた心にポトリと堕ちてきたようだった。心の真ん中に。


「間違えでも、君に逢えてよかった」

穏やかな、優しい笑顔。
穏やかすぎて、優しすぎる笑顔。


「あの……」

笑顔の意味が知りたくて、マヤの言葉が飛び出した瞬間、唐突にそれをさえぎる呼び出し音。
慌てて携帯を開くと、液晶には見慣れたマネージャーの名前。無視するわけにはいかなかった。


「もしもし?」

なんとなく、真澄には背をむけ、電話口に手をやる。電話で話している声を他人に聞かれるのは苦手だった。
明らかに取り込んでる様子のマネージャーから用件が伝えられると、回線はあっという間に切られてしまった。どことなく気まずい空気の真ん中にマヤを押し戻すかのように。

「どうした?めずらしくマネージャーのほうが遅刻か?」

(酷いっ!私のこと遅刻虫みたいに言って!)

そんな言葉でも返ってくるかと思っていた真澄には、マヤのそれは意外に響く。

「いえ、あの、ドタキャンみたいです。トラブル発生とかで、マネージャーさん現場抜けられないみたいで……。私の打ち合わせはなくなったようです……」

パタンと携帯を閉じると、マヤは曖昧に笑って真澄を見つめた。

「帰るのか?」

「え?」

質問の意味が分からず、マヤは薄く口を開けたまま真澄の答えを待ってしまう。

「今日はもうここでは予定はないから、帰るのかと聞いているんだ」

ようやく意味が分かったと何度か頷きながら、短く「はい」と答えた。

「今日の予定はもともとこれだけでしたし……」

何かを思いついたかのように、真澄の表情が変わる。

「ちょっと待ってろ」

それだけ言うと、あっという間にずっと今にも出て行きそうだった扉から、あっさり消えてしまった。

「な、なによ、もぉ……。
ワケわかんない……」

自分以外は誰も居ないその部屋で、無駄に響く独り言は、心細さから無意識に口からこぼれたものだった。






カチャリ

隣に座る真澄が、コーヒーカップをソーサーに戻す。隣なのでまじまじと顔を見ることも(見たいけど)できず、都合指先ばかりをまじまじと見てしまう。

綺麗な指だと思う。
コーヒーを飲む時に薄く目を閉じるのも、綺麗な顔に似あう仕草だと思う。
指だけでも、
マツゲだけでも、
柔らかそうなその前髪だけでも、
自分はこの人のことを好きでいられそうな気がした。


平日の昼間に、何もかもがオシャレなことで有名なカフェのカップルシートと言われるソファー席に、真澄と並んでコーヒーを飲んでいることの不思議さに、マヤはそれが現実のものではないと思わせるほどの浮遊感を感じる。ちょうど今座っているソファーのありえないほどの心地よさに似た、浮遊感を……。



ここまで真澄に連れてこられるのは、本当にあっという間だった。

「ちょっと待ってろ」

の次は、いきなり、

「行くぞ」

だった。びっくりして立ち尽くしていると、手首の少し上あたりを、白いセーターの上から掴まれた。

「ちょ、ちょっと、ちょっと速水さん!
行くって、どこにですかっ?
ていうか、会議どうしたんですか、会議!!」

「大きな声を出すな!隣に聞こえる」

まるで真面目に取り合ってないふうに真澄は答える。

「だから、どこに行くんですかっ!!」

真澄の顔が深刻ではないというのに、マヤは律儀に小声の叫びに声音を着替えて真澄に問う。

「エスケープだ」

「はぁ?」

「社長が今から会社を脱走するので、新進女優の君にも手伝ってもらう」

あとはもう、真澄のネタとしか思えないからかいに、マヤが真剣に答えたり、噛み付いたりで、あっという間にここまで来てしまった。


「お茶をしよう」

と真澄が言うので、てっきり地下1階にあるカフェテリアに行くのかと思えば、

「そんなところに誰が脱走するんだ。社内だろ!」

とかなり本気で怒られ、それなら会社に一番近いスタバでどうだ、と言えば

「あそこのカフェモカは水城君のお気に入りで、よく来るので見つかるかもしれん。危険だ!」

などと本気で駄々をこねられ、とても逃亡しているとは思えない騒々しさで、二人はここまでやってきた。


「君は本当に面白い子だな」

カップをソーサーに戻すと、空いた真澄の腕がこちらに伸びてきた。肩を抱かれるのかと思ったら、すぐ後ろのソファーの背もたれにおかれた。
それでもすぐ後ろに真澄の腕があって、あの指があるのかと思うと、どうしようもなくドキドキした。

