天使が堕ちた夜 7
食器がぶつかる音、水の流れる音、静かなキッチンでその効果音だけが取り残されたように響いている。
夕食後、

「『あとで』と後回しにすると絶対に洗わなくなる」

というマヤの提案に従って、二人は並んでキッチンに立って後片付けをしている。真澄が洗った皿をマヤは受け取ると、赤いチェックのふきんで水気を拭き取っていった。

料理を作る時も二人は並んで立っていた。しかし料理をしたのは大方、真澄であって、マヤはただ立っていたというか、邪魔をしていたというか、とにかくそんなところであった。

「塩を取って」

と頼めば砂糖をよこし、

「にんにくをすりおろして」

と頼めば、指をすりおろしそうになるマヤに真澄はとうとう観念して抱き上げると、キッチンのカウンターの上に座らせる。

「悪いが、何もしないでそうして俺を見ててくれるのがどうやら一番効率がいいらしい」

そう言って素早く唇を奪う。マヤは自分の料理能力のレベルの低さを指摘されたようで恥ずかしくなる一方、それでも真澄が自分に対して優しい事に猛烈な照れくささを感じる。思わず、キスをされてしまった照れから、わざと脹れた表情を浮かべて真澄を上目使いに見上げてしまう。高さが1m以上あるカウンターの上で鎮座すると、真澄の顔がぐっと近くなる。

「そんな顔見せたらもっとキスしたくなる」

マヤを挟むようにして手首を裏返した状態で両手をカウンターにつくと、若干腰を屈めてマヤと自らの目線の高さを揃える。マヤはどうしようもなく上がっていく動悸を誤魔化そうと、だらりと提げた両足をプラプラさせてみるが、それも無駄な抵抗に終わる。

「そ、そんな顔ってどんな顔?いつもと同じじゃないの?」

「教えて欲しい?」

真澄の顔は近づく。

「…うん」

真澄はマヤの唇だけを見つめるようにして目を伏せ、口の端に悪戯っぽい笑いを浮かべながら言う。

「キスしてくれたら教えてあげるよ」

(敵わない…)

マヤは素直に降参してしまう。どんなにがんばったところで、真澄は自分の何倍もこういう事をよく知っているのだ。いや、自分が知らなさすぎるのもあるけれど…。
そんな事を思って目を伏せると、唇に柔らかい感触。さっきの短いキスとは違って、何度も何度も唇の皮の感触がふやけるようなキスをされる。

(どうしてこんなキスができるんだろう…)

数を数えたり、時間の長さを計るための感覚が一切麻痺してしまったような頭の中で、マヤは真澄には気付かれないようにそんな事を考える。 激しいキスではない。 マヤの様子を伺うように、時々優しい目で自分の事をキスの間に見つめながら、いつまでも終わらないキスをする。
が、真澄の舌がマヤの上唇の内側の様子を探った瞬間、マヤは上ずった声で叫ぶ。

「は、速水さん!!お、お鍋!お鍋焦げちゃうよっ!せっかくのお料理、焦げちゃったら大変!」

必要以上に取り乱すマヤに真澄は余裕の笑顔で答える。

「料理がダメになったら君を食べるまでだ」

冗談とも本気ともつかない調子でそう言うと、笑い声を上げながらコンロの前へ戻った。



昨晩はいきなり眠りに落ちてしまった。
結果としてそれが問題を先送りした事にマヤは少し、感謝していたのも事実だが同じ手は二度と使えないだろう。純粋培養なマヤとて、同じ屋根の下で、すでに何度もキスをしてしまうような相手と、一晩中一緒に居れば起こり得る事実は想像できる。それが現実のものとなるかどうかは、真澄の本心が見え隠れする今は、マヤにもまだ分からなかった。ただ、お互いにその事を考えているのが分かりきってしまうほど、無口になり、食事中あれほど饒舌だった真澄さえも今はただ黙って、皿を洗っていた。
もし、今自分の考えている事が「人の心が見える鏡」か何かで、全て真澄に見られてしまっているとしたら、マヤは死ぬほど恥ずかしいと思う。
まだ、気持ちが通じ合って24時間経ったかどうかのこの状況で、もっと真澄の側に行きたいなどと、望んでしまう自分はとてもふしだらな気さえした。

(そんな事、速水さんがするわけない)

そう心の中で何度も否定してみても、実際に真澄に求められたら自分はどうするつもりなのか、マヤは自分の事なのに予想も出来なかった。

『恐い』とマヤは思う。自分よりもこういう状況を知り尽くしている大人である真澄の存在と、そして際限なくその状況に呑み込まれていってしまいそうな自分の存在が。音を立てて湧き上がってくるようなこの感情の意味をマヤはまだ知らない…。

