第二話


別に大それた事は何も考えていなかった。
ただ、「
年をとっても嬉しい事 も特にない」などと言い切る真澄 の姿が寂しくて、何か楽しくなるような事を共有し、その日がやっぱり特別な日である事を思い出して欲しいと思っただけだった。
自分の誕生日は、いつも麗を中心としたつきかげのメンバーが祝ってくれた。季節が冬なので、大抵みんなでアパートで鍋を囲み、最後にケーキを食べる。それ だけの事 だけれども、それだけで自分は充分温かな幸せな気持ちに包まれた。

誕生日は世界中の全ての人に、等しく必ず訪れるもの。
どう過ごすかはその人次第だけれども、たった一年に一度しかないその日を、なかったものとして通り過ぎようとするその姿は、マヤにはとても寂しく思えた のだ。真澄にしてみれば、大きなお世話かもしれないけれど……。

水城に頼んで、秘書室の冷蔵庫のスペースは確保した。中にはキンキンに冷やしたシャンパンと小さなホールケーキがひっそりと待機している。
シャンパンはmoetのハーフボトルが上手い事、その小さな冷蔵庫に収まったし、ケーキもさすがにホールは大き過ぎて食べきれないのではと心配に なったが、アンリ・シャルパンティエの二人用というサイズの小さなホールケーキを見つける事が出来た。少し恥ずかしかったけれど、”Happy Birthday Hayami さん"のプレートも付けてもらった。
ローソクは長いのを3本、短いのを3本。最初は33本も差さないといけないのかと焦ったが、最近はそうやって代用するのが主流らしい。昔は誕生日ケーキ にローソクを差してお祝いするのは子供の特権だったが、昨今は大人もそうやってお祝いするのも当たり前になってきた。
シャンパングラスだけはさすがに会社には無く、結婚式の引き出物で貰ったペアグラスがちょうど良かったので、タオルにくるんで持って来た。後は真澄が 入って来た瞬間に驚かせるためのクラッカーを数個。
ベタだとは思ったが、あの真澄にはこれぐらいベタでちょうどいい。苦虫を潰したような顔で、クラッカーの音に『寿命が縮んだ』などと文句を言う真澄の顔が 浮かんで、マヤ は思わず一人笑いした。

 




社長室の大きな柱時計の秒針の音だけが異様に響く室内。祝日なので、当然オフィスには誰もいない。
とある舞台公演のイベント帰りに、真澄よりも一足早くオフィスに戻った水城と待ち合わせ、オフィス内に侵入させてもらったが、一通りの準備が整ったのを見 届 けると水城は帰って行った。クラッカーの音に驚いて、真澄が転んだらぜひ写真を撮っておいてくれ、と悪戯っぽく笑いながら。

水城の話では後三十分もすれば、真澄もオフィスに戻るという事だった。しかしすでにもう一時間も経過したが、真澄が訪れる気配もしない。
もしかしたら気が変っ て、オフィスには寄らずに家に帰ってしまったのではないか。いや、誰かと出会って食事にでも行ったのかもしれない。
そもそも仕事をするとは言っていたが、夜 まで仕事をしているとは確かに誰も言っていない。自分が知らないだけで、誕生日の夜を誰かと約束していたとしても少しは不思議ではない。どうしてそこに思 い至らなかったのだと、今更の疑心がドミノ倒しのように押し寄せる。

だが落ち着け、と再びマヤは自分に言い聞かせる。
水城の話によれば、真澄は必ずオフィスに戻ってくると言っていた。連休明けに必要となる仕事の資料を、 敢えて真澄のデスクに置いてきたと伝えたそうだ。あれを仕事の鬼の真澄が読まないはずがない、とも。ここまできたら今更だ、とマヤは腹をくくる。


日没を過ぎ、大きなガラス窓の向こうには、夜の帳が下りてくる。
休日のオフィス街にはポツポツと小さな四角い灯りが、ところどころに灯るだけだ。誰も 居ない事を装うこの部屋で、照明を付ける訳にもいかず、じっと応接セットのソファーの影で身を潜めるマヤは、その静けさと暗闇の中で、いつしか堪え難い眠 気に襲われる。連日夜遅くまで続いていた新しい舞台の稽古や、取材の疲れが溜まっていた事に今更気付く。そして今日のあれこれを想像するあまり、昨晩も興 奮してほとんど眠れなかった。
マヤの身長をゆうに越える、大きな黒いレザーソファー。暇を持て余し、思わずそこに横になってしまったのが間違いだった。肘掛けの高さは枕にぴったり で、その柔らかな包容力はあっという間にマヤの体から最後の気力を抜き取り、抜け殻となった肉体だけをそっと包み込む。クラッカーを握り締めた両手にマヤ は頬を寄せる。

