7月7日、晴れ   3
「ねぇ、手ぇつないで歩いちゃだめ?」

新宿の雑踏を歩きながら、杏樹は唇をアヒルのように悪戯っぽく横に伸ばしながら言う。
ダメなわけがない。もちろん、少しの照れは隠せないが。
黙って、聖は自らの左手の指を杏樹の右手のそれに絡ませる。
今朝方は晴れていた青空がどんよりと曇りだし、周りの空気はジメリとした湿気を含み、重くなっている。つないだ手もどこか、熱を帯びて汗を感じるが、それが湿度のせいなのか、それとももっと別の理由のものによるのか……。
聖は頭の片隅で一瞬、そんなことを考えるが、いずれにしても少し湿ったお互いの手のひらに対して、不快感を感じることは少しもなかった。

二人が並んで歩くと、ゆうに10cmを越えるピンヒールを履いた杏樹も聖も180cmを超えるわけで、雑踏の中でも頭一つ分飛び出すほどに目立つ。そんな二人が並んで歩く姿は二人が意識しなくても、人の目を惹いた。すれ違いざまに、好奇な目で何かを囁く女子高生の集団に聖は苦笑する。

「ね〜ね〜、あの二人どっかでみたことない?ゲーノー人じゃなかった?」

「モデルじゃない?ゲロかっこい〜」

不思議な思いがする。影の存在であるはずの自分は、人目につくことも、人の記憶に残ることさえ許されないはずだった。こんなことは、本当は許されない、そう思う一方で、きつくきつく今まで自らを縛り付けていた鎖が、断ち切られたたような解放感も感じる。存在そのものを否定され、抹消され生きてきた自分が、たった一人に愛され、そして愛することによって、全てのものが突然、色を持ち、音を持ち、香りを持って、その存在を聖自身に訴える。そして、聖自身の居場所を指し示す。

 ここに居ればいい━━

そんなふうに……。



「あ、やだ、雨降ってきた」

パラパラと皮膚に当たる透明な粒に、杏樹の高めの声が反応する。

「傘、買ってきていい?」

「私が買ってきますよ」

そう言って、電気屋の軒下にとりあえず身を置こうとすると、杏樹は子どものような声をあげる。

「あたしもなんか、買ってみたい〜。お金、使ってみたい〜」

甘えたような声でそう言うので、聖は笑いながら杏樹に財布を渡す。子どもの初めてのおつかいのように、目を輝かせながら杏樹は財布を受け取ると、地面の雨水を弾かせながら、薬屋の軒先に消えていった。

しばらくすると、積み上げられたシャンプーの影から、愛しい顔がひょっこり顔を出す。ほんの数メートル先に居る、それだけのことなのに、誰もが彼女を振り返るその様を見ていると、途端にいい様のない思いに胸が疼く。

不安

嫉妬

そして、愛情

そのどれもが的確に、自らの体を心地よいほどの甘さで侵していく一方で、頭の一隅は不自然なほどに醒め切っていて、冷静に冷静に、この瞬間が続かないことをカウントしている。

彼女はもうすぐ、また自分の手の届かない存在になる……。

電気屋のアーケードから冷たい雨の滴が肩に落ちた。



ピンクの透明なビニール傘が目の前で開かれ、途端に辺りが明るくなったような錯覚を覚える。

「お待たせしましたっ」

そう言って、駆け寄るようにやってきた杏樹はピンクの傘の中に聖を閉じ込める。

「わざと一本しか買わなかったよ。いいでしょ?」

そう言って、少しだけ照れたような顔で微笑む。頭の片隅の醒め切った部分をどこか遠くへ押しやるように、聖は微笑み返す。

「透明な傘でなかったら、隠れてここでキスでも出来たのですが」

聖のその言葉に、天使はニヤリと笑う。

「隠れなくたっていいじゃん」

そう言って、傘を持った手をそのまま聖の首に回すと、少しも周りのことなど見えていないというように、唇を重ねてきた。
瞬間、予想外の甘い味と香りが、口内に広がる。驚いて舌の動きが止まると、コロンと何かが歯に当たって、その甘い塊が押し込まれた。それを舌で一度転がして、正体を確かめると、聖はやられたという表情で杏樹を見る。

「だって、『あめ』が降ってるんだもん」

得意気にそう言いながら、杏樹は薬屋のレジで買ったという、レモン味ののど飴を聖に見せた。










「今度のマンションもまた、なんか寂しいねぇ」

背後で閉まった扉に、聖がかけた鍵の音が響くのを耳の奥で聞き流しながら、杏樹は言う。

「家具な〜し、雑貨な〜し、生活臭な〜しってカンジ?」

サンダルの紐を解きながら、杏樹はおどけたように言う。

「金魚の水槽なかったら、ここに人住んでるなんて、誰も思わないよ〜」

一向に聖が返事もしないのを訝しく思いながら、ようやく解けたサンダルから足を抜き、部屋に上がろうと玄関から振り向いた瞬間、杏樹は激しく強く抱きしめられる。

「もう、待てませんよ」

そう言って、聖はその細い腰を強く自分の方へ抱き寄せる。少し湿気で膨れた髪の間を、乱暴なほどの強さで指が犯していく。

「シャワー浴びたい」

無駄な抵抗を試みるように、杏樹の口からそんな言葉がこぼれ落ちるが、すぐにそれは聖の情熱的な言葉に遮られる。

「だめです、もう、遅い……」

そう言って、晒された杏樹の薄い肩に歯を立てる。
白い薄手のカットソーの下に自らの熱を持った手のひらを滑り込ませると、這うように、弄るように、その皮膚の上に熱を落していく。
杏樹の口から、耐えかねたように熱い湿った吐息がこぼれ落ちる。ちょうど窓の外の湿った雨模様の外気のような。
杏樹の呼吸が確実に乱れていくのを、見逃すことなく肌で感じながら、聖は意地悪く言う。

「まだ、シャワーを浴びたいですか?」

「意地悪ね」

答えながら、聖の頭に回した指先に力を入れ、髪を掴む。

「意地悪な男は嫌いですか?」

狙ったように聖は、耳もとで囁く。湿った吐息を確実に送り込みながら。

「ゾクゾクするぐらい好きよ」

掠れる声で杏樹は答えると、仕返しをするように、自らの足を聖の股間にすりよせた。



窓の外では強くなった雨脚が狂ったように、窓を叩く……。








2003.7.7



…to be continued










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