| 天使が堕ちた夜 10
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『愛するマヤへ
この手紙を君が読む時、俺はもう君の前にはいないだろう。一方的に君の前から消えてしまうことを許して欲しい。 俺にとって、この一週間は俺の人生の全てだった。 叶うはずのない夢を叶えてもらった代わりに、俺は行かなければならない。 もう一度生まれてくることが出来るのであれば、君が生きているのと同じ時代に生まれ、君に出会い、もう一度君を 』 手紙はそこで終わっており、署名もなく、書き途中のような印象だった。白い便箋に書き連ねられた真澄のその文字は、美しく、そして残酷であった。 (やっぱり、速水さん、行っちゃうんだ…。紫織さんのところに行っちゃうんだ…) 真澄の言った 『一週間だけ一緒に居て欲しい』 という意味を、マヤがそれまで心の中で精一杯、否定し続けてきたその意味を、目の前に突きつけられたようで、喉の奥が締め付けられたように痛くなる。こみ上げてきたものがそこでせき止められ、今にも決壊しそうに喉を震わせる。 (こんなのって、ない…) 声を出してしまったら、叫び声になりそうだったので、マヤはそれらを押し殺して、涙だけを流した。便箋の上にぽたぽたと落ちた雫が、インクを滲ませたが構わなかった。 手紙はもう読まれてしまったのだから…。 もう、自分は真実を知ってしまったのだから…。 真澄に愛された喜びも、心が震えたあの瞬間も、思いが通じたあの奇跡さえも、喜びが強かったぶんだけ、今は残酷にマヤの心を切り刻む。 口内に鮮烈に蘇った苺の感触が、体を縛る。 (こんな思いをするぐらいなら、知らないほうが良かった。あのキスも、あの夜も、なかったことにしてしまいたい…) 手遅れなまでに知りすぎてしまった真澄の愛に押しつぶされそうになる。 真澄の愛が嘘だったと思うつもりはない。あのひと時は全て自分だけに与えられた真実だったと、今も信じている。でも、現実はこれほどまでに二人がともに居ることを拒否している。 (あぁ、どうして気が付かなかったんだろう…) 真澄は自分などが計り知れないほどのものを持っている。あまりにも違うところで生きている。 最初から決まっていたことなのだ。 真澄は全てを忘れるために、この一週間を選んだのだ。 自分は一週間で捨てられてしまう恋人だったのだ…。 思い切ったように涙を拭く。もうすぐ真澄が帰ってくる。あの残酷な偽りの恋人の仮面をつけて、帰ってくる。 慌てて、拾い上げた書類の下に手紙を忍ばせると、デスクの上に置く。 覗いた鏡に映った自分は、ぐしゃぐしゃな泣き顔で目と鼻が真っ赤にはれ上がり、この上なく醜かった。不器用に笑ってみる。もっと、酷い顔になった。 深呼吸してからもう一度、笑顔を貼り付けてみたら、それとは分からないような普通の笑顔になった気がした。痙攣するような頬の筋肉。 (これでいい、これでいいんだ…) そう思った瞬間、階下の玄関の扉が開く音がした。 ![]() いつも通りの食事、いつも通りの会話、いつも通りの二人…。マヤは器用に上手くやったつもりでいた。特に不自然な態度を取ったつもりもなかった。 それでも何も気付かないで済むには、この4日間で真澄はマヤの表情を知りすぎていた。 「おいで…」 食後のひと時、紅茶の入ったマグカップを両手で持ちながら、キッチンから出てきたマヤに真澄はソファーから声をかける。マヤは一瞬ビクリとするが、真澄とは目を合わせずにそこまで歩み寄ると、隣のソファーに腰掛ける。 その様子を見た真澄は、小さく苦笑すると、グラスの中の氷を一度揺らす。 「俺がおいで、と言ったら、君はそんな離れたところに座るのか?」 意地悪なようだが、とても優しい声。その優しさに溺れてしまいそうになる。 「な、なんで?十分近くに来てるじゃないですか。速水さんの話、ちゃんと聞こえるし…」 強気な口調で言ったつもりが、語尾が震え、一瞬目を合わせた真澄の目があまりに鋭く自分を見つめるので、マヤは呼吸が止まりそうになる。 「嫌なら無理矢理、こっちにこさせても俺は構わないんだがな…」 いつもならからかう様な笑みを口の端に浮かべて言うような台詞なのに、真澄の目は笑っていない。 「おいで」 言葉は同じでもさっきとは全く違う声音で真澄は言う。 「…ヤ、ヤダ…」 消えそうな小さな声でマヤがそれを拒否した瞬間、真澄は立ち上がると、ソファーの背もたれと自分の間にマヤを閉じ込めるようにして、覆いかぶさる。 顔のすぐ隣でソファーの背もたれに付くように置かれた真澄の手が、触れてはいないはずなのに、熱を持ったように熱く感じる。前かがみになった真澄の瞳が落ちた前髪の向こうで鋭く光る。 「御機嫌ななめの理由を聞かせてもらえるかな」 「な、なんで?別にアタシ、普通だと思いますけれど」 精一杯、悪態をつくような小憎らしい声を作ったつもりだった。 「それならどうして震える?」 真澄の視線がマヤが両手に持ったマグカップに注がれる。白濁したミルクティーの表面には小刻みにさざ波がたっていた。 声が出ない。 体も動かない。 唇だけが乾いていくのを感じる。 真澄は諦めたように、小さく笑うと、マヤの手からマグカップをそっと引き離し、テーブルの上に置く。ゆっくりとマヤのすぐ隣に密着する距離で腰を下ろし、体ごとマヤの方を向いて、ソファーの角に閉じ込める。