「速水さんがヘンすぎるだけです」

けれども言葉は少しもそんなことを匂わせずに、勝手に口を突いて出てくる。片思いが長いと色々なことに人は器用になってしまうのだ。
特に、永遠に報われないと思われるほどの相手に恋をしている時は……。

「だいたいなんですか、脱走って!」

「エスケープだ」

「同じです!英語にしたぐらいで、えばらないでくださいっ!
だから、そうじゃなくてっ!!なんで、脱…、エスケープなんですか?」


「元気そうだな……」

質問にはまるで繋がらない答。答になってない答。けれどもそれはあまりに自然に、穏やかに、丁度いい大きさでマヤの目の前に堕ちてきたので、脈略のない不自然ささえも気にならなくなる。

「速水さんは…、ちょっと痩せた?」

「そうか?測ってないから分からないが……」

「アゴのとことか、細いもん。前より」

「よく見てるんだな」

少し驚いたように、真澄が笑う。

(好きな人のことは、分かるよ。好きだから分かる)

声に出すかわりに、口はまるで違うことを口走る。

「あ、ていうか、フケた?」

「ウルサイ」

そんなふうに言い返されることのほうが、意味深なことを言って困らせるより、いくらかいいような気がした。
本当に言いたいことはいつだって、一番言えない。代わりにどうでもいいことで、絡んでみる。それでもそうやって、真澄と束の間の時間を過ごせるのは、何より嬉しかったし、言い合ってみたり、ケンカしてるふりをするのは、時々恋人みたいだ、と錯覚できて、手放せないくらいの切ない楽しさがあった。


「男も30過ぎて、バツイチともなれば、フケるだろうが」

さらりとなんでもないふうに真澄はそう言うと、背広の内ポケットからタバコを取り出す。

”バツイチ…”

その言葉が体のどこかに刺さる。小さな魚の骨のように。



好きと言ったら何かが変わるのだろうか?
二人のこの関係は変わるのだろうか?



黙って真澄の美しい顔を見つめてみる。

なんだ?
そんなふうに、口角だけを少し上げて真澄がそれに答える。自分にはかからないように、タバコの紫煙が吐き出される。



好きと言わなければ変わらずにいられるのだろうか?



「なーんでもないです」

本当に言いたいことを胸の奥に引き戻す時の常套句を使って、マヤは少しだけ笑ってみせる。
手に入るはずもないものと、今なんとか自分の手のひらにあるものを比べて、それが真澄にとって大した重さも意味もなさないものであったとしても、それでも自分はとてもじゃないがそれを手放せるとは思えず、こっそり胸の扉に鍵をかける。
何度も鍵を開けては自分だけでこっそり開けてみて、そしてまたひっそり鍵をかける扉。


「速水さん、お砂糖いらないでしょ?」

唐突に明るく飛び出すマヤの声が、真澄のコーヒーカップの横で放置されている小さな四角い角砂糖に向かう。白い薄い紙で包まれたそれは、グレーの小さな文字でカフェの名が綴られている。ちょこんと印刷された水色の鳥の絵をマヤはカワイイと思う。

「あ?ああ…、欲しいのか?相変わらずの甘いもの好きだな、君は……」

笑いながら真澄が、白い角砂糖を二つ、マヤに手渡す。一瞬指先がふれあい、そこだけ皮膚の表面がうるさく騒ぎ出す。砂糖なんかが融けるぐらいに。

「知らないんですか?甘いものって、女の子の精神安定剤なんですよっ」

――恋する女の子の。
余計な言葉は適宜省略して、マヤは角砂糖二つをそっと握り締める。
真澄の意識がそこにはない時に、こっそりとそれをカバンに入れた。


そんなもの、
と誰もが笑うかもしれないけれど、こうして真澄と恋人みたいに並んでコーヒーを飲んだ、その二度と手に入らないかもしれない時間が形になる何かが欲しかった。砂糖なんていつかは融けてしまうけれど、とりあえず大事に取っておきたかった。


自分は、好きと言わない恋をしている。
これからも、好きと言わない恋をする。

好きと言ってしまえば、全てを失う恋だから、
言わずにずっと好きでいたいと思う。






01.09.2005




…to be continued









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