「早く帰ってこーい、誕生日男ぉ……」

寝言ともつかないそんな一言を放つと、それを最後にマヤの意識はプツリとそこで途絶える。





イベントのレセプション会場で、懇意にしているスポンサー企業の重役に引き止められすっかり予定より遅くなってしまった。
社長室の前まで辿り着き、改めて左腕の時計を見て、真澄は溜息を吐く。しかしこうして遅くなったところで、別段困る事も無かった事に思い当たると苦笑 する。例え今日が、自分の誕生日だとしても何も問題はないのだ。

いや、違う。問題がない事が問題なのだ。

そう認めてしまうと、今日という一日、無駄に仕事に没頭する事で追いやっていた事実が、再び心の中の暗い部分を占拠し始める。その部分を闇とまでは言いた くないが、子供のような純真さで誕生日を心待ちにする時代はとうの昔に終わったとは言え、寂しさや虚しさに近い感情で誕生日を迎える自分。
例えて言えばそれは何年も前に絨毯の上にこぼしてしまった赤ワインの染みに似ている。赤黒いそれは、月日とともに多少薄くはなったとしても、そこに染みと して存在する事を諦めない。好むと好まざるに関わらず、それはそこに存在し続ける。この世界で起こってしまった、疑いようのない一つの事象として。
それは
、自分を産んでくれた人に もう二度と会えない自分にとっ て、最近よく聞く『生まれてきてくれてありがとう』などという台詞はきっと一生聞く事もないし、『生んでくれてありがとう』という台詞を自分が言う事も叶 わないという事だった。
結局のところ、自分が誕生日を迎えるたびに気付かされる事は、自分はこの世にたった一人の存在であるということだけだ。不用意に付けられた、絨毯に零れた ワインの染みは、そうしてあの日から少しもその場所から動かない。速水真澄として生きると決めたあの日から……。

自分の誕生日をそん なふうに、忌々しさの象徴としか捉えられない自分を持て余しながら、真澄は先程よりも更に深い大きな溜息を吐くと、社長室のドアを開けた。窓の外の夜景の 光が、暗闇の中に部屋の輪郭が浮かび上がらせる。

真っ直ぐにデスクに向かうと、真澄は疲れた体をドサリと椅子の上に投げ出し、窓のほうへ椅子を回転させる。
結局の所、本当に過ごしたい人と過ごせないのであれば、誕生日になどさして意味はないのだ。
こんなふうに感傷的に想いを巡らせるのが嫌で、こうして仕事を 詰 め込んだというのに結局同じ事に囚われている自分に苦笑する。
天井を仰ぐ様にして 首を後ろに反らすと、座り慣れた椅子のレザーの柔らかさに、十数秒じっと自分の想いを沈める。気持ちが乱 れた時はいつだってそうしてきた。

それで済むはずだった。
少なくともこの2年はいつだってそうやって、自分の気持ちを抑えつけてきた。

2年前、ありとあらゆるものを犠牲にして漕ぎ着けた婚約解消。
提携事業に対して突きつけられた不利な条件の数々や、動き出していた事業の一方的な取りや め、そういった会社としての実質的な被害は想定していた。だがそこに、道義的責任として、鷹宮会長から直接、ある念書を個人的に書かされたのは想定外だっ た。
内容は、婚約解消後、一切の女性関係を露呈させない事。真澄サイドにおいて、婚約、結婚はもちろん、一般的な恋愛関係を踏まえての付き合いも世間に知られ る様な事があってはならない、という事だった。あくまでも婚約解消は家同士の問題である事を世間に示す必要があり、紫織の名誉に傷がつくような事があって はならない、という事らしい。鷹宮会長が直々に、真澄にそう突き付けた禊の期間は最低2年とされた。
世間体を通してでしか、紫織という人間の価値を守ろうとしない鷹宮家の在り方に、なんとも言えない後味の悪さを感じたが、そもそも企業同士の利益以外、な んの価値観の一致も見る事がなかった両家の関係性を思えば、意外性のない結末とも言えた。
鷹宮会長と交わした念書の中には、あくまでも女性関係を”世間に露呈させない”とだけあった。世間に隠してマヤに想いを告げる という事も、あるいは出 来たかもしれない。だがそこは、真澄も一人の男として、人として、紫織の気持ちを考えない訳にはいかなかった。

