| 天使が堕ちた夜 6
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見たことのない天井…。
朝日が柔らかく差し込む部屋の中で、マヤはゆっくりと記憶を辿る。 (昨日は、速水さんに会って、それから車に乗って…) 順番に思い出していたつもりが、突然記憶がプツリとワープする。 (ア、アタシ、速水さんに抱きついちゃったんだ!!それで、それで…) そのまま寝てしまったという醜態にマヤは今更真っ赤になってみたりする。 (どうしてあの状況でアタシってば、寝れるのよぉ〜) マヤは羞恥心のあまり布団を頭から被ってみる。が、慌てて確認すべき事を思い出し、全身をチェックする。 全ては昨日のままだった。 下着はもちろん、スカートもその下のタイツもセーターもそのまま。唯一の違いはどうにもならにほど、それらはクシャクシャであった事ぐらいだった。 ホッとした気持ちと、少し何か引っかかるような気持ち。その複雑さにマヤは戸惑う。 (そんな、速水さんにどうしろって言うのよ) 何かあったら勿論困る。が、何もなかったのもどこか拍子抜けしてしまう。 (お子様相手に速水さんみたいな人がそんな事思わないって…) そう納得して被った布団から頭を出す。 その部屋は来客用なのかシングルベッドが配置されてる以外は、目立った家具も備え付けのクローゼット以外には、窓辺に置かれた小さなテーブルと椅子だけで、真澄の部屋ではないことだけはわかる。実際真澄もそこには居なかった。 (夢はどこまで覚めてしまったのだろう?) 昨晩真澄との間に起こった事のどこまでが現実で、どこからが夢であったか、マヤはまるで自信がなくなる。 『君を愛さずにはいられなかった』 あの言葉は果たして現実のものであったのか、マヤは途端に信じられなくなる。 と、その時階下から食器がぶつかるような音がした。 慌ててマヤは飛び起きると、とりあえずそのままの格好で階段を下りる。 「やぁ、チビちゃん。よく眠れたかい?今、起こしにいこうと思っていたところだ」 キッチンの角で呆然と自分を見つめるマヤに、真澄は機嫌のいい声で言う。 真澄は今まで見たこともないような、白いシャツにベージュのズボンというラフな井出達で不思議な違和感をマヤに与える。白い洗いざらしのシャツを腕まで捲くり上げ、筋張った男らしい腕がマヤの目に晒され、マヤはその男の証明にドギマギとしてしまう。 「あ、あの…、おはよう…ございます」 とりあえずそう言ってみたものの何を言えばいいのかわからない。 『昨日、何かありましたっけ?』 ではあまりに間抜けすぎる。 そんなマヤの様子を見透かしたように真澄はからかう。 「そんな格好で寝るのもどうかと思ったので、脱がせようかとも思ったのだが、君、パジャマを忘れたって言うから、『服を着たまま』と『裸』の2択だったら君は間違いなく前者を選ぶと思って、そのままにしておいたよ」 余裕のからかうような笑みまで浮かべてみせる。 「な、なによ、速水さん、『そんなもの着ないで寝れば済むことじゃないか』まで言っておいたくせに」 言い返して見るが、『だったら裸で寝たかったのか』といわれれば、『とんでもございません』としか言い様がないので、マヤの反撃もそこで止まってしまう。 「あ、あの…、昨日は勝手に寝ちゃってごめんなさい…。疲れちゃってたみたいで…、あの…」 どんどん語尾が尻すぼみになっていく。 「さすがの俺も、あの状況で寝られたのは初めてだ。君という人間の女としての神経の太さには脱帽だよ」 「ひ、ひどぉぉい!!速水さんそれ、言いすぎっ!」 マヤは咄嗟に真澄に掴みかかろうとするが、真澄は片手に握ったフライパンでそれを制する。 「プロレスごっこは大歓迎だが、朝食を無駄にする気はない。腹が減っては戦も出来ないと、言うだろ。まずは、朝ごはんだ」 そう言って余裕の笑顔でマヤを丸め込む。マヤは腑に落ちない気もしたが、かと言って朝っぱらから昨日の出来事を一からおさらいするつもりもなかったので、ベーコンの焦げた香ばしい匂いを嗅ぎながら、『とりあえず朝ごはん』という真澄の案に乗ることにする。 「これ、どこにあったんですか?」 テーブルの上に一通り揃えられた朝食の山に目を丸くしながらマヤは聞く。 