好きと言わない恋をする 4
”世界一綺麗な指”

こっそりと内緒で、自分の中でそう認定している。
それが太いのか細いのか、長いのか短いのか、そういうことはよく分からない。そんなふうに、何か後出しの条件のような理由を述べて、その指が何をもって

”世界一綺麗な指”

なのか、定義することは出来なかったけれど、とにかくそれは自分には完璧なバランスであり美しさであり、そして自らに触れないゆえに、強烈に恋しさを操るものだった。
今はもう、何も光るものがなくなった、左手の薬指に目が行く。

「結婚……」

唐突に飛び出してしまった単語が、居心地のいいソファーの上の最高に居心地の悪い場所に落ちてくる。
訝(いぶか)しげな真澄の視線。

(なんでもないです)

などという常套句で誤魔化す事はとても出来ない奇妙な間が出来る。無意識に出てしまった言葉の続きは、意識的に紡いでいくしかない。


「結婚、もうしないんですか?」

白いコーヒーカップの持ち手を持つ”世界一綺麗な指”が動きを止める。何かにうろたえたように。


「こんなオレとはもう誰もしてくれないだろ」

「そ…んなことも、ないんじゃないですか?」

一生懸命な否定は、誰のためなのか?

「速水さん、普通にカッコいいし、仕事だって凄いんだし、バツイチだって渋いって言えば、渋いし」

「渋い…か」

コヒーカップをソーサーに戻しながら、真澄は苦笑する。

「もてるでしょ?だって……」

「もててない。もてない。もてたくもない」

ポーズでもなくうんざりしたように真澄は答える。

「だいたい例えどれほどもてたところで、自分が本当に好きなたった一人に好かれなければ、なんの意味もないだろうが」

――自分が本当に好きなたった一人――

マヤの耳に、胸に、ピンポイントで刺さる言葉。大好きな人が発する言葉は、時にとんでもなく無防備に、心臓めがけて飛んでくることがある。

「好きな人…いるんですか?」

自信のない宿題の答えを言うように、不安と焦燥に揺れる瞳。途端に真澄は居心地が悪くなり、慌てて飲んだコーヒーを喉に詰まらせる。

「ヘンな事を聞くな。君こそ恋の真っ最中だそうじゃないか!」

「ええっ?!」

自分がたった今放った矢が、目の前でありえない方向転換をして、こちらめがけて飛んでくる。

「違うのか?」

「いえ…、あの、違くないんですけど…、私が勝手に好きってだけで、付き合ってるとかそんなんじゃぜんぜんないし……」

語尾がどんどん心細く、尻すぼみになってしまうのは当然だ。

「気持ちを伝えてみる気はないのか?
君に好かれて嫌な男はいないだろうが」

自分の事は棚の一番上に上げているので、いくらでもそんな事が言えてしまう。心にもないアドバイスとはこういうことを言うのだろう。

「好きって言ったら、何か変わると思いますか?」

思っていた方向とは違うところから聞こえてきた声のように、マヤのそれは静かに真澄に問いかける。
その声のほうに、真澄は振り返る。
心ごと、体ごと。

「俺に聞いてるのか?」

「はい、速水さんに聞いてます」

言葉は少しも曲がらず、なおもまっすぐに真澄に向かう。

「何かは…、何かは変わるだろう」

その言葉の行く先が、途端にぼやけた視界の中に吸い込まれそうになるので、たまらずマヤはそこへ手を伸ばす。

「いい方に?悪い方に?」

「俺に聞いてるのか?」

ついさっきと同じ台詞なのに、今度のそれはずっと重く響く。そして、低く。

「はい、速水さんに聞いてます……」

ほんの気まぐれから曲がった角が唐突に行き止まりにぶち当たり、どこにも逃げられなくなった心境に真澄は陥る。苦し紛れに出てきた言葉は、特になんのひねりもなく、ただ苦しいだけで。

「それは、君の好きな相手にもよるんじゃないか?」

真澄を、というよりも、その言葉を見つめるように、マヤの動きがしばし止まる。その言葉の意味を隅々まで理解するかのように。

「じゃぁ……」

その場に滞っていた空気を入れ替えるような声。

「じゃぁ、言わない。
あたし、やっぱり好きって言わない」

あまりにキッパリした調子に、別の意味で真澄に動揺が走る。

「なんだそれは!」

「好きって言わなければ変わらずに居られるんだったら、今のまま居られるんだったら」

(こうして側に居られるんだったら)

それだけは胸の中で呟いて。

「その方がいい……」

そう、いくらかはいい。全部失うぐらいだったら、まだそのほうがいくらかはいいのだ。
自分の言った言葉に頷くように、マヤの頭が小さく何度か縦に揺れる。

「君がそこまで惚れこんでいる男の顔を一度拝んでみたいもんだ」

(だったら鏡を見ればいいのに)