自分は確かに彼女を傷つけた。
させなくてい い想いをさせ、するはずのない行動を取らせた。相手が自分でなければ彼女はとっくに幸せな暮らしをしていたはずだ。彼女のために最適の温度に保たれた温室 の中で。その温室から彼女を無理矢理外へ連れ出したのは、間違いなく自分であったのだから……。

そして自分の一連の勝手な行動により、会社が被った損害も甚大だった。この2年の自分の全てをその贖罪と補填に費やす事で、自分自身への禊とすると真澄は 決めたのであった。


『2年だけ、俺を信じて待っていて欲しい』

例えば、そう告げなかった事を悔やんだ事もある。ことにマヤが共演俳優との熱愛を噂された時など。みっともない程に動揺し、そしてみっともない嫉妬に苦し んだ。
また時々無理に食事に誘って、一緒の時間を過ごす時など、想いを抑える事に尋常ではない理性を必要とする事も多々あった。過去何年もの間、マヤに対して己 の気持ちをひた隠したきた苦しい時代があったが、この2年はそれとはまた違う種類の苦しみがあった。二十歳を過ぎ、固い蕾がゆっくりとほころぶ様に、女と しての魅力が開花しつつあるその花を、手折る事も愛でる事もできずに、ただ側でその香りに酔うだけ。
その一方で他愛もない事で心の底から笑い合ったり、かと思えば、ちょっとした事でからかうと顔を真っ赤にして本気で怒られたり、二人きりで居る時だけに流 れる気の置けない、真澄にとって最も安らげる時間、その重みが増していったのも事実だった。

想いを告げた結果、もしもこの時間を失うような事になったら……。

そう思ったのは一度や二度ではない。
おごってやる、と言えば喜んでついては来るが、一体自分の事をマヤが男としてどう思っているのか。まさか本当に財布の一部と思われているのでは、そんな不 安が脳裏をかすめる。


間もなく禊の2年が終わる。
なんの因果か、念書の日付は誕生日の翌日、11月4日になっている。激務の仕事を理由に誕生日を無理矢理忘れるのが許されるのも、恐らく今年が最後だ。

今日という日が終われば、今度こそ自分は──。

その先の妄想と邪念を振り払うように、真澄は首の骨を数回鳴らし起き上がると、水城がデスクに残しておいた資料へと手を伸ばす。まずは目の前にある仕事 だ。そう言い聞かせた。

小一時間もそうして作業をしていただろうか。軽く資料に目を通したら帰ろうと思っていたのに、つい没頭してしまった。資料の不備にも気付いてしまい、どう しても水城に確認したくなる。明日の朝ではもう間に合わない。休日の夜に電話などすれば、どんな嫌味を言われるのかと一瞬ためらったが、今更だ、と真澄は 水城の番号を呼び出す。
優秀な秘書は、わずか2コールで電話に出た。

「休んでいる所に悪いな。用意してもらった明日の買収の件の資料だが、数ページ抜けている。大元のファイルがどこにあるか教えてくれないか?」

「ああ、それでしたら──」

資料が存在するパソコンのフォルダの階層を水城はそらでスラスラと教えてくれる。複雑な共有フォルダのパスすら暗記していた。

「ああ、あった、これだな」

カチリとマウスのクリックする音が、静かな社長室に響く。探し物は見つかった。

「すまなかった。助かったよ」

礼を言って電話を切ろうとすると、訝しげな水城の声がそれを引き止める。

「真澄様、今、何をしていらっしゃるんですか?」

「何って……、仕事以外に何があるっていうんだ?」

「お一人で?」

「当たり前だ。こんな時間にこの場所で仕事をするのは、俺ぐらいだろ」

水城の言っている事の意味が分からず、真澄はそれが誕生日の夜である事への今更の嫌味と当てつけなのかと、多少乱暴な声音になる。

「誕生日の夜に一人で仕事をしている寂しい男だと笑ってくれるのは構わないが、わざわざ口に出す必要もないからな」

恐らくこの後出て来るであろう、水城の嫌味に対して先手を打ったつもりが、暴走した被害妄想がそのまま飛び出してしまったようなバツの悪さを感じ、真澄は 口ごもる。何とも言えない奇妙な間が出来ると、電話口の向こうで水城がクスリと小さく笑った。

