そんなあなたに恋をする 3
まだ、心臓がドキドキいっている。
何をどう言って、どうやってそこから飛び出してきたのか、思い出せもしなかったが、一つだけ分かっていることは、ひどくみっともない真似をしてしまったということだった。
マヤは社長室のある最上階のエレベーターのボタンを何度も押しながら、一向に昇ってこない数字にため息をつく。

(あぁ、今度こそ呆れられてしまったかもしれない。今度こそ、こんな子どもの相手なんか出来ないと愛想を尽かされてしまったかもしれない)

真澄にしてみたって、社長室のソファーの上などという場所で、何をどうこうなどとは考えていなかったに違いない。けれども、今まで二人の間で取り交わされてきた、ただのキスやただの抱擁の範囲を超えた真澄との密着に、完全にマヤの頭はショートしてしまっていた。

嫌だったわけじゃない。
嫌というよりも、むしろ…。
そうして欲しかった自分が居たのは、絶対に否定できない。
真澄ほどの大人の男が子どものような自分に対して、そういう気持ちを持つということに、マヤは途方もなくドキドキしてしまう。

(速水さんもあたしなんかとキスしたいとか、思うんだろうか…。
あたしなんかと、えっちしたいとか思うんだろうか…)

真澄ほどの男が自分を好いてくれるという事実に、マヤは今更ながら胸を締め付けられる。

(それなのに…、それなのに…)

どうして、うまく出来ないんだろう。
好きなのに、こんなにも好きなのに…。
もっといっぱい恋でもなんでも、しておけばよかったとさえ、マヤは一瞬思う。 真澄にがっかりされないよう、真澄の相手がちゃんと務まるよう、もっと色々なことを知っておきたかった。
キスだって、もっと上手く返せるようになっておきたかった。
ちょっと、大人なことをされても、突き飛ばしたり逃げたりなんかしないで、ちゃんと真澄に付いていける大人でありたかった。
けれどもその一方で、全部の初めてが真澄で良かったとも思う。
初めて、形のないはずの心を掴まれたのも、
初めて、”愛してる”という言葉を囁きあったのも、
初めて、続きが欲しくなるようなキスをしたのも、
初めて、悲しみでも怒りでもなく、ただ好きすぎて泣いてしまったのも、
そして、多分これから初めて、誰にも見せたことのない自分を見せるのも、全部全部、それが真澄であって、よかったと思う。

真澄の唇が触れた首筋に手を伸ばす。そんなはずはないのに、自分だけに見える印をつけられた気がした。そんなはずはないのに、そこだけ今でも熱を持っている気がした。首の後ろあたりから、何度も手のひらで首筋をなでる。
ただの”好き”という気持ち以上に、真澄のことを好きな気がした…。






結局、全て読んでしまった。
そんなことはするべきではない、そう言い聞かせる脳裏の声もすぐに届かないほどに、その赤い手帳に真澄は吸い込まれた。
日記は、毎日つけてあるわけではなかったが、二人がつきあいだすようになってから、ほぼ2日に一回程度、スケジュール帳の余白に小さな文字で書き込まれていた。マヤにしてみれば日記のつもりでもないのだろう。その時思ったことや、ふと堕ちて来た気持ちをとりとめもなく書き留めてあるようだった。
だからこそ、その飾り気のない言葉たちは、あまりにストレートに真澄の心のに飛び込んできた。
それらを読めば、その日の二人がまざまざと思い起こされ、またそれは、自分が、マヤと自分の距離が縮まらないことに苛立っていたことを思い出させた。そして、マヤの気持ちを勝手に推し量っていたことも…。

眩暈がした……。

愛されていること、こんなにもこの小さな少女のひたむきな思いを自分は受けているのだという事に、眩暈がした。
仕事の上で、決してマヤには言えないような卑劣な手段や、横暴を働くことも、大都芸能の鬼と言われる自分には、日常的なことで、そんな体の芯から悪党のようなこの自分を、この小さな少女は、何一つ疑うことなく、躊躇うことなく、真っ向から愛してくれている。その汚れなきつぶらな黒い瞳の向こうに横たわる、深い思いに触れ、真澄は自らを消してしまいたくなるほどに、恥ずかしくなる。
愛ゆえにとはいえ、嫉妬心と猜疑心に押し潰されそうになっていた自分を叱責したくなる。

今すぐ、マヤに会いたかった。
会って、この腕に抱きしめ、そして思いつく限りの愛の言葉を囁き、永遠の口づけを交わしたいと思う。もう、とても自分だけでは持ちきれない、この溢れる思いを、彼女の胸に預けたいと思う。

脱ぎ捨てた背広を右手で肩にかけ、赤い手帳を手に、真澄は社長室を飛び出す。






ようやくやってきたエレベーターに下界まで運ばれ、外に出てはみたけれど、辺りはまだ夕暮れどきだった。今日はもう仕事も入っていない。仕事の用事でもないのに、わざわざ真澄に呼び出されたので、もしかしたら、と期待もしたが、どうやらそれも空振りに終わってしまった。というか、自分で飛び出してきておいて、空振りも何もないのだが……。
時計を見ると、6時を少し回ったところだ。このまま家に帰る気にもならず、マヤはそのまま灯の灯りだした華やかな通りへと足を向ける。

(喧嘩をしてきたわけではない……)

そう言い聞かせてみても、喧嘩をした以上に、どこか気まずい思いが胸をかすめる。表参道の洒落たブティックで、無意識のうちに夏服に指がふれるが、その服が欲しいとか、着てみたいとか、そんな意識はどこにもなかった。