手持ち無沙汰になって、力なく膝の上に置かれたマヤの右手をそっと取り、その震えを包み込むように、細い指先を強く握り締めた。 「俺にとって世界で一番恐い事は、君の考えている事が分からない時だ…。 君にそんな顔をされるのが何より辛い」 ソファーの背もたれに肘を付くようにして置かれていた真澄の左手が、そっとマヤの髪にふれる。真澄の長い指が根元からゆっくりと入れられては、その黒い髪の間を毛先までゆっくりと伝わっていく。指から髪がこぼれ落ち、はらりと髪が戻ってくる。何も言わずに、その動きを繰り返す真澄に対して、マヤはじわじわと追い詰められていくような、焦りを感じる。 「キスをしてもいいか?」 (聞くなんて卑怯だ…) マヤはそう思う。いつもいつも、不意打ちを狙って唇を奪うことを趣味のように振舞っていたくせに…。そういうキスが決して、自分も嫌ではない事を知っているくせに…。 そして、そう聞かれてしまったら自分は絶対に逆らえない事を知っているくせに…。 数日前の社長室での二人の初めてのキスが脳裏に蘇る。 『…嫌だったら言ってくれ…』 『止めないのか?』 そう断って、強引ではない手段で唇を重ねてきた。 そして、今もあの時と同じようにやっぱり、自分は断る言葉を知らない。 黙ったまま俯くマヤの顎に優しく真澄の指がかけられ、マヤの潤んだ黒い瞳が晒される。引力には逆らえないように、マヤの瞼も落ちていく。 渇いた唇が真澄の唾液で濡らされる。 ウィスキーの苦い味が、口に広がった。 今までで一番、苦いキスだった…。 「あと、何回ぐらいキスできるのかな…」 ようやく真澄から解放された唇からこぼれ落ちたマヤのその言葉に、真澄は凍りつく。 「…どう…いう意味…だ?」 マヤは冷静だった。恐いくらいに冷静だった。 「あと3日で何回ぐらいキス出来るのかなって、そう思ったんです」 マヤの髪に触れていた指が止まり、急激に温度が下がっていくような感覚が真澄を襲う。 『何を言っているんだ』 と冗談で笑い飛ばすにはマヤのその瞳は、あまりに核心を突いていた。思わず、今日一日の自分の取った行動を走馬灯のように脳内に思い浮かべ、自分が起こし得た過ちを真澄は探す。 「もっと、早くに気付くべきだったんです。速水さんの言った『一週間だけ一緒に居て欲しい』の意味に…。私、馬鹿だから、速水さんと気持ちが通じ合えただけで嬉しくって、先のことなんか考えられなくって、ただ嬉しくって幸せで…、速水さんの立場なんてぜんぜん考えられなかった。ううん…、本当は分かってた。痛いほどわかってた、でも…、私はずるい子だから、考えないようにしてた…」 シンと静まり返った室内に響く自分の声は、震えていて、今にも涙が混ざってしまいそうで、マヤは心細くなる。 「この一週間が終わったら、速水さんは、もとの大都芸能の社長の速水さんにもどって、アタシの事なんか忘れて、紫織さんと結婚しちゃうんでしょ?忘れるための一週間だったんでしょ?」 瞬きをした瞬間にマヤの瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。ゆっくりと頬を伝っていくそれを見つめていた真澄に、予想外の衝撃が走る。 (紫織さん…?) ここまで来て真澄はようやく自分の過ちに気付く。 『それからあなた肝心な誤解を解く事も忘れてる。何とは言わないけれど、そこだけでもナントかしといてよ。あなたに取り残されたと思うのは、あの子だけじゃないでしょ』 今日の午後、天使が自分に向けた言葉が耳の奥でこだまする。 『あと一週間で自らの命が絶たれる』 そう知らされた時、真澄の頭に浮かんだのはマヤのことだけだった。本来ならば身辺整理と称して、片付けなければならないのは、紫織との結婚問題であり、真澄の死後に起こりうる大都の業務問題であったかもしれない。しかし、残された時間の最後の一秒までマヤのためだけに使いたいと思った自分は、実際問題として現実離れしているだけでなく、こうしてマヤの心を今の今まで苦しめていたのかと思うと、真澄は自らを殴りつけたくなるほどの衝動に駆られる。 (誤解を解かなければ…) 例えそれが、更に彼女を傷つける事になろうと、絶望の淵に陥れようと、今のこの偽りの苦しみを救うのは真実しかありえない。 (しかし、彼女は信じてくれるだろうか…) 漠然とした不安が広がる…。 俯くマヤの顔にそっと手のひらを添えると、親指でゆっくりとその涙を拭ってやる。 「マヤ…、俺がこの一週間を君と過ごしたかったのは、君を忘れるためではなくて、君を忘れないためだ…。そして、君にも俺という人間がどれほど、君の事を愛していたか、知って欲しかったからだ…」 マヤの虚ろだった瞳に少しずつ力が戻ってくる。一言一句逃さぬよう、必死に真澄の目を見つめ、縋りつくようなその表情は、真澄の心臓に亀裂が入るほどの痛みを与える。 今ならまだ戻れるのは分かっていた、しかし、運命の日は確実にやってくる。逃れる事ができないなら、受け入れるまでだ…。 「俺は3日後に死ぬ…」 マヤの表情は変らなかったが、瞳の奥の黒目が一瞬激しく揺れる。固く閉じていた上下の唇の皮が無意識のうちに離れ、ひゅっと、そこから息が洩れた。 肩に置いた真澄の手にもわかるほどに、マヤの体が震えだす。 2.13.2003 ![]() |
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