天使が堕ちた夜 12
朝の気配。わずかに開いたカーテンの隙間から、昇ったばかりの太陽が閉じた瞼の上を刺す。寝返りを打ちながらその温もりを探して、白いシーツの上を指がさまよう。触れるのは冷たいシーツの感触ばかりで、真澄は一瞬にして目が覚めた。

「マ…ヤ?」

あるはずの存在の不在に、落胆と焦りを感じたその瞬間、階下から激しい物音がする。それは、落下した鍋のふたが床で踊るような…。

すぐにガウンを羽織るだけの格好で、真澄は寝室を後にする。



「何をやってるんだ、チビちゃん?」

キッチンの角から覗いた、寝癖頭の真澄にマヤはぎょっとする。

「な、な、何って、その…、朝ごはん…、に決まってるじゃないですか」

どうやら床に落ちたのは鍋だけではないようだ。卵がめでたく、床の上で潰れている。

「俺はてっきり、ここが戦場にでも化けたのかと…」

いつもの嫌味にマヤは一瞬カッとなりかけるが、すぐに口ごもる。

「すみません…、起こしちゃった?」

そのしおらしい態度に真澄は拍子抜けしてしまう。

「いや…、いずれにしてももう起きる時間だったから、いいが…。君がベッドに居ないから、不安になった…」

そんな理由で自分を切なそうに見る真澄がたまらなくなる。

(2日後には、いくらベッドの中を探しても居なくなってしまうのは、速水さんの方なのに…)

沈んでいく気持ちが、また一歩真澄を遠くへ連れ去ってしまうようで、マヤは慌てて声を上げる。

「あ、あの…、もうすぐ、もうすぐ出来ますから!速水さん、顔でも洗ってきて、ね?」

そう言ってとにかく、真澄をキッチンから追い出そうとする。料理(のつもり)をしているのを見られるのは恥ずかしいのだ。あまりにも手順が悪く、不器用で、やり直してる時間のほうが長いような自分のそんな姿は、見せたくないから…。
そんなマヤの態度を見透かしたように、真澄は小さく笑うと、額に短くキスをする。

「あと何分?」

「え?」

フライパンを握り締めたまま、マヤは間の抜けた声を上げる。

「君を思いっきり抱きしめてキスをするのが許されるのは、あと何分後なのかな、と」

遠まわしに後どのくらいで、この散在に片が付くのか聞いているのだと、それはマヤにも分かったが、恥ずかしさのあまりマヤは真っ赤になって俯く。

「知らないっ!!」

真澄の大きな笑い声がバスルームへと続く廊下に、響き渡る。






ごはんにお味噌汁に焼き魚、それから玉子焼き。

「ざ・日本の食卓!やっぱり、日本人はご飯にお味噌汁ですよね〜」

照れ隠しも手伝ってマヤは、わざと茶化すような声音で言う。真澄はぼんやりとテーブルに並べられたそれらを眺めながらも、言葉が出ない。無言の真澄のその姿がマヤを不安にさせる。

「あ、あの…、もしかしてこういうのキライ?パンの方が良かったですか?」

泣きそうなマヤのその表情に真澄は、ハッとして声を上げる。

「いや、違う、そうじゃないんだ、そうじゃなくって…、君がこんな事をしてくれるなんて思わなかったから…。
嬉しいよ、ありがとう」

素直にそう言えた事に真澄はホッとする。それは本心から出た言葉だった。しかし、マヤに対して本心をあるがままに、極普通に述べるという作業に真澄はまだ慣れていなかった。マヤだけではない、相手が誰であろうと、決まりきった社交辞令や飾り立てた賛美はいくらでも口を付いて出てきても、心の隙間から本心がこぼれ落ちるという事は、真澄にはないことであった。

「あたしね、今日ほど、もっとちゃんとお料理とか習っておけば良かったって思った事なかった…」

玉子焼きを箸で二つに割りながらマヤは言う。

「好きな人に…、速水さんに初めて自分が作ったお料理を食べてもらう日は、あたしの中ではもっとずっと先の話で、それまでに練習して準備して、上手くなればいいやぁ、ぐらい思ってた…。それから、こんな在り来たりのどっちでもいいようなメニューじゃなくって、もっと速水さんがびっくりしちゃうような、すっごい凝ったメニューで…」

口の中で噛んでいる玉子焼きにはたしかに、砂糖を入れたはずなのに、なぜだかしょっぱい味が広がる。

(また砂糖と塩を間違えてしまったのだろうか?)

