written by 杏子 後編 |
「私に初めて会ったときのこと、あなたは覚えてますか?」 一本のスポットライトが舞台の中央に立つ、その小さな体を闇に浮かび上がらせる。ごく自然な調子で、両手を胸の前で組んでいるが、時々左右の指の上下を組みかえている。目立った動作はそのぐらいだった。 激しい動きも声音も一切そぎ落としたような、ただまっすぐな凛とした、あの舞台の上でどこまでも通る、真澄もよく知るあの声がまっすぐに、まっすぐに、自分を貫いていくのを感じる。 声が体を貫く、 そんなことは生まれて初めてだった。 「覚えてないんだろうなぁ、きっと。あんな些細なこと、きっとあなたは覚えてないに決まってる。 忙しいあなたには、他に覚えておくことがいっぱいあるものね。 でも、私は今でも覚えてる。 肩におかれたあなたの手の大きさとか、優しかった声の感じとか、見上げたときに飛び込んできた綺麗な笑顔とかね。 全部。 全部、ちゃんと覚えてる」 少しだけ口元に笑みが浮かび、そしてそれが消えるまでの5秒の間。 真澄の記憶がゆっくりと過去に誘(いざな)われ、そして事実を思い出すまでの5秒の間。 その5秒の間を確認したかのように、マヤの声が続く。 「それじゃぁ初めて薔薇を、紫の薔薇を下さったときのことは、覚えてますか?さすがにこれは覚えてるかな。 ていうか、覚えていて欲しい! 私、馬鹿だから、本当に馬鹿だから、実際に熱出してお芝居してたんです。 フフフ。迫真の演技ってよくいうけれど、迫真もなにも、ほんとに熱出してフラフラして、今思えばありえないって話で、本当に無茶ばかり。 でもその無茶のおかげであなたから紫の薔薇をいただけたのであれば、私の無茶にも意味があったのかな、なんて…」 想い出が、 確かに自分とマヤが歩んだいくつもの想い出が、時にそれは、速水真澄という存在から離れた「紫のバラの人」というもう一人の人物として残してきた思い出たちが、マヤのその口から語られる不思議さ。それは、劇的な衝撃を真澄に突きつけるものでもあるはずなのに、 「なぜ?どうして?いったい、いつから知っていた?」 などという言葉を発することも出来ないまま、真澄はたった一人、客席に縛りつけられたまま微動だに出来ない。 動くことを禁じられた人形のように。 言葉を忘れた子供のように……。 真澄が観てきたいくつもの舞台、時にその舞台の1シーンを再現しながらマヤの ”あなたに関するある短い告白” は続いていった。 真澄を永遠に客席にたった一人で縛り付けておくほどの、圧倒的な強さと存在感でもって。 ふと、告白を続けてきたマヤの動作が止まる。目には見えない壁に手で触れてしまったかのように、急に呼吸が止まったのも分かった。 空気が変わる瞬間。 自分は確かに今この瞬間、今目の前に居る、この一人の女に何もかも、そう文字通り何もかも支配されていると自覚する瞬間。 彼女の息継ぎ一つでこれほどまでに自らの呼吸は乱され、彼女の身に起こる異変一つで体の機能が麻痺するほどの動揺を与えられるということを、体の細胞が自覚する瞬間。 自分はもしかしたら、この女によって生かされてるのでは、とまで思い及ぶ瞬間。 頼りなげにさまよった細い指先が、舞台の宙で止まる。 「疑問に思ってるでしょ? どうして気がついたんだ、って。いつから知ってたんだ、って……」 細い指先がゆっくりと胸元のあたり戻ると、苦しげに白いブラウスの襟元のふちをなぞる。 「あの日も、お客さんはあなた一人だった。 嵐が来て、世界中から私は見放されたような夜だったのに、やっぱりあなたはそこに居てくれた。 今みたいに、そこに。 あの夜が全てを変えたんです。あなたが私にあなたの素顔を見せてしまったのが、あの夜だったんです」 突然舞台の手前にもう一筋スポットライトがあたる。 白い光の先にあったのは、白い幾分小さな椅子とその上に置かれた紫の薔薇。 今までマヤの声は確かにまっすぐに自分に向かってくるのに、その視線が自分ではないものに向けられていたことの謎を真澄は知る。 マヤはゆっくりと小さな椅子へと近づく。椅子の上の紫の薔薇に触れようと伸びていく細い指先が、止まる。 「ずっと悩んでいました。 隠し続けるあなたに対して、どう接したらいいのか、分からなくてずっと苦しい思いをしてきました。 私がこのバラに触れたら、 あなたは消えてしまいますか?」 ためらっていた白い指先がすっと伸び、細いくきを掴む。 「でも、気づいたんです。 消えてしまってもいいんです。 これで、あなたを失うことになったとしてもいいんです。 だって、私の中にある想いは絶対に消えないから……!」 ゆっくりと体がこちら側を向く。初めてマヤの瞳が確かに自分を捕らえたことを、真澄は確認する。 薄く開いた唇が、苦しげに酸素を欲しているのが分かる。 酸素と、言うべき言葉を。 大きく息を吸った瞬間に、白い喉が上下するのが見えた。 「私の全てはあなたです」 まっすぐに声が、視線が、真澄の体内を貫く。 「あなたがどこに居ようと、 何をしていようと、 何と名乗ろうと、 誰と居ようと、 私の全ては常にあなたであるという意味において、 全ては無意味です」 紫のバラを両手で胸の前に持ってくると、ゆっくりと瞼を閉じ、マヤはバラに口付けた。 