(早く、謝ったほうがいいのかもしれない……)

そんなふうにも思うが、一体何をどう謝ればいいのか、見当もつかない。そもそも、謝るべきことでもないのだ。謝れば済むことだったら、そのほうがよっぽど楽だとさえマヤは思う。

「うわぁ、コレ超かわいい!彼氏と旅行行くんだけどさ、これ持ってくぅー!」

ふと背後から弾けるように聞こえてきた、若い女の声にマヤは我に返る。振り向けば、薄いシフォンのスリップドレスを試着した自分と同い年ぐらいの女が、ランダムにカットされた裾をヒラヒラとさせている。

「うわ、犯罪でしょ、それ」

連れの友達は、広く開いた胸元を見ながら言う。

「いいのぉ、いいのぉ、リゾートだからこれぐらいアリなの。あたしだって、街中でこんなの着ないわよ」

そう言って、一瞬、その友人を制すように軽く睨むと、ふわりと裾を翻しながら、試着室の中へと戻っていた。

『旅行に行こうと思ってる』

真澄の声が、ふと胸の奥で自分を誘う。

旅行…、旅行…、旅行…。

マヤの中で小さな気泡がパチンと弾ける。
そうだ、自分はただ、喜べばよかったのだ。素直に喜んで、嬉しがって、ありがとうって、抱きつけばよかったのだ。楽しみにしてるって、キスでもすればよかったのだ。
先回りして、もう悲しんでる。
先回りして、ありもしない問題を勝手に抱え込んでいる。
先回りして、楽しい事をもうあきらめてる。
先回りをして、理由をつけて、真澄とぶつかるのを逃げている。



「あの…、これ、試着していいですか?」

マヤは、その下にはいったいどんな下着をつけたらいいのか見当もつかないような、その薄い素材のスリップドレスを手に取ると、そう尋ねた。






「ありがとうございました」

モデルのように美しい店員の、にこやかな完璧な笑みに送り出されながら、マヤは生まれて初めての衝動買いの高揚感に包まれる。
スリップドレスを買った。スケスケの薄紫の花柄だ。
ついでに、ビキニまで買ってしまった。旅行と言われただけなのに、すっかり海に行く気でいる自分に苦笑する。ワンピースに似合いそうな、サンダルまで買ってしまった。いつも自分が履いているものより、少しヒールのあるものだ。恋をしてる分、高いヒールが欲しくなる。そんな言い訳をしながら…。
それから、夏らしいキャミソールも2枚。カプリパンツをひとつ。真澄は旅行の予定は3日と言っていた。だったら、もうこれで充分なのだが、何を思ったのか、もう一枚白いコットンのワンピースも買ってしまった。
『恋は女の判断力と財布の紐を緩ませる』
この間出たドラマの台詞だ。

(あれはホントのことだったんだ)

マヤは一人思い出し笑いをしながら、大きな紙袋を肩からかけなおす。

「ああ、そうだっ!」

ブティックの階段を下りながら、思わず声を上げる。
下着がないのだ。いや、別に勝負下着を調達しようとか、そういうわけではなくて……。ただ、この買ってしまったシフォンのスリップドレス、本当に何を下に着たらいいのか、見当もつかないのだ。普通の、例えば自分が持っている下着なんかを着たら、途端にドレスは台無しになってしまうのだけは、分かった。

(どうしよう…)

あまり得意ではない分野の問題に、マヤは立ち止まって頭を捻る。脳内のお助けリストを順番に辿っていくうちに、急に電気が灯る。

「あ、ミオさんに聞けばいいんだ!」

ミオは、何度か仕事をともにしたスタイリストである。ちょど、今現在収録中のドラマでも撮影の際は、毎日顔をあわせるている。その飾り気のない性格が心地よく、話もよくあい、あまりこの業界の人間と打ち解けることが出来ないマヤの数少ない友人の一人であった。プライベートで会ったことはないが、そういえば、この間携帯の電話番号を教えてもらった。

(電話してみよう!)

そう思い当たり、マヤはごそごそとカバンの中から、電話番号が書き記された赤い手帳を探す。



「うそ…、ない…」

いつまでたっても、カバンの中を弄(まさぐ)る指先に、あるはずの感触を探し当てることが出来なくて、マヤはどんどん血の気が引いていくのを感じる。

「ないってことは…、ないってことは……」

最後に手帳を見たのは……、  

 ━社長室……。

そして、手帳を再び自分のカバンに仕舞い込んだ記憶は、

なかった……。

ドクンドクンと、血が鼓膜に響くような音を立てて流れ出す。心臓の内側を誰かがドンドンと叩いてるかのように、うるさくなる。

(ヤダヤダヤダヤダヤダッ!!あたしってば、あれ、速水さんのところに忘れてきちゃったの?あれを?!速水さんのところに??!!)

読まれただろうか、
いや、真澄はそんなことをする人ではない、
いや、でも、自分だったら読むかもしれない。
いや、でも、手帳は手帳であって、あんなことが書いてあるなんて誰も思わないから、見もしないかもしれない。そうだ、真澄がそんな自分のことを詮索するような真似などするはずがない…。
いや、でも、たしかページを開いたまま、落としてしまったような……。

体中から汗が噴出す。

震える指で、携帯の番号を押す。

trrrrrrrrrrr・・・・・・

鳴り響く発信音の向こうに居るはずの、その人の声を待つ時間は、一秒が永遠にさえ思われる……。


5.11.2003








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