噛み砕かれて、潰れていく黄色いそれを喉に押し込めながら、そんな事を思う。
しょっぱい原因が涙だと気付いたのは、玉子焼きを飲み込んだ後だった。
(泣きたくなんか、ないのに…。泣いたら、速水さんが困る…)

そう思っても、ぽろぽろとこぼれ落ちる涙は止まる気配すら見せずに、壊れた蛇口から滴る水のように次から次へと頬を伝っていく。
せめて、嗚咽や声だけは出さないように、次々と食べ物を口に放り込んでは噛み締める。真澄が泣いている自分におそらく気付いているだろうことは分かっていても、どうすることも出来ず、ただ黙々と食べ、そして涙も黙々と伝っていく。それは、とても奇妙な光景で…。

「でも…、これが正真正銘、あたしが誰か一人のためだけに作った、初めてのお料理だから…、そういう意味ではこんなのでも、速水さん、食べれてラッキー?」

無理に笑って真澄の顔を見上げた瞬間、しゃっくりが一つでた。

(笑顔が好きなのに…。自分は彼女の笑った顔が好きなのに、泣かせてばかりだ…)

慰める術も、涙を止める術も、今はない真澄は、黙ってそれらを口に運ぶ。

「うまいよ…。今まで食べた何よりも、うまい…」

それだけやっとの思いで口にすると、マヤの小さな声が聞こえる。

「…よかった。アリガト…」

玉子焼きの味は最後までしょっぱいままだった…。






マヤが見たかったという映画のビデオを一緒に観てる間も、トランプで遊んでいる間も、真澄がタバコを吸いにベランダに出ている間も、二人はずっと手を繋いでいた。

段々と時間の経過とともに、お互いに口数が減っていく、そんな不安を打ち消すために、消えていきそうな絆を繋ぎ止めるかのように、ずっと手を繋いでいた…。

夕食後、スリッパの音をパタパタと廊下に響かせながら、マヤが駆けてくる。

「速水さ〜ん、お風呂、お湯入ったよ」

湯加減を見るために湯船に突っ込んだ片手をタオルで拭きながら、マヤは言う。

「あぁ…」

短くそう答えて、バスルームに消えていく真澄の背中をマヤはすれ違いざまにそっと見送る。

(たった数分のことなのに、離れているのがこれほど辛いなんって、一体あたしはこれからどうしたらいいんだろう…)

悲しみや寂しさを上回る孤独への恐怖がマヤを襲う。



トントントン。
遠慮がちにバスルームのガラスの扉を叩く音がする。

「なんだ?」

湯船に深く体を沈めていた真澄の低い声が、タイル張りのバスルームによく響く。

「うん…、あの…、入ってもいいかなぁ、って…」

どんなに一緒に入ろうと言っても、絶対に嫌だと、首を縦に振らなかったマヤのその言葉に、真澄は一瞬耳を疑う。

「…どうぞ」

思わずつっけんどんな答えになってしまっう。

扉を開けて入ってきたマヤは、しっかりとバスローブを纏い、合わせの部分をきつく握り締めている。そんなマヤらしい様子に、真澄は微笑む。

「どうした、ようやく一緒に入る気になったのか?」

「ち、ちがくて…!話できたらいいなぁ、って…」

恥ずかしさを隠し切れないように頬を紅く染めながら、横たわる真澄の頭のすぐ側に座ると、湯船のへりに置いた両腕に顎をのせる。

「こうやって、話してちゃダメ?」

「ダメじゃないが、一緒に入ったらもっと嬉しいがな」

からかうようなその表情にマヤは、反抗するような目つきで真澄を見上げる。

「それは、恥ずかしいから、いやっ!」

そう言って、湯船の水をパシャリと真澄の顔に弾いた。

「何を今更…」

呆れたような笑いを真澄は浮かべるが、このシチュエーションではいつその余裕も崩れるか分かったものではなかった。
なんとはなしに、湯船の水を梳くようにさまよっていたマヤの指先が、真澄の髪に伸びる。

