天使が堕ちた夜 13
冬の海は穏やかで、波も穏やかで、空気も穏やかで、喧騒から解放されたその空間が好きだと真澄は思う。そしてその場所は、自分が生きていた証として、最愛の人とその人生の終わりを過ごすに尤も相応しい場所だとも思う。
黄昏どきになって、ようやく外へ出た二人は、浜辺をそぞろ歩く。

「冬の太陽って、あったかいな〜」

西日が容赦なく瞳を潰すような眩さで、全身を包む暖かを感じながら、マヤはぽつりとそう呟く。

「夏の太陽はギラギラ〜ってカンジで、暑いのに、冬の太陽はポカポカしてる…」

努めて明るい声を出すマヤの手を真澄は引いて歩く。
声には出せない焦燥感が、自然と握った手に強く力を込めさせる。

「もうすぐ、日没ですね。海の向こうに沈む太陽って、すごくキレイ…。海が薄紫色になるんですよね」

日没まであと30分はありそうだった。
真澄が砂浜にぽつんと残った大きな岩の上に腰掛けると、マヤも隣にそっと腰掛ける。
言葉はいらなかった。
穏やかな冬の海を見つめ、沈み行く太陽に目を射られ、ゆっくりと瞬きをすれば、お互いのまぶたの裏に浮かぶ残像は同じものであるように思われた。

ふいに真澄が体勢を変えたかと思うと、マヤはあまりの事に言葉を詰まらせる。

「ちょ…、ちょっと、速水さん?!」

「一度こうしてみたかったんだ…」

そう言って真澄は、横向きに寝そべると、その頭を有無を言わせぬ調子でマヤの膝に預ける。閉じてしまった瞼に何を言ってもしょうがないとわかると、マヤはおずおずと真澄の髪に手を伸ばす。

柔らかくて美しい髪…。真澄は何もかも、女である自分より美しい気がした。その髪も、肌も、指も、恐ろしいくらいに美しかった…。

「速水さんて、ホント、悔しいくらい、全部キレイね…」

ため息づくようなマヤの調子に真澄は訝しげに少しだけ、眉を動かす。

「何を言ってるんだか…」



寄せては返す波の音にじっと耳を傾けていると、ふいに真澄の声がその静寂を打ち破る。

「一つだけ聞いてもいいか?」

「なぁに?」

真澄の髪をいじるマヤの指が、一瞬止まる。

「もし…、もし俺が紫の薔薇の人ではなかったとして…、それでも君は俺を愛していたか?」

唐突に訪れた眩暈のように、気持ちがぐらりと揺れたような錯覚がマヤを襲う。
波が3回寄せて返すまでの間の沈黙…。

「愛してた…。絶対、愛してた…」

迷いのないその声は、瞼を閉じたままの真澄の上に静かに堕ちる。

「ついでに言えば、速水さんが社長でなくっても、例え40歳だったとしても、好きになってた…。
速水さんが、速水さんだったら好きになってた。
出会えさえすれば、好きになってた…」

そこまで言ってマヤは照れくささに付け加えずにはいられない。

「きっとね…」

真澄の髪に触れていた指が突然真澄に奪われる。

「ありがとう…」

そう言って、その手の甲に口づける。

(時間を止めて欲しい。誰でもいいから、今この瞬間に、時間を止めて欲しい)

強い心の叫び…。
言っても無駄な事を口にする代わりに、マヤは出来るだけ明るい声音で言葉を繋ぐ。

「でも…、紫の薔薇の人のことも好きになってたから、二人も好きな人が居て困ってたかも。だから、速水さんが紫の薔薇の人で、良かった…。
速水さんでよかった…」

真澄は聞いているのかいないのか、閉じた瞼が一瞬揺れただけで、何も言わなかった。



沈んでいく太陽の位置を確認しようと、ふと視線を上げかけたマヤの視界に入ったもの。
金縛りにあったように体が動かなくなる。

真冬の砂浜に素足。

ペディキュアはほどこされてないけれど、細い足の小さな爪は美しいピンク色で、とても綺麗だった。
目の前にあるその素足。主を見ようと顔を上げようとするが、首は1mmも動かなくて、マヤはただその桜貝のような爪を見つめる。

砂浜に伸びたその影の形を見て、マヤは愕然とする。

(天使の羽…?)

