written by 杏子  

前編











「11月3日?」

「ええ、11月3日でございます、真澄さま」

聖に手渡された「紫の薔薇の人へ」と書かれた封筒から、一枚の白いチケットを取り出すと、その角を親指の腹で軽くもてあそびながら、真澄はいぶかしげな表情を自らの顔の上に意識する。

「何か?」

「いや、何でもない」

何でもないというのに相応しくない間と空気。けれども、全てにおいて察しのよい優秀なこの部下は、その間を切り崩してくることなど一度もない。
前髪に覆われ、読み取ることが困難なその表情を伺う。

――知っているのか、いないのか?――

しかしすぐに真澄はその作業を中断する。馬鹿馬鹿しいからだ。もう30も越えた男が自らの誕生日を意識するなど、知られることのほうが恥ずかしい。
現に自分もほとんど忘れていたことだ。今、こうして改めて日付を聞いて、意識の網にかかったぐらいだ。
誕生日を心待ちにしたことなど、一度もない。あの日、冷たい海で心を失くしてから、誕生日などカレンダーの他の一日と何も変わりない。
一瞬、遠い幼少の記憶の合間に意識が飛び、なんとも言えない落ち着きのない感情にとらわれる。

「ただ歳を取るだけのことだ……」

独り言のように、そう低く呟くとタバコを灰皿に押し付ける。無駄に思考することを拒否するように。

察しのいい部下は、聞こえていたのかいないのか、やはり何も言わずに軽く目礼すると、ホテルの一室を後にした。






”あなたに関するある短い告白”


不思議なタイトルだと一瞬思うが、一人芝居だと聞いて納得する。紅天女の上演権とともにマヤを自らの箱の中、大都芸能に閉じ込めてからすでに3年が経つ。
閉じ込めたと言っても、それは仕事上においてのことだけで、なんら状況は変わっていない。

変わったことと言えば、もう自分は独身ではないということ。マヤと結ばれることなど、もうありえないということ。
それぐらいか……。

急に寒々しいものが体の一部を駆け抜け、何をいまさら、と自嘲する。

最近では、それが仕事の上であったとしても関わることが例えようのないほどの苦痛に感じることもあり、采配からは一切手を引いている。
順調な仕事ぶりは他の誰より自分がわかっているが、マヤのその輝きを、自らの闇が覆いかねないことを恐れ、相応しい距離と相応しい立場でその姿を見守る、それが真澄にとって出来る唯一のことだった。
一人芝居をするというのも、聞いていたような気がしたが、正確には把握していなかった。

苦笑する。

誰よりも、何よりも、知りたいことはただ一つだけ、ただ一人に関することだけなのに、それを知ることを何よりも恐れ始めている自分に。知ろうとしないという意思は、知りたいことへの何よりの渇望であるように、自らの心の内の矛盾から真澄は感じ取る。

己れの思考が、体内を蝕み始めるのに痛みを感じる。
濃度の濃いウィスキーごときでは拡散できないほどの痛みを。

昔の記憶が蘇る。
激しく、恐ろしいほどに激しく、恋焦がれていた頃の、あの絶望的な渇望が蘇る。


――自分は少しも忘れてなどいない――


自覚することは、3年かけて築き上げてきた心の均衡の全てを取り壊す。

「芝居を見るだけのことだ」

言っても無駄な独り言を呟く。自分以外は誰も居ないはずの部屋で、自分以外のものに対して言葉を発する馬鹿馬鹿しさは、アルコールで麻痺した舌の上ではなんの意味をもなさない。

舞台の上のマヤを見るのは、自分にとって何よりの至福だった。

唯一で、そして最後の。

無駄な独り言を呟いたぐらいでは、少しも落ち着かない心のざわめきに真澄は戸惑う。

「これが最後だ」

今度は辺りが一瞬にしてシンとする。
冷たく、固く、凍りついたような空気。
自らの口を突いて出てきたはずの言葉なのに、その恐ろしいほどの威力に真澄は驚く。

最後……。

本当はもうずっと前から気づいていたことだった。責任という名のもとに結婚という道を選んだ自分の取るべき行動を。
もう、あと少しだけでも見てはいけないのだ。

狂うほどに愛する女が、最も輝きを放つ瞬間など。

「これが最後だ」

もう一度、強く意思的に、わざとらしいほどにその声を響かせる。
ウィスキーグラスの中の氷が融ける音がした。


ホテルの部屋の不気味なまでの静けさと、自らの内側で高ぶる感情のうねりの不釣合いさが、どこまでも奇妙に広がる夜だった。






11月3日午後7時。
開演10分前になっても、会場には自分以外は誰もいないというその異様な空気に、さすがに真澄も動揺しはじめる。

「場所を間違えたか?」

思ってはみるものの、100回見直してもチケットには、今現在自分が居る場所と時間が記載されている。
現にエントランスをくぐる時、全く問題なくチケットをもぎられ、自分は今ここに座っているのだから。

いくらなんでもおかしい――

そう思い、席を立とうとした瞬間、場内の明かりが落ち、スポットライトの当たったステージからその声が真澄の背中を刺す。

「待ってください!!」

驚いて振り返る。
だが、振り返っただけで声も出ない。

「待ってください。
あなたが来るの、私、ずっと待ってたんですよ」

その熱いまなざしは確かに自分を見つめているが、尋常ではないその熱さが、自らの体内を突き抜け、自分の後ろに広がる何かを見ているように真澄は感じる。それは確かにマヤではあったが、自分のよく知るマヤではあったが、舞台の上だけで見ることが出来る、あのマヤだった。

「時間はそんなにかかりませんから。ほら、言ったでしょ?これは【あなたに関する短い告白】だって。
さぁさぁ、そんな馬鹿みたいに突っ立ってないで、座って、座って!」

真澄の考えを確信に変える、芝居じみた笑い声が響く。
間違いない、すでに芝居は始まっていた。
自分以外の強力な力に誘(いざな)われるように、真澄は腰を下ろす。

そう、いつだって自分はこの少女には、逆らうことなど出来ないのだ。例え指一本でも、彼女の意に反して動かすことなど出来ない自らの無力さを、真澄は絶望的に感じていた。訳の分からないほどの高揚と渇望の渦に巻き込まれながら……。


舞台の上の少女は、満足そうに余裕の笑みを浮かべる。

「さてと……、何からはじめようかなっ?」


そういえば、かつて一度だけ同じように舞台の上の彼女を独占したことがあった。
あれは確か、台風の夜。
演目は……。
そこまでで真澄の思考は中断される。
目の前で始まった、自分だけに向けられたマヤの一人芝居に、真澄の思考は完全に停止する。

まるで世界中に置き去りにされたかのように……。












11.02.2004










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