「私はあなたによって生かされています」 少し前に真澄の脳内で、確かに自分の声で響いたものと全く同じ文章が繰り返される。 ――私はあなたによって生かされています―― 芝居じみた動作と形容するには、それが一人芝居であるという事実からすると明らかにおかしな表現ではあるが、そうとしか言えないゆっくりとした動作でマヤはひざまづくと、頭(こうべ)を垂れ、頭上にその紫のバラを差し出す。 完全なる降伏のポーズであるかのように、両手を挙げるかわりに捧げられた紫のバラ。 自分がいつも彼女に差し出してきたバラが、今真澄自身に差し出されていることの意味が、真澄の全てを足元から取り壊していく。 うつむいたその顔の下から、低く震えた声が聞こえてきた。 「生まれてくれてありがとうございました」 日常的に口にするにはあまりに不自然なその言葉に、真澄は自分の体が、本当にぶるりと震えたのを感じた。 ――私はあなたによって生かされています―― 自分はこの女によって生かされている。 その事実を認めた時、真澄の中でも全てのことが無意味になる。 今目の前で、深く頭を垂れ、バラを差し出しているこの少女によって自らが生かされているという事実以外、全てのことが無意味になる。 やるべきことはいつだってたった一つだったのだ。 大切にするべきこともたった一つ。 守るべきものも、いや、守りたいものも、たった一つ。 たとえ地球の果てまで逃げたところで、逃れられないもの、それが今全てを自分に差し出しているこの小さな、そして計り知れないほど大きな意味を持ったこの存在。 気がつくと、舞台の前まで歩いていた。 目の前に差し出されたバラは小刻みに震えている。 どうしようもないほどの慟哭が真澄を襲う。 次の瞬間、バラもマヤも折れるほどの衝動で真澄は抱きしめていた。 全てを、 全ての過去を、 速水真澄としての許されぬ愛も、捧げつくしてきた紫のバラの影としての愛も、全てを自らの腕の中で一緒くたにかき抱くように、激しく抱きしめていた。 「は…やみ、さん…?!」 苦しげな声がする。現実に唐突に引き戻されたような、苦しげな、そして動揺の膜に覆われた声が……。 ゆっくりと壊れそうなその細い体を引き離し、けれども両肩をしっかりと手のひらの中に閉じ込めたまま、真澄はマヤの瞳の中を覗く。 「一度だけでいい。本当のことを言ってくれ。 これは芝居じゃないと、芝居なんかじゃないと言ってくれ」 マヤの瞳の中の水面が揺れる。深く、黒い水面に波紋が広がる。すがるような思いでその細い肩を掴んでいた真澄は、どうにかしてその波紋を止める方法を知りたいと渇望する。自然と手のひらがゆっくりとその瞳を支えるように、頬にあてがわれる。 揺れいてた黒い水面の波紋がぴたりと止まる。焦点が定まったかのように、黒い瞳がまっすぐに真澄を捉える。 「お芝居にでもしないと、 お芝居にでもしないと、私、ほんとの自分の気持ち、言えなかった。 他にどうしようもなかった! これしか出来なかった!!」 それがもう芝居でないことを証明するかのように、息継ぎをする場所を間違えたかのごとく、マヤの呼吸が乱れていく。 「こんなお芝居、一生に一回しかしないっ! 一生に一回しか、こんなこと言えない! あなたのこと死ぬほど好きだなんて、絶対に言えない!!」 絶対に言えないことを言ってしまったあと、あわてて手のひらを口元にやるが言葉はすでに取り返しのつかない場所に飛び出していってしまったあとだった。 その取り返しのつかない場所に飛び出していった言葉に、真澄はゆっくりと手を伸ばす。両手で大切に、大切に掬い上げるように、拾い上げるように、両頬を手のひらで包む。 「君はとんでもない女優だ」 言葉の強さとは裏腹に、優しい、優しすぎるほどの暖かい眼差しがマヤへと注がれる。 「生かされているのは俺のほうだ。 君という存在に、生かされているのは俺のほうだ」 頬にあてがわれた手の親指が、ゆっくりとマヤの薄い唇をなぞる。 全てに降伏する幸せな苦笑を浮かべ、小さく頭を左右に二回振ると、真澄はもう躊躇(ためら)うことなくそこへ口付けた。 耐えかねたように、黒い水面を覆っていた透明の雫が零れ落ち、真澄の指の間を伝う。 想いが永遠にすれ違うその前に、 永遠に離れることのない、強い、強い口付けを交わす。 余計な言葉も、 余計な時間も、 一切のものが入り込む隙がないほどの、 全てが一つになる、 ただそれだけの熱い口付けを交わす。 マヤが手のひらに固く握り締めていた一本の紫のバラ。 その指先をゆっくりと開くと、真澄は自らの指をそこへ重ね合わせる。 今、二人の手の中で、紫のバラは永遠の証になる……。 11.27.2004 いつも見捨てずに愛と菌の手を差し伸べてくれるパロ仲間のお友達から、 「誕マスやるんだけど、乗らない〜」 なぞと誘われ、 ”きゃーーー!!やるやるーーー!!” なぞと叫んだのがウンのつき。 まさかその後、人生初の肺炎・骨折に見舞われるとは思わず(まぁ、そこまで放置してたオレが一番悪いのだが)ほそろしー思いをした一品でございます。 なんとか最後の更新には間に合ったものの、お仲間にいっぱいいっぱいご迷惑をかけてしまった一品でもあります。 う、一生思い出しそうだな、コレ。 |
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