「速水さん、もう髪の毛洗った?」

「いや、濡らしただけだが…」

急にマヤの表情がイキイキと輝きだす。

「ねぇ、洗っちゃだめ?あたしに洗わせてくれない?」

突拍子もない事をいつも言い出すマヤではあったが、思わぬ提案に真澄は言葉を失う。

「はい、決まりっ!」

自分の無言を承諾と勝手に受け取ったのか、マヤはシャワーヘッドに手を伸ばすと、真澄の頭の湯船のへりから丁度外へ出るように、仕向ける。

「いきますよ〜」

仰向けに天井を見せられたまま、マヤの手が額にかかる。

「お湯加減いかがですか〜」

完全に美容師気分でふざけてるようだ。ケタケタと屈託無く笑う声がバスルームに響く。いつも美容院でそうしてるように、人に髪を洗われるときのくせで、真澄は目を閉じる。シャンプーのキャップの開く音がした。
柔らかい指が地肌を揉んでいく感覚。美容師にされても何にも感じなかった事なのに、好きな女にされるそれは、まるで違うものであるように、真澄の感覚を惑わせる。

「お痒いところ、ありませんか〜?」

相変わらず楽しそうに、ふざけるマヤの声も、その陶酔を邪魔しない。真澄が無言になると、マヤは黙々と真澄に地肌に指を滑らせる。時々、泡で遊んでいるのか、毛先を弄ぶような仕草をする。

「…速水さん、美容室以外で誰かにこんな風に髪の毛洗ってもらった事ある?」

小さなかわいらしいほどのマヤのその嫉妬心は、確実に真澄を喜ばせる。

「あるよ…」

マヤの指がぴたりと止まる。思ったとおりの反応を示すマヤに、真澄は内心笑いを噛み殺しながら、すました顔で続ける。

「子どものころ、母親に…」

「んもぉ、速水さんの、馬鹿ぁ!!」

マヤは、泡のついた真澄の頭をそのまま、ズブズブと湯船に沈めてしまう。咳き込みつつも大笑いしながら真澄は水の中から、飛び出すと、一気に有無を言わせずマヤを抱え上げ、自らの上に座らせるようにして、湯船に沈めてしまう。あっという間にバスローブは水を吸って重くなる。

「あ〜、速水さん、何やってるのよぉ…」

恥ずかしさのあまり、マヤはどうしたらいいのか分からないという風に、真澄の上で固まってしまう。

「びちょびちょに濡れちゃったじゃない…」

「だったら、脱げばいいんじゃないか…」

そう言って、バスローブの紐に掛ける真澄の指はとても自然で、強引なようで優しくて、マヤはどうにも叶わないと、降参してしまう。

「でも…、続きはベッドじゃないと、嫌だよ…」

それだけはかろうじて口を付いてでたが、すぐに真澄の熱い口付けにそれは塞がれる。

「それは無理な注文だろ?」






激しく運動を重ねた後の体を冷やすため、暖房の利きすぎで澱んでしまった室内の空気を逃がすため、開け放たれた窓から、波の音が聞こえる。

いつものように、真澄の腕の中で乱れた髪の毛を直されながら、目の前にある真澄の鎖骨を何度も指でなぜる。

「初めての夜も、君はそこを触ってた…」

真澄のその言葉に無意識に触っていた指がふと、止まる。

「あ、ごめんなさい…。嫌だった?」

すぐになんでもネガティブな方向に考えてしまうマヤのその短絡さに真澄は苦笑する。

「嫌なわけないだろうが。君に触れられるのは嬉しいよ…」

安心したように、マヤの指が再び動き出す。

「速水さんのここの骨…、鎖骨っていうの?すっごく、キレイ…。速水さんの体の中で一番、ここが好きかも…」

骨の形を確かめるように、這って行くマヤのその細い指に真澄は、何かを押さえ込んだような言い方で言う。

「あげるよ、君に…」

「え?」

唐突な真澄のその言葉にマヤは、表情を崩す。

「俺が灰になって残った骨の中から、ここの骨は君にあげる…」

瞬時にマヤの体が小刻みに震えだすのが、真澄にも分かる。

「…や…、い…や…、…いやっ!!
お願いだから、そんな事言わないで、絶対言わないで!言わないでよっ!!」

嗚咽の混ざったその絶望的な叫びが、夜の闇を切り裂く。



時計の針は12時半を回った所だった。

(あと2回日が沈んだら俺は死ぬ…。3度目の夜明けは俺にはない…)




...to be continued



2.15.2003








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