第一話





会えるかもしれないし、会えないかもしれない。

この場所に来る時は、いつもその両方の可能性を想定する癖がついた。その人が生きている限り、この世のどこかで会えるかもしれない可能性と会えないかもし れない可能性、そのどちらもが等しく存在するのは、当然と言えば当然の事なのだが、ここはその前者の確率が格段に上がる場所なのだ。

大都芸能社長室。
そこは多分世界中で一番、会えるかもしれない度が上がる場所。

「はい、こちらが控え。ただの紙切れじゃないから大事にしてよ」

そう言って水城から赤い割印が押された書類を渡される。来年の紅天女公演に関しての契約書だ。実際にこの契約書を持ち出して、何か揉め事が起こるとは思 え なかったし、想像すらしたくもないが、それでもこれがとても大切な書類だという事はさすがのマヤにも分かっている。ただの紙切れとは思えない重さを持つそ れを しっかりと受け取ると、

「はい、分かってます。来年もよろしくお願いします」

そう言って頭を下げる。

「それはぜひ直接、真澄様に言ってね」

もう今日はきっと会えないのだろうと思っていた所に、その名前は意外なふうに響いた。契約書を交わすとは言え、昨年交わした初年度分に多少の追加項目を 加えた上での更新だった。初めての契約書ならいざ知らず、これといって話し合う項目もないし、事実上、紙の上だけでのやりとりと分かり切っていた。社長の 真澄がわざわざ出て来なければいけない理由は、一つも見つけられない。大都芸能本社に呼び出され、そして社長室に通されてはみたが、そこに真澄の姿はな く、単に水城にとって都合のいい場所だからここに通されたのだ、と悟ったばかりだった。
その時、社長室の手前の部屋、水城が使っている秘書室のドアが開く音がする。続いて数秒後に、この部屋のドアが予想した通りのタイミングで開かれる。

「やぁ、チビちゃん。今年はサインする場所を間違えなかったか?」

「もう!速水さん、しつこいです。それきっと私がおばあちゃんになっても契約書にサインするたびに言うつもりですよね」

去年、初めての契約の際に間違えて真澄がサインすべき場所に署名をしてしまったのだ。先に真澄がしておけばよかったと、水城はフォローしてくれたが、当 の真澄は大笑いして喜んでいた。その時からきっとこれは末代まで語られるに違いないと思ったがその通りになった。
つい先程までドキドキしていた気持ちは、そんなやり取りの中でクシャリと紙のように上手い事丸められて、どこかにいってしまった。もしかしたらこの部屋 の窓辺のゴミ箱。あの中に今は入っているかもしれない。そうだったらいい、そんなふうにマヤは思って苦笑するが、そんな都合よくいく訳はないという事も分 かり切っている。
真澄について、いつでもどこでも、
ド キドキと無駄にときめく気持ちは もう何年もどうやっても消せない。 けれども、無駄にときめくこの癖を上手に隠す術だってもう身につけた。少しプリプリと怒って、バカにするなと啖呵を切って、ついでに少し不貞腐れたりし て、そうやって上がった動悸や紅潮した頬を誤摩化すのは簡単だ。多分この瞬間もそうやって上手い事自分はやったはずだった。少なくとも自分ではそう思って いる。

「素晴らしい舞台だった。来年は地方公演もある。期待してる」

「あ、はい、えっと……、頑張ります」

急にそうやって社長の顔を見せて来るから、上手い事誤摩化したはずの顔がどこかにいってしまいそうになる。そうやって社長然として、穏やかに微笑み、ポ ケットに片手を入れて立つその姿は嫌になる程カッコいいから困るのだ。全く。
じっとこちらを見ている真澄の視線から逃れるように、バッグの中の何かを探しているふりをする。しばらくそうやり過ごしてみたが、真澄の視線が少しも 動かないので、諦めたように探し物を終わりにする。そうして、もうこの部屋にいる理由はなくなり、真澄の視界に居られる理由もなくなった。