「あ…、あなたが天使なの?そうなんでしょ?」

素足の主は何も言わず、動かない。

「お願い…、連れていかないで…、ねぇ、お願い!!」

首の骨が折れても構わない、と思い切って顔を上げた瞬間、眩い閃光に目を潰され、途端に視界が遮られる。
ようやく開けた視界の先には、半分沈んだ太陽と、足跡のない砂浜と、一枚の羽だけが残されていた…。



その夜二人は、眠るわけでもなく、欲望の赴くままに肉体を重ねるわけでもなく、ベッドの中で手をつないだまま、ただ朝が来るのを待った。
最後の朝日が昇るのを、じっと待ち続けた…。






「速水さん…、東京に帰ろう」

翌朝、開口一番にそう言うマヤを真澄は困ったような表情で見つめる。

「だって、速水さん今、病気でもなんでもないでしょ?元気でしょ?だったら、考えられる原因は事故しかないじゃない。だったら、こんな人の助けを呼ぶにも時間がかかっちゃうようなところにいちゃ、ダメだよ。
東京のあたしのマンションに行こう。あそこだったら、病院もすぐ近くにあるし、助けもすぐ呼べるし…」

真澄がなんの反応も示さないのにどうしようもない焦りを感じながら、マヤは必死に言葉を繋いでいく。

「…死なせない。あたしが、速水さんのこと、絶対死なせない!速水さんが、死ぬわけないっ!!あたし、速水さんのこと守るから、ねぇ、お願い、そんな簡単に死なないでよ…」

そう言って、最後は力なく頭を垂れる。

「最後の瞬間まで一緒に居てくれると約束して欲しい…。
そうしたら君の言うとおり一緒に東京に帰ろう…」

穏やかな声でそう言うと、真澄はマヤをその腕にそっと抱きしめる。

「そんなの、約束するもなにも、当たり前じゃない…」

真澄の背中に回した腕に、マヤはぐっと力を込めた。






東京へ向かう車中。マヤは行きがけも同じように無口だったことを思い出す。
パジャマを忘れてきたことを唐突に思い出してしまって、真澄にからかわれた事が遠い昔のように思える…。

「…パジャマ…」

「え?」

ぽつりと出たマヤの不可解な言葉に真澄が反応する。

「速水さんの言った通りになっちゃった。
『着ないで寝れば済むことじゃないか』って」

そう言って、少し恥ずかしそうに笑う。真澄と過ごした7日間、最初の一日目こそ服を着たまま寝るという醜態を演じたが、結局残りの夜は、生まれたままの姿で、真澄の腕の中で眠った。

「だから言っただろう」

真澄は片手でマヤの頭をくしゃりとなでると、穏やかに笑い返した。

(どうしてこれが終わってしまうなんてことが有り得るんだろう)

今、確かに確実に目の前にあるこの穏やかな掛け替えのない時間の全てが、間もなく全て過去の思い出すだけのものになってしまうなど、マヤにはとても信じられない。
触れれば今は、確かに温かい体温を持った真澄が、もうすぐ冷たい個体になってしまうなど、どう考えたって、受け入れられない…。

減っていく東京までの道しるべのkm表示に、マヤは、少しずつ減っていく真澄の命を重ね合わせる…。






「そういえば、速水さん引っ越してからうちに来るの初めてですよね…」

自分の家に真澄を上げるというのは、なんだか照れくさい。しかし、恋人を初めて家に招待するという甘い空気を楽しむだけの余裕は、今の二人には残されていなかった。

「あぁ…」

短くそう答えると、真澄は部屋に上がる。一週間、主の居なかったその部屋はそれでも、どことなくマヤの香りが漂う気がした。

お互い黙ったまま、床の上に座り、壁によりかかる。
無言のまま、時が過ぎていく。
手を繋いだまま…。
どちらか一方が握っている手に力を込めると、もう一方がそれに応えるように強く握り返す。口をついて出てくる言葉の代わりに、そうやって二人はお互いの存在を確かめ合うようにして、残酷に刻まれていく時間をやり過ごす。






「…あぁ、タバコ…」

午後7時も回った頃、真澄は胸ポケットから空になってしまった、タバコの箱を取り出す。ぐしゃりとそれを握りつぶすと、立ち上がる。

「ちょっとそこまで…」

そう言って歩き出す真澄に、マヤは縋りつく。

「ダメっ!ダメダメっ!外に行っちゃだめだよ。あたしが買ってくるから、速水さんは家に居て!ね?ご飯もなんか買ってくるから…」

必死な形相で訴えるマヤのそれに、真澄は心臓を潰されるような痛みを感じる。

「…わかった」

真澄のその言葉を聞いて、安心したように歩き出すマヤを、真澄は思わず引きとめる。
激しく唇を奪われたあと、真澄の力ない声が聞こえる。

「一分でも離れるときは、こうするって言っただろ?」

あの時は、心をときめかせたあの言葉も、今はただ残酷なだけで、マヤは今にも泣き出してしまいそうになる。

(じゃぁ、一生離れてしまう時は、一体どんなキスをするの?)

