30 AND THAT'S ALL ...?(それでおしまい) 
"いつかこの道の続く場所で…… 5"
written by 杏子
「軽い日射病と、疲労が溜まっていたみたいだな。無理もない……」

病室にかけつけた真澄は、できる限りの穏やかな表情を瞳に湛えながら、そっと手のひらをマヤの頬にあてる。触れた真澄の指先が冷たいのは、自らの熱のせいなのか、それとも真澄の指の温度が何ものかに奪われたのか、考えようとしてマヤはやめた。

「違うんです。そうじゃないんです……」

真澄は訝しげに左眼だけを一瞬、痙攣させる。

「何が違うんだ?チビちゃん」

「帽子が……、麦藁帽子がキレイだったの。目の前で、ふわふわと踊るみたいに誘うから、私もそこに行って踊りたかった。
帽子が潰れた時、聞こえたの。頭の骨の砕ける音とか、体が潰れる音が。
私、あそこに飛び出したかったの。飛び出して、砕けて、潰れてしまいたかった……」

嗚咽するわけでもなく、叫ぶわけもなく、淡々とマヤはそう告げると、音のない涙が頬を伝う。

「速水さん、ごめんなさい。もう、あたし、限界です……」

限界です━━。

その言葉に真澄は打ちのめされ、微動だに出来ない。ここまでマヤを追い詰めたのは誰なのか?自分もその一人ではなかったのか?
次々と脳裏に浮かぶ、慰めの言葉は、襲ってくる悔恨と、怒りに押しつぶされ、喉元を通過する前に破裂する。

言葉が見つからない。
言うべき言葉が見つからない。

「少し、休むか?」

やっと、出てきたその抑揚のない言葉を、マヤは不思議そうに見つめる。
今、自分がマヤに縋ってしまっているということ、自分の無力さを痛感しているということ、その全てがマヤに伝わってしまっても構わない。いや、実際はそんなことを感じたり考えたりしている余裕など、どこにも残されておらず、細い絹糸のようなものででもいいので、マヤを繋ぎ止めておきたい一心でそう言う。

マヤは白い枕の上の頭を、こくりと小さくたてに動かす。その答えを確かめようと真澄が、言葉を探した瞬間、マヤの口元が小さく動く。

「でも、今の舞台はちゃんと最後までやります。何があっても、最後まで立ち続けます……」

疲れきった淀んだ瞳の中で、一瞬小さな光が揺れる。その最後の光に、期待をかけすぎてしまう自分に真澄はすぐに気づく。これ以上追い詰めまい、そう思ってる側から自分はどう考えても、女優であるこの子を失うことなどできるはずがないと、思い知らされる。

「少し休めば、違うものがみえてくるかもしれない」

そう付け加えた真澄の言葉も、マヤは聞こえなかったのか、聞こえなかったふりをしたのか、閉じた瞼は何も言わなかった。

白い清潔な布団が、胸の上で、ただ小さく上下する。






マヤの無期限休養が伝えられたあとも、舞台は何事もなかったかのように公演され、マヤも何事もなかったかのように舞台に立ち続けた。
けれども、その舞台を見たものは、誰もが気づかずにはいられなかった。

『何事もなかったわけがない』

ということに……。

マヤは泣き叫ぶでもなく、派手な舞台栄えする演技をするでもなく、淡々と演じる。けれども、見ているものはそのジワジワと詰め寄る、自らを縛りつけるような演技に、ただ息を飲む。
それは映画でもTVドラマでもなく、日々変わり行く、生の舞台だからこその醍醐味であり、そして恐怖でもあった。
マヤの演技は日ごとに凄みを増していく。その姿は、その身を削り、魂を削り、少しずつ舞台の上に自らの血痕を残していくような作業にさえ見えた。
そして、それはラストの陽子が遺書を自ら読み上げるシーンで、この世のものとは思えない限界点に達する。
それは、まさに”永遠に一番近い一瞬”と呼ぶにふさわしい、禁足の世界を見るものに見せつけ圧倒する。



”けれども、いま陽子は思います。
一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、
氷点があったのだということを。
私の心は凍えてしまいました……”




マヤは思う。
かつて、これほど自分の心情を吐露する台詞があっただろうか、と。
一途に、何があっても起こっても、演劇だけを心の支えに、それだけをよりどころに生きてきた自分の心が、凍ってしまう瞬間があったなんて……。

例え毎日公演が続いたとして、毎日同じ舞台を演じたとして、マヤには同じ演技を繰り返しているという感覚は皆無だった。それは、一度きりの奇跡を繰り返すかのように、毎日マヤの体を縛り、そして数時間後に開放させる、一時的な麻薬のように、舞台の上でマヤの精神を飛ばす。

これほど精神的、肉体的に弱っていることを自分自身でさえ自覚している状態であるというのに、不思議と舞台に立つのは、辛くはなかった。
むしろその逆で、舞台に上り、他人に乗り移り、北島マヤを放棄しているその瞬間は、何もかも忘れられ、自分を取り巻く一切の醜いものが存在すらしないふうに振舞うことが許され、そこは自分を解放することが出来る、唯一の場所であった。

そして、マヤの精神は絶望的に、研ぎ澄まされていく。

少しずつ歪んでいく、自分のまわりの空気を、マヤはまるで他人のものを見るように見つめていた……。






公演もあと残すところ1週間となった。
舞台以外の全てのものを意図的にシャットアウトする生活をしていたマヤは、いつもより早く帰れた自宅で、ふと思いついてパソコンを立ち上げる。
機械の苦手なマヤは事務所を通じて用意されたそのパソコンも、ときたまネットやメールをチェックするだけで、さして活用しているわけではなかった。
そういえば、もう2週間もメールをチェックしていない。とても、そんな気分にもなれず、あの病院に担ぎ込まれた日以来、パソコンに触ることもなかったのだ。
マネージャーに教わった通りに、Outlookを起動させ、受信操作を行った瞬間、ぼんやりと画面を眺めていたマヤは予告もなく頭から水を浴びせられたような衝撃を覚える。

新着メール1023通。

その桁外れの数に、マヤは目を疑う。しかも、メールボックスは許容受信量を超えてしまったようで、いくつもの警告メールが入っている。結局、ここ一週間のメールは全く受け取れていないことが分かった。

マヤは夜の無機質な静寂の中で、白い光を放つモニターの前で呆然とする。

1023……。

その数字は全く理解できない。マヤ自身のオフィシャルサイトはないが、大都芸能のオフィシャルサイトに以前からマヤのファンメールが送られてくると、それが転送される仕組みにはなっていた。そして、メールボックスの左側の送信者アドレスは、きれいにその一つの名前で統一されていた。

スクロールを一番下まで下げると、マヤはその未開封の一通目をクリックする。

”それでもマヤちゃんが大好きです”

という件名のものを。



2003.7.21



<FIN>










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