「とりあえず今日の分だけはリフレージにあった分で作った。でも、あとで買い物に行くぞ」 有り合わせで作ったというわりには、どれもちゃんと整えられている。そしてこんな事でも難なく出来てしまう真澄の器用さにマヤは驚くしかない。 「速水さんが、お料理できるなんて知らなかった…」 「こんなの料理のうちに入らんだろうが。まぁ、作る事は嫌いじゃないが、時間もないし最近はキッチンに立った事さえなかったな」 そう言ってゆっくりとコーヒーを飲む。 「速水さんの朝食のイメージって、コーヒーとタバコってカンジ。当たってる?」 「まぁな…」 真澄は苦笑しながら答える。そして、マヤとともに二人っきりで朝食を取るというこのなんとも奇妙な状況に、別の意味で苦笑を重ねる。 昨晩、純真無垢な表情で自らの腕の中で安らかに眠るマヤに対して、欲情が湧かなかったと言えば嘘になる。あれほど気が狂うほどに望んだものをようやく手に入れたというのに、自分には残された時間がもういくばくも無かった。 『ホントも何も、今あなたがそうやって彼女を抱いている事が一番の証拠だと思うけれど』 天使の声が耳に残る。 今マヤがこうして、自分と二人きりで居るという状況こそが、自らの命の短さの証明とはなんという皮肉であろう。失うものはもう何もない。迷いさえもない。運命を変える事が出来ないのであれば、それを受け入れるまでだ。そして、自分が生涯欲したものを最後の瞬間まで欲するまでだ。その事にはもはやなんの迷いもなかった。 が、しかし…。 マヤの気持ちはどうすればいい。 『あなたにとっては最後の一週間でも彼女にとっては最初の一週間よ。あなたが居なくなった後も、彼女には長い人生が待ってるの』 真澄の事を自分がマヤにそうするのと同じように愛しているという彼女を、唐突に置き去りにするという来るべく悲劇が真澄に重く圧し掛かる。 (どうすればいい…) 迷路を迷うにはあまりにも時間がなかった。 「……たの?」 話しかけてきたマヤの言葉が素通りしてしまった。 「ごめん、なんだって?」 「だからぁ、速水さんはこの一週間で何かやりたい事とかあったの、って聞いたの。だって仕事虫の速水さんが一週間もお休み取るなんて、フツーじゃないでしょ。なにか、やりたい事でもあったのかなぁって」 テーブルに両肘をついて紅茶の入ったマグカップを両手で温めながら、マヤは言う。 『死ぬ準備をしようと思っていた』 どう間違っても言えない台詞である。 「言っただろ、人生で一度だけ自分のために人生を使ってみたくなった。自分の思いを正直に告げて、君と過ごしたくなった。仕事も日常も何もないところで…」 そう言った真澄の目があまりにもどこか遠いところを見るので、マヤは一瞬不安になる。 「やだ…、速水さん、なんか逃げてる人みたい。逃亡者っていうの?」 マヤが思い浮かべたのは、強盗犯か殺人犯の追い詰められた顛末であったかもしれない。しかし、真澄は自らの運命から決して逃れる事の出来ないこの袋小路で、それを笑う事は出来なかった。ただ一つ言える事は、東京に居た時、マヤに思いを告げる前に、自らが『運命』と名づけ、絶望的な思いでそれを受け止めようとしていた、紫織との結婚という二文字は完全に意識の中で飛んでしまい、真澄を苦しめる事はおろか、思考の片隅に蘇る事さえなかった。万が一生き延びれるような事になったとしても、マヤと気持ちが通じ合った今では、結婚など更々する気はなかった。 しかし、相変わらずの真澄の鈍さは、マヤが当然のごとくその事実を片時も忘れていないという事に気が付かないという点で、致命的であった…。 「内緒ですか?」 少し寂しそうな表情でマヤが聞く。手のひらの紅茶はもう冷めていた。真澄は思わず訝しげな表情で言葉もなく見つめかえしてしまう。 「ここに来た、本当の理由、私にも言えませんか?」 責めたり疑うような種類の感情はマヤの瞳からは一切読み取れなかった。ただ、どこか寂しそうなだけだった。 「今は…、まだ言えない…」 それが真澄の結論だった。『いつ』なら言えるのか、分からなかった。言ったところでマヤがそれを信じてくれるとも思えなかった。しかし、確実に時は刻まれ、終わりは訪れるだろう。その時では全てが手遅れかもしれない。しかし、それでも真澄は言えなかった。 彼女の運命を狂わせる事は、出来なかった…。 ![]() 二人は遅い朝食のあと、買い物に出かける。真澄とスーパーに買い物なんて、一体誰が想像できるだろう。マヤはどうしようもない照れくささに、動悸が上がる。 『今は…、まだ言えない…』 真澄がそう言うのであれば、絶対に自分は今は理由を聞けないだろう。いつか真澄がその理由を言うのかも、マヤにはまるで分からなかった。ただ、意識の底で思っていた事は、この唐突な一週間が来月訪れる真澄と紫織の結婚式となんらかの関係があるのでは、という漠然とした予想であった。夢にまで見た真澄からの愛の言葉、そして『紫の薔薇の人』としてようやく自分に向き合ってくれた真澄、それらはこれ以上はありえないという程の喜びをマヤに与えたが、その一方で事実の矛盾にマヤは苛まれる。 自分を誰よりも愛するという人間が、他の誰かのものになる…。 その矛盾はマヤを苦しめ、翻弄するに充分なものであった。 (この一週間は、終わらせるための一週間なの?) 心の隙間からこぼれ落ちたその疑問は、音を立てずにマヤの唇の上を滑り落ちる…。 パンに牛乳、バターに小麦粉…。あっという間に買い物ワゴンは膨れ上がっていく。 「カレーだったら作れる」 というマヤの精一杯の提案で、カレーの材料も揃えられる。真澄はそれなりに頭の中で、献立を考えているのか、特に迷う様子も見せず調味料やメインとなりうる、肉や魚を選んでいく。 (本当になんでも出来るんだなぁ、速水さん。アタシなんてお買い物メモ作らなきゃ、何買って帰ったらいいのかもわからないのに…) 羨望の眼差しで真澄を見つめると、真澄はにっこりと笑いかける。 「他にもまだ欲しいものがあるんじゃないか?」 「え?」 確信犯的に笑う真澄のその問いに一瞬マヤは戸惑うが、真澄の視線を辿って、すぐにその意図に気付く。 「もうっ!!人の事食い気虫みたいに言って!!」 「違うのか?いや、俺はそんなものぜんぜんいらないからな、君が必要ないって言うんだったら、買って帰らないまでだ」 マヤは口を尖らせ、真澄を上目使いに睨んでみるが、そんなものは真澄には逆効果だ。あっという間に素早く唇を奪われる。 「女が男の前で唇を尖らせたら、奪うのが礼儀だろ」 涼しい顔のそれにマヤは完全に自分が負けてしまってるのを自覚すると、 「じゃぁ、速水さんはお酒のコーナーでも行けばいいじゃない。アタシ、一人で行って来るっ!」 そう叫ぶと、角に特売のチョコクッキーが堆く並べられた製菓コーナーに走っていった。 一生懸命お菓子を選ぶマヤを、自分よりも背の低い陳列棚の隙間から真澄はそっと見つめる。マヤは見られている事などまるで気付いていないようだ。たかがお菓子なのに真剣に選んでいるのが、その表情から手に取るようにわかる。楽しそうな幸せそうな顔だ。 そして、そんなマヤを見つめる真澄の顔も同じように、楽しそうで幸せそうである事に真澄は自分では気付かない。 お菓子を選び終えたマヤがこちらに戻ってくる。目が合うと、照れくさそうな顔で笑う。目が合って理由もなく、笑い合うなんて事は二人の間にはなかった事だ。 いや、理由は間違いなくある。 「恋人だから」「好きな人だから」という理由が。 愛する人と目があうだけで、人は笑えるのだ。そして、愛する人から笑い返されるだけで、人は幸せになれるのだ。そんな当たり前の法則の前に、真澄は眩暈を起こしそうになる。 「えっと、プリンも買っていい?」 おかしをバラバラとかごに落としながらマヤが遠慮がちに聞く。 「いいよ…」 からかう事も、何か気の効いた意地悪い事を言うのも忘れ、真澄は静かに答える。にっこり笑ってマヤが自分の横を通り抜けるとき、思わず真澄は、一瞬マヤの無防備な手に指を絡める。 本当に一瞬の事。 ただ指が触れ合い、そして一瞬奪われ、そして絡まっただけの事なのに、マヤは不意打ちを喰らってキスされた時よりも、心臓が飛び上がる。 握りかえそうかと思った瞬間、すれ違う体に比例して、その指も離れていった。たった一瞬指が触れ合っただけの事なのに、マヤは心までが触れ合ってそしてすれ違ってしまったような錯覚を覚える。 (恋をしてるんだ…) プリンを選ぶ指が少し震えた…。 2.5.2003 ![]() |
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