真澄が洗った皿をマヤに渡そうとしたその瞬間、二人の指先が触れあう。彷徨う思考の中で呆然としてたマヤの体内に電気が走り、マヤは動揺のあまり皿を取り落とす。

激しく皿が砕け散る音。

咄嗟に床に叩きつけられた皿の欠片にマヤが手を伸ばしかけた瞬間、真澄が叫ぶ。

「あぶないっ!触るな!」

一番大きなその白い欠片を掴み上げたマヤはそれをすぐに取り落とす。

「…痛っ!」

白い人差し指の先に縦に一筋ぱっくり傷が走ったかと思うと、見る見るうちに赤い流れが皮膚の間から滲み出てくる。

「だから触るなといっただろう」

怒ったような声で真澄はそう言うと、乱暴な手つきでマヤの手を取る。マヤのその指先から一滴、赤い血がぽたりとキッチンのタイルの上に落ちたのを合図に、その指先を口に咥える。
心臓から傷口に向かって、一気に血が流れ出したような錯覚を覚え、マヤは眩暈を起こしそうになる。ドクドクと血が流れる音と、心臓が激しく波打つ音がシンクロし、耳の鼓膜が破れるのではないかとまで思ってしまう。
真澄の背後では出しっぱなしのまま放置されたシンクの水が、激しい水音をたてて流れ続けていた。



真澄の口内では錆びた鉄のような血の味が広がる。深く切ってしまったのか、なかなか血は止まらない。

(止血しなくては…)

そう思いつつも、愛する女の血の味は真澄の体内に抑えきれないほどの感情の昂ぶりを与える。

「来い、とりあえず血を止めるから…」

そう言って、マヤを立たせると、自らの口から解放したその小さな細い指先をマヤが持っていたふきんで押さえさせる。

リビングのソファーの上に座ると、拳を作った手を裏返し、人差し指だけつき出した状態でマヤは真澄のなすがままになっている。真澄は床に腰をおろした状態で、マヤの手首を片手で掴んだまま、もう片方の手で器用に救急箱をあさっていく。
傷口に振りかけられた消毒液よりも、先ほどの真澄の唾液の方が体に痺れを与えるがのごとく、見えない鎖でマヤの体を縛っていく。

(気付かないで欲しい…)

そう思っても、それは無理な注文であるというのが自分でも嫌というほどわかってしまう位に、指先が震えだす。パッケージを器用に口で破り、絆創膏を指先に貼ろうとした真澄の手が止まる。傍目にわかるほどのその指の震えは、マヤのそのいたいけな存在を顕わにし、真澄をも動揺させる。

「そんなに震えていたら、ズレてしまうだろう」

絆創膏の接着部のシートを外して、優しい声で言う。

「ご、ごめんなさい…。でも、止まらなくて…」

マヤは真っ赤になって俯く。

「深く切ったみたいだからな、痛いかもしれないが我慢しろ」

マヤは俯いたまま、首を左右に小さく振る。

「傷だったら、そんなに…、痛くはないです。大丈夫です…」

一向に震えの止まらないその指先に真澄は、絆創膏をかぶせる。テープ部分をぐるりと指先に一周させる時、やはり少しずれてしまって、テープ部に皺がよる。傷口の部分にはたちまち赤いしみが広がっていった。

「また、後で交換だ」

そう言ってようやくマヤの手を解放すると、ソファーの隣に腰掛けた。



「マヤ…」

そう言って、俯いたままで表情の見えないマヤの顔を伺うように、サイドの髪に手を伸ばし耳にかけてやる。露わになったマヤの頬は紅に染め抜かれ、そしてうっすらと目は潤んでいるほどだった。
逆らえないほどの強い欲望が真澄の中で渦を巻く。その汚れない純真さこそが、真澄の欲望を駆り立てる事をこの小さな少女はまだ知らない。
どうしようもなく惹かれる。思いが止められない。
それはまるでものが落ちる当たり前の引力のように…。

「俺が恐いのか?」

穏やかな声のそれに、マヤはビクリと反応してしまう。

「恐い…、かもしれません…。だって、アタシ、何にも知らないから…。速水さんはすごい大人でアタシよりも何でも知ってるから、アタシなんて速水さんにはきっとつまらないよ…」

震えるその声に、真澄はマヤを永久に自分の胸の中に閉じ込めてしまいたくなる。二度と彼女が震える事のないように、自分以外の誰もが彼女に触れないように、そして自分も彼女以外の誰にも触れたくないという意思表示を彼女に分かってもらうために…。
しかしそれは残された時間がわずかの自分には口にすることの出来ない約束であった。
マヤの背中の後ろに立つ置時計の針は、間もなく12時半を指そうとしてる。

(あと5日…)

真澄の中で最後の躊躇いと戸惑いと懺悔がゆっくりと、理性を引き裂いていく。

「マヤ、俺はここに来る前に、君に誓った。『君の嫌がる事は何一つしない』と。今でもその気持ちには変りは無い。
ゆっくりと君の気持ちを確かめ、ゆっくりと俺の気持ちを確かめてもらって、それから一つになりたかった。そうやって、君の不安を取り除いてやりたかった。
だが…、俺にはその時間がない」

俯いていたマヤがゆっくりと顔をあげ、真澄の方を向く。憂いを湛えた瞳の中の黒目の部分が大きく揺れる。

限界だった…。

「君が欲しい…」

真澄の体から迸り出たその掠れた言葉は、マヤの皮膚の上を滑らかに滑り落ち、愛撫の始まりへと姿を変えていく…。


...to be continued



2.9.2003








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