「では行こう」

ソファーから立ち上がった瞬間そう言われ、驚いて真澄の顔を見る。

「ランチの時間だ。付き合え」

タバコを口の端に加えたまま、ジャケットをひらりと指先で肩越しに持つと、真澄はさっさと歩き出す。

「え?ちょ、ちょっと──」

何が起こっているのか分からず、とりあえず置いて行かれないように必死で後を追いかける。

「いってらっしゃいませ。廊下は禁煙ですのであしからず」

水城のその声に軽く真澄は舌打ちすると、ドアの手前に置かれた灰皿にタバコを押し付けた。




近くにあるホテルのフレンチレストランに入る。もっと気軽な所を想像していたので、ランチとはいえホテルのレストランに入るにはカジュアル過ぎるので は、とマヤは己の服装を思わず上から下に見やる。もっとも店内はGパンの人もちらほら見える位で、ツインニットにショートパンツにブーツ、という自分の格 好もそこまで浮いていないとなんとか自分に信じさせる。
つくづく真澄は、自分を居心地の悪い場所に放り込む天才だ、などとマヤは心の中で悪態をついてみる。間違っても突然降って湧いたこの時間に、全身でとき めいている事などおくびにも出さないようにして。

「相変わらず強引ですね。私、お昼食べるなんて一言も言ってないのに」

こうして膨れて見せるのは、いつもの常套手段だ。本当は子犬のようにしっぽを心の中で振ってついて来たというのに。

「なんだ、チビちゃんでも腹が減ってない事があるのか?」

「いえ、お腹はすいてます。食べます」

メニューを取り上げられそうになって、慌ててそう言う。結局真澄のペースになった。それもまた想定内だ。

「速水さんのおごりですよね?」

「当たり前だ。君におごって貰う訳にはいかないだろ」

おごる、おごらない、のやり取りをするのは結構好きだ。子供のように、まるで親戚のおじさんに食事をおごってもらうようなフリをしておけば、真澄が負担 に思わず、軽く自分を誘ってくれるというのを知ってから、「おごりだったら行きます」そんな軽口を叩いて、真澄の誘いに乗った事が何度かある。本当はお ごってくれなくたっていい。割り勘だってありだし、むしろ自分が払ったって、本当は全然いいのだ。

「そんな事もないですよ。私もちゃんといいお給料貰ってますから」

「じゃぁ、それは取っておいてくれ」

「え?」

意外な言葉を聞いた気がして、マヤはメニューから顔を上げ、訝しげに真澄を見る。

「君が俺におごってでも食事を一緒にしたくなる日が来るまで、それを取っておいてくれ」

言葉の意味を理解するのに十五秒以上はかかった。

「な、なんですか、それっ!口説いてるんですかっ?!」

真っ赤になって噛み付くと、大きな声で笑われた。

「そう取ってくれるまでに君が成長してくれていたなんて嬉しいよ」

またからかわれたのだと分かると、マヤはメニューに顔が着く程に顔を近づける。そうやって真澄からは見えない様にして、真っ赤な顔が元の色を取り戻すま で、メインの”松坂牛パヴェットのロティ 季節の野菜を添えて”というのが一体どんな料理なのかを必死に想像しているフリをした。





「新しい舞台のほうは?」

「楽しいです。現代劇の、それも殺人犯役だなんて、紅天女から出来るだけ遠い役がいい、っていう私の希望にピッタリでした」

舞台の話や仕事の話をするのは、一番楽だ。余計な空気や微妙な温度が入り込む隙がないぐらい、自分は上手に話が出来るし、真澄も普通に聞いてくれる。

「紅天女は間違いなく君の生涯の当たり役になる。それは素晴らしい事だが、一つの役のイメージが抜け切らずに潰れて行く役者も万と見て来た。恐れずに全く 違う役に邁進する君の姿は、頼もしいよ」

「そんな……褒められるような事じゃないんです。まだまだ、あたし自信ないんです。もっともっと勉強しなくちゃいけないし、まだまだやる事あるんです。紅 天女って、なんかこう、あたしっていうひとりの人間を内側から吸い取って行くようなそういう役なんです。だからあたしも吸い取られても生きて行けるよう に、もっともっと自分の内側に蓄え込んでいかなくちゃ、役に飲まれるって、そういう恐怖感は常にあって……。怖いけれど、結局この恐怖に勝つには舞台に立 ち続けるしか克服する方法はないんだって分かってからは、自分でもどうかと思う程図々しくなりましたけどね」

「若いな……」

そう言って、眩しそうに目を眇めながら微笑まれた。格段自分が青臭い事を言ったつもりはなかったが、そういう風に響いてしまったのかと、マヤは今自分が 放った言葉をもう一度脳裏で再生しようとする。