「もう、二年になりますわね……」

沈黙の向こうから、穏やかな声がそっと真澄の鼓膜に触れる。

「もうそろそろ、いいのではないですか?」

先程までとは違う波長で鼓膜に触れるその声は、まるで真澄の表層を構成する粒子の隙間から抵抗もなく体内に入り込む。有能な秘書がいったい何について語 り、何についてもう時効だと自分を諭すのか、余計な説明はいらないと言われたかのように。
 2年前、鷹宮と交わした真澄個人の念書について、水城がその存在を改めて確認する事はなかったが、マヤに対して煮え切らない態度を取る自分に対して疑問 をぶつけてきた時に、それとなくその存在を知らせた。2年は手を出せない事になっていると。
詳細を聞いて来る事はなかったが、それ以後余計な事を言ってくる事もなく、マヤという存在の微妙な位置については水城自身もよく理解しているように真澄は 感じていた。

「ご自身のお幸せについて考えられても、もういいのでは?」

自分の幸せ──。
生まれて初めて聞いた言葉のような気がした。幸せになりたい、と思ったことはおそらく一度もない。考えた事すらなかったように思う。あまりに縁の無い言葉 だった。

「幸せか……。本当にそんなものがこの世にあると思うか?」

珍しく弱気な声が出てしまった。まるで自分に対する自信の無さの欠片が意図せずこぼれ落ちたかのように。その声に電話の向こうで、水城がフッとまた小 さく笑った。

「真澄様の幸せはきっと、すぐ目の前にあります。
あなたにとって一番大切なものは、あなたのすぐそば、もし かしたらもう手の届くところにあるかもしれませんよ」

「幸せの青い鳥の話か?現実的な君がそんな事を言うなんて珍しいな」

「いいえ、私は現実的な話をしていますのよ。
よーく周りを見て下さい。パソコンやデスク以外ですわよ。 もうお仕事はいいですから」

もったいぶったような水城の言い方がどこか真澄の意識を刺激する。何かが引っかかるような物言いだ。

ふとその時、とんでもないものが真澄の視界に入る。

最初は見間違いかと思った。
このデスクから見慣れた社長室の光景。目の前にはブラックレザーの応接セット。デスクに平行に置かれた、一番大きな来客用のソファーはいつも通り背もたれ をこちらに向けてその場所に鎮座している。ただし小さな違和感が真澄の動悸を一気にあげる。
ソファの左端、肘掛けの部分から長い髪の毛がほんの一筋、零れ落ちている。
何も知らない状況でそれに気付いた場合、軽くホラーであったかもしれないと真澄はあとでこの時の事を思い出す。けれどもこの時の己の気持ちは、その存在を 確かめたくて、本物であれば今度こそこの手で触れたくて、駆け上がる様に高揚する。

「水城君、切るぞ」

それだけ言って真澄は電話を切る。深夜の非礼を詫びる事も、あるいは状況を説明する事も忘れ、思考の一切を停止させられたまま、この世の強力な磁力に引っ 張られるように真澄はソファーの前へと歩み寄る。

まるで子供のように無防備に眠るその姿に、長い事自分が森の中を彷徨いながら探し続けていた青い鳥が、森の一番深いところで誰にも知られずに眠っていたよ うな錯覚を覚える。木の枝を寄せ集めた大きな巣の中で、小さな体を丸める様にして眠るその姿は、目には見えない神聖な眠りの膜で覆われているかのように、 この 眠りは強固なものだと訴えていた。
過去に二度、眠っているこの存在に口づけた事が脳裏を過る。
一度目はその想いをようやく己の中に自覚した時、そして二度目はその想いを葬り去 る事を決意した時。どちらの想いもマヤに届く事はなく、それゆえマヤが目覚める事もなかった。

だが今日は、青い鳥は目を覚まさねばならない。
いや、目覚めさせなければいけない。
それが出来るのは自分だけだ。

そっとその場に跪く。
顔にかかった髪をそっと耳にかけ、その柔らかな頬に触れる。眠りの膜にまだ亀裂は入らない。
その温かな人肌を感じさせる頬の温度を、手のひらで感じる。
十年分の想いが今溢れる。

世界で一番愛おしいその存在に、そっと真澄が口づける。
神聖な眠りの膜に、ようやく微細な亀裂が走る。
マヤの眉間がかすかに揺れる。

三度目の正直。
おとぎ話のお姫様は、ようやくその深い眠りから目を覚ます……。

 



2014.11.04





…to be continued




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