7月7日、晴れ 2
綺麗に色の落ちたインディゴブルーのカプリパンツの次に、白い短いトップスが目に入る。今年流行のデザインなのか、肩の部分が落ちたデザインのそれは、その薄い、細い、華奢な肩を惜しげもなく空気に晒していた。
そして、こちらを見下ろすように見つめていたその瞳と目があった瞬間、聖はその笑顔に呼吸を止められ、いきなり心臓を掴まれる。
決して忘れるはずはない、そう思っていたその顔も、夜毎の夢で抱きしめていたはずのその体も、現実の美しさは、まるで初めて見るもののように聖を圧倒し、薄れた記憶を鮮烈な絵の具で塗り替えていく。

「やぁね、そんなにびっくりしないでよ。呼んだのはあなたでしょ?」

そう言って杏樹は、テーブルに片手をついて体をかがめると、その肉感的な唇を聖に重ねる。

「ホンモノだよ」

眩しいほどの笑顔で、聖の心臓を容赦なくぎゅっと言わせると、さらに耳元で囁く。

「羽根は置いてきたから、あたし、今日は正真正銘の女だから」

有無も言わせず、聖の膝の上に横座りになると、その細い腕を聖の首に絡めるように回すと、目線の高さを揃える。

「もぉ、いつまでもびっくりしてないで、キスしてよぉ」

聖は、苦笑しながら軽く目をふせ、頭を左右に振ると、ようやく言葉を発する。

「キスだけでは済みませんよ、今日は」

そう言って、ようやく重ねた唇は、次第に熱を帯び、聖の熱く、激しい思いを容赦なく送り込んだ。






レストランで食事を取ると、無駄に時間がかかるから、さっさと済むところがいい、という杏樹の提案で、二人はセルフのサンドウィッチハウスに入る。聖にしてみれば、今すぐにでも杏樹と二人きりになってしまいたいという、暴走するような感情を持て余すほどであったわけだが、そんな聖の気持ちさえ見透かしたように、杏樹は笑う。

「腹が減っては戦はできん!って言うじゃ〜ん」

杏樹が言うには、今日は人間として降りてきているので、人間のように空腹も感じるし、喉も渇くという訳だ。そして、杏樹をテーブルに残し、オーダーに立った瞬間、杏樹は何か急用を言付けるかのように、聖の耳を呼び寄せる。

「ってことは、Hも出来るってことだから♪」

さらっとそんなことを耳元で囁いて、聖以外の誰の目にも止まらない素早さで、聖の太ももの内側を一瞬なぜる。耳に感じた、杏樹の温かい息とともに、それは聖の体温を一瞬にして上げた。
自分の感情は何もかも、彼女に見透かされてしまっていると分かると、苦笑せざるを得ないが、不思議とそれは不快感や羞恥心には繋がらなかった。自分では抱えきれないほどのこの感情を、形にするように彼女に見てもらえるのであれば、それはそれで構わない、そういう思いさえあった。


聞きたいことは山ほどあった。

レジに続くガラスケースの前に並びながら、聖は思う。
どうやって、人間の姿を得て、こちらへ降りてきたのか。
そもそも、そんなことは可能なのか。
そして、どれぐらいそうしていられるのか。
ふと、答えを聞くのが不安になって、テーブルの方へ振り返る。聖の視線に気づいた杏樹は、こぼれるような笑顔を浮かべると、両手をヒラヒラさせてそれに答えた。

(今は、まだ、考えないようにしよう……)

押し寄せる不安を、隠すように、押し戻すように、聖は胃の奥底へ押し込むと、サンドウィッチをオーダーする。






杏樹の注文どおりに、イタリアンサラミのパニーニサンドを3つ、ダイエットコーラのLをトレーに乗せ、聖がテーブルに戻ってくると、見知らぬ男がそこには居た。
その男の風貌からしても、その雰囲気からしても、一瞬にして事態の状況を悟った聖は、露骨に顔をしかめる。
音を立てて、乱暴にトレーをテーブルの上に置くと、グラス一杯に入ったコーラがこぼれ、トレーの上に小さな茶色い水溜りを作る。
そんな聖の様子に、杏樹は驚いたように目を見開く。それさえも聖の神経を逆なでているとは気づかずに……。

「僕の恋人に何か用ですか?」

ストレートに男に対してそう言うことが、大人気ないとか、無骨なほどに露骨であるとか、そんなことは少しも気にならなかった。気に食わなかったのは、自分がほんの数分目を離しただけで、杏樹に纏わりつく、男の存在であった。
男はヘラヘラと薄ら笑いを浮かべると、そのまま退散していったが、妙な気まずさがテーブルには残される。