「希望と未来に満ちあふれた今の君と、その若さが羨ましいよ」

嫌味ではなく本心からそう言ったと信じられるニュアンスで、真澄はもう一度そう言った。

「速水さんだって、若いじゃないですか。そんな今にも死にそうなおじいさんみたいなふうに言わないで下さいよ」

マヤのその言葉に「これは失礼」と言って、真澄は笑う。

「速水さん、いくつでしたっけ?」
 
32歳。
知っていて聞いた。心の中で真澄の声が『32』と言う。

「33だ。来週、33になる」

「え?」

心の中で響いた声とは違う答えのそれに驚いて、思わず声を上げる。

「来週、お誕生日なんですか?」

「あ?ああ、そうだ」

意外な事を聞かれたとでも言う様に、真澄がこちらを見る。

「知らなかった。いつですか?」

「3日の月曜だ」

俄にマヤの心の中がざわめき始める。知らなかった秘密の事実を知らされて、途端におしゃべりになった小さな自分の分身たちがが耳打ちをする。

その日の予定は?
どこにいる?
何をしてる?
誰といる?

子供の頃に見たテレビアニメの登場人物のような、魔法で小さくされてしまった小人みたいな何人もの自分が、クルクルとマヤの耳元を駆け回る。

「な、何してるんですか?その日」

「仕事だろ」

意外なところに食いつかれたと、驚いたように真澄はマヤを見返す。

「で、でもその日、祝日ですよ」

「仕事といったら仕事だ」

明らかにぞんざいに、真澄が面倒臭そうに答える。

「お祝いとかは?」

「別に年をとっても嬉しい事も特にない」

そう言って、赤いレアな部分から肉汁が滴るステーキ肉を真澄は口に入れる。まるで面倒ごとは全て噛み殺す、というような仕草で。

「何それ、ほんとにおじさんみたい」

「だから言っただろ、若くないって。寂しい独り身男の30過ぎの誕生日なんてそんなものだ」

おどけたようにそう言って笑った。自虐的に真澄はそう言ったが、それは決して真澄が本当に寂しい男だとか、もてない男だという訳ではもちろんない。それ ぐらい はマヤにも分かっている。
2年前にあの紫織との婚約が破棄されたと聞いた時には、心底驚いたが、いい加減な噂はいくらでも聞いた。自分なぞがその真相を知りようもないが、例えば 真澄は少なくとも婚約解消後、2年は謹慎期間として結婚はもちろん、女性関係が取り沙汰されるような事があってはならない、という念書を鷹宮家から取られ たとか、いくらでもその手の話は背ひれも尾ひれもつけて飛んで来た。その真偽はともかく、圧倒的に不利な条件を飲んでの破談だったらしいが、実際真澄は仕 事に没頭し、新しい誰かと噂になる事もなかった。少なくとも自分の知る限りでは。

「きっといいことありますよ!」

とって付けたようなマヤのその一言に、訝しげに真澄が視線を上げる。

「まじめに頑張っている人の所には、きっとプレゼントがありますよ」

「それはサンタクロースの話じゃないか?」

茶化したような真澄のその声にも、マヤはただ笑い返す。もうこの時、この瞬間、自分がその”いいこと”をすると、大胆にもマヤは決め込んでいた。
真澄の33歳の誕生日に、流れ星のように一瞬でいいからその場に差す光になりたいと思ったのだ。心臓がトクトクと先程までとは違う速度で時を刻み始め る。33歳になった真澄の笑顔を、そっと思い浮かべた。





翌日、半信半疑で水城に確認したところ、3日の日は祝日にも関わらず、真澄は本当に仕事の予定をいれていた。水城も誕生日だというのにわざとやっている のでは、と半ば呆れていた。その日の予定を確認し、いくつかのお願いをする。最初は驚いた水城もすぐにクスクスと笑い出し、

「マヤちゃんの頼みならしょうがないわ」

そう言って諸々の頼み事を快諾する。

後は準備を整え、3日の夜を待つばかりだった。やらなくてもいいような仕事を誕生日の日に詰め込んで、それでいてきちんとそれらを片付けて、うんざりし ながら社長室へと戻ってくる真澄を……。



2014.11.03





…to be continued




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