こぼれ落ちる涙を隠すようにして、マヤは家を飛び出した。



誰も居なくなったガランとした室内で、自らの足音さえ響いてしまうその静寂さが、真澄はふと恐ろしくなる。生が途切れたその瞬間、そこにあるものはなんなのか…。
一つだけ分かっていることは、そこにはもうマヤは居ないという事だった。
夢のようだった、この一週間を走馬灯のように思い出してみる。楽しい事ばかりが思い出される。
マヤの脹れた顔や、真っ赤になった顔、そして、自分を好きだと言ってくれたあの顔が浮かぶ。
決して結ばれる事などないと思っていた。
一生思いを告げる事も、そしてまさか告げられる事など、予想だにしていなかった。

後悔はしていない…。
思い残す事もひとつもない…。

マヤを置いて逝くという以外は…。

ふと、テーブルの上に無造作に置かれた、マヤの赤い皮の財布が目に入る。

(買い物に行くのに、財布を忘れるとは…)

あまりにらしい展開に、真澄はふっと苦笑をもらす。
財布を掴み上げると、真澄は追う様にして部屋を飛び出した。

おそらく、向かいのコンビニにでも行ったのだろうと、予想はついた。マンションの玄関を出たところで道路の向かい側に目を凝らすと、案の定、コンビニから飛び出してくる、白いジャケットが見えた。



(財布忘れて買い物なんて、サザエさんじゃあるまいし…)

マヤは自分の間抜け具合がほとほと情けなくなる。
中々変らない信号に痺れをきらし、マヤは車の流れの合間を縫って横断歩道に飛び出す。
その瞬間、視界の端に入る異物。
確認したと思った車線の死角にあたる、コンビニの搬入口に横付けされたトラックの角から車線を猛スピードで走ってきた自転車。マヤは驚いてそれをかろうじて避けた瞬間、そのままバランスを崩して後ろに倒れこんでしまう。

運命が狂う瞬間。

タバコを買いに行かなかったら、
財布を忘れなかったら、
自転車が走ってこなかったら…。
一つ一つは取るに足らない、小さな出来事が積み重なり、運命の歯車を狂わせる。

道路の真ん中で激しく腰を打ちつけ、呆然としたまま、マヤがなんとか立ち上がろうとしたその時、耳を割くような車のクラクション。車のライトが、目を潰し、体が動かなくなった瞬間、唐突に体が宙に舞う。
けれども、車がアスファルトをこする耳を劈(つんざ)くようなブレーキ音と、何かが激しくぶつかる鈍い音は、自分の体が宙に舞った後に聞こえた。

目を開けているのに何も映らないのは、それは自分が仰向けになったまま夜空を見つめているからだと気付く。飛ばされた瞬間に咄嗟に付いた手のひらに激痛が走る。擦れた手のひらからは血が滲み、小さな石が埋まりこんでいた。
破れたと思った鼓膜の向こうから、かすかに音が聞こえる。集まる人のざわめき、けたたましいサイレンの音。

ゆっくりと思い出す。
鼓膜が破れたと思った、最後の瞬間に聞こえたその言葉を…。

『マヤっ!!』

体中に電流が走る。
ゆっくりと上体を起こし、数メートル先に出来上がった人垣の中へ這って行く。とてもじゃないが、腰が立たなかった。恐怖のあまり、膝も腰もガクガクと震え歩く事など出来ないまま、両手と両膝をついてそこまで這って行く。
人垣を一つ一つ掻き分けて、渦の中まで辿りついた瞬間、マヤは今までの人生で一番、自分が生きている事を憎んだ。
泣き叫ぶ事も、何か言葉を発する事も、何も思いつかなかった。
ただ、必死に駆け寄って抱き上げた、真澄のその恐ろしいほどに美しい額には、恐ろしいほどにべっとりと血がこびりついていて、どこを押さえればその血が止まるのか、そんな事もわからず、ただ呆然と真澄を抱きしめるだけだった…。



真澄の身に何か起こるとしたら、それは事故だと思っていた。交通事故か、犯罪に巻き込まれるか、火事とか、爆発事故まで考えていた。
でも、それは真澄さえ気をつけていれば、大丈夫だと思っていた。自分が真澄を守ってやれば、なんとかなるのでは、と思っていた。
馬鹿な自分は、自分こそが真澄を死へ追いやる、魔物であることに全く気が付かなかった。真澄が自分の命と引き換えに、こんな事になるなんて、全く思いつきもしなかった。


(アタシが、速水さんを殺した…)




...to be continued



2.16.2003








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