「怒ってる?ねぇ、怒ってるの?」

この場合、怒ってないと言ったところで、なんの意味もなさないだろう。

「そんなこと聞かなくたって、あなたには私の心が手にとるように分かるはずですが……」

聖はそう吐き捨てるように言った瞬間、言ったことを後悔した。途端に曇ってしまった、杏樹のその悲しげな顔を見て。

「……見てないよ、あたし。信じてもらえないかもしれないけれど、こうして人間として、普通の女として唐人の前に居る時ぐらい、少しでも、人間らしく、普通の恋人らしく、その辺の女の子らしく、居たいなぁって、思うから。そういうふうに唐人にも見て欲しいなぁって思うから、見てないよ、唐人の心の中……。ホントだよ……」

俯くその顔から聞こえる声の語尾は、らしくないほどに震えている。

「杏樹さん……」

聖の指が俯いた杏樹の顎へと伸びる。そっと触れただけなのに、ただ、触れただけなのに、ビクリと杏樹の肩が揺れる。

「今だけ私の心を読んでくださいと言ったら、あなたはきっと怒るでしょうね。だから、私は、恥じを承知で凄いことを言いますよ」

聖の瞳が切なげに、苦しげに揺れる。言葉にすればするほど、本当の思いはどんどん薄まっていってしまうようで、うまく伝わらないのでは、という不安があったが、伝えないわけにはいかなかった。

「あなたを見ていると不安になる。
今までは見えていないから、不安だった。けれども、今は、あなたを見ているから不安になるんです。
あなたが、あまりにも美しく、魅力に溢れ、私などの手の届かないところに今にも飛んでいってしまいそうで、不安になるんです。あなたには、飛びたくなったら飛んでいける、羽根があるから……」

杏樹の頬を包み込むように置かれた聖の大きな手のひらが、何かを確かめるかのように、親指だけを動かして、頬の肌の細胞の上をなぞる。

「私はあなたに恋をしています。そして、あなたの周りの私以外の全てのものに嫉妬できるほど、この恋に支配されています。
そして……、あなたを失うことを何よりも恐れています……」

聖のその思いつめたようで、それでいてどこか心の重しを開放させたような、澄んだ瞳に吸い込まれるように見つめていた杏樹はゆっくりとその細い指を自らの頬にある聖の手に伸ばす。重ねるようにあわせたお互いの手の温もりに、瞼を閉じながら、言葉を選ぶ。

「あなたにも読めればいいのに……。全部、あたしのハートの中身、見えちゃえばいいのに。唐人のことしか考えてなくて、唐人しか居ない、あたしの心が読めたらいいのにね……。こんなに、こんなに、あなたのこと好きだって、見えたらいいのに……」

聖は思う。きっと、二人は今、同じ瞳の色をしているだろう、と。同じ強さで間違いなく、惹かれあっていることを、理屈ではなく、温度で感じる。


「ねぇ、キスしたい」

「人が見てますよ」

聖は言っても無駄だと分かっていながら、一応そう口にする。

「見てたらイヤなの?」

聖は敵わないというように小さく苦笑すると、諦めたように顔を近づける。

「私は構いませんが、周りは嫌がるでしょうね。あなたの唇を奪える私に対して……」

そこまで言うと、戸惑うことなく聖は、魅惑的に、誘うように、尖らせた杏樹の唇に自らのそれを重ねる。

カフェの喧騒も、周りの好奇な目も、さっきまで漂っていたサラミの匂いも、全てが消える。
あるのは、ただ目の前にある、確かに今この瞬間触れることの出来る、その柔らかな唇の感触と、キスの合間に交わる、濡れた瞳と、自分を包む、薄い香水の香りだけだった。
ふと、唇の端を噛まれる。

「ねぇ、どうして、こんなにキスが上手いのよ。一体、今まで何人の女とキスしたのよ」

唇を薄く噛むようにあわせたまま、からかうような、それでいて少しふくれたような笑顔で、自分にだけ聞こえる声でもって杏樹が囁くと、聖は同じような笑顔を浮かべて言い返す。

「言ったら嫉妬されるので、言いませんよ」

「もぉっ!」

その一瞬、一層強く唇を噛んで、ミツバチのように針を刺すと、杏樹は聖の唇を開放し、作ったような脹れっ面で、テーブルの向こうの聖を睨む。

「あとで覚えてなさいよ〜」

悪戯っぽい、なんともいえない表情で意味ありげにそう言うと、パニーニサンドに大きな口でかぶりついた。





2003.7.7



…to be continued










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