そんな言葉は当然、喉元でぺしゃんこにつぶされ、音にもならずに体のどこかに押し戻される。

「速水さん、絵文字の打ち方知ってる?」

代わりに出てきた言葉は、どこにもそんな匂いも空気も感じさせない、その場の空気を元に戻すのに相応しい言葉だった……。






「本当に毎日送ってくれるのか?」

ひとしきりマヤから携帯メール講座を受けた真澄は、一文字を打ち込むのにパソコンの10倍は時間がかかるという事実にげんなりした表情で携帯を畳む。

「送りますよ〜。じゃんじゃん送っちゃう!
速水さんもちゃんと返信くださいよっ」

「頑張る」

おどけたふうに真澄はわざとぞんざいに答える。本当は嬉しくて、照れくさくて、どうにかなりそうだった。恐ろしくてだれにも言えないが、偶然を装わなくても、偶然を待たなくても、愛するマヤと自分がこうして繋がっていられるいうことに、どうにかなりそうだった。


「そんな調子のいいことを言って、君のことだ。すっかり忘れそうな気がするがな」

どうにかなりそうな気持ちを隠すには、いつだって自分は天邪鬼なことを口走るいかない。
予想通りに、小さく脹れたマヤがそれに答える。

「ちゃんと送りますぅ!じゃ、今速水さんと別れたら、早速一通送りますからっ!」






二人がカフェを後にし、真澄が会社に戻る道すがら、背広の内ポケットの携帯が短く揺れる。
逸(はや)る気持ちを抑え、メールボックスを開く。


『祝★開通』

まるで青函トンネルの開通のようなその件名に吹き出しながら、真澄はメールの文面にスクロールしていく。


『よかったですね♪
これで速水さんにも
文明開化(・∀・)人(・∀・)
記念すべき一通目を
私が送れるなんて嬉しいです。
さっきはコーヒーとケーキ
ご馳走様でした。
いつもすみません。
豪華なお食事は無理ですが、
私もちゃんとお給料頂いてますので、
今度はコーヒーぐらい
私におごらせてくださいね』


社長室に着くまで10回は読み返す。
それがただのお礼のメールなのか、それとも次回をさりげなく期待させるものなのか、メールというものに不慣れな真澄には、量りかねる。
喋っている言葉の裏側ならともかく、こんな短い文章の行間を読むなどという芸当はしたことがなかった。
返事を書いては削除し、書いては削除し、いっこうに送信ボタンを押せなかった。






真澄にメールを送信してからすでに4時間。当たり障りのないメールを送ったつもりだったが、どこかに当たるか障るかしたのだろうか。返事がくる気配もない。
あんなことを言ってはいたが、しょせんこんな子供のお遊びに真澄が付き合うわけがない、とさっきまで浮かれに浮かれていた自分が恥ずかしくなる。
会社に戻り、仕事に忙殺され、メールの存在なんて、1mmも思い出しもしていない。
絵に浮かぶようにそれが想像できて、物凄い勢いで気持ちが冷えていくのが分かる。


送ったメールも自分もセットで消してしまいたい、出来ることなら……。


1103


慣れた動作で、ボタンを押すと、まるでそれが『開けゴマ』の呪文であるかのように、目の前のガラス扉が開く。
真澄のことを思い出したくて、そうやって繋がっている気分になりたくて、毎日打ち込むであろうマンションのセキュリティロックまでそんな数字にした。


そんなものを押さなくたって、真澄のことしか考えていない時は、逆にそれが堪える。

ガランとした広いエントランスホールを突き抜け、エレベーターホールに向かう。


その時、手のひらの中で4時間以上もずっと黙っていた携帯がブルリと一度震える。
誰からメールが来たところで、それは同じように短く一度震えるだけだというのに、それが絶対にそれである確信がマヤにはあった。
震える指で、メールボックスを開く。


『re:祝★開通

------------
おごってくれ』


「はーーーーーっ?!」

エレベーターホールにマヤの奇声は大反響する。

「なに?これだけ?4時間待ってこれ?
しかも、おごってくれ?
ありえないっ!!」


ありとあらゆる悪態をついてはみたけれど、顔の緩みは止まらなくて。
あの真澄が、必死に親指を動かして書いたのかと思うと、それだけで嬉しかった。
コーヒーなんてケチくさいことは言わないで、ディナーでもなんでも、真澄とまた逢えるのであれば、なんだっておごってやるとまで思う。


たった一通のメール。
たった一行の返信。

けれども、好きと言わないはずの恋が、今にもそこからあふれ出しそうで、マヤはこっそりそのメールに保護をかけた。



01.